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葬られた秘密


#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門

 突然、背後で何か気配がしびくっとした。
 振り向くと、一瞬、さっと刃物が光りくらくらと目眩がした。そして気がついてみると私はたいそう有名になっていた。
―OO県XX市・・・、小6少女12歳。誘拐から5日目、現場から約2キロ離れた瀬沼(せぬま)で無事に保護。女児に怪我、衰弱はなし。無職石川治(いしかわおさむ)容疑者(53)は数か月前から下調べを繰り返し被害女児近辺で頻繫に目撃されていた。住人の一人が車のナンバーを覚えていたのが女児救出に繋がった。女児は5日間、一歩も外に出ず容疑者宅の離れに監禁され部屋は外側から施錠されており……―
 連日、中継リポーターは涙まじりに一人の女の子の身に起こったことを伝え、各紙一面トップで黒字に白抜きの大きな見出しが踊った。
 その間、世間が関心のある大事件が発生しなかったこともあり、少なくとも一週間、同じような文面を各紙が延々と書き立てた。
「なんてまた可哀想な」
「さあ、元気を出して。嫌なことはなにもかも忘れて、出来るだけ早く心の傷を癒すんだよ。もう二度とこんな怖い思いをすることはないのだから」
 と皆が声をふるわせて泣いた。
 しかし、学校からの帰り道のあの一瞬の眩しい目のくらみから、あたり一面真っ暗になり闇のなかに捜査員の微笑みが見えるまでの数日間の記憶が私には抜け落ちていた。
 私は知らぬ間に遠い場所にひとりでじっと立っていた。
「どんな感じ?」
 医師も私も静けさに耳を傾けて、ただ、机の上の白いカルテを見つめていた。私はゆっくりと瞬きをしながら何かを答えようとした。が、カルテに書き込むことなんてなにもない。だって、私、何も覚えてないんだもの。ずっと、ずっと、私、眠っていたんだもの。診察室に太陽の光が差し込んでいて銀色のトレーがゆらんと揺らめいた。ああ、その瞬間、私は暗い影に包まれていた。暗黒が私の視界を覆った。
 ベッドで目が覚めた。唇が乾いてかさかさになりぐっしょり寝汗をかいていた。母さんが熱いタオルで体中を丁寧に拭いてくれ、汗ばんだパジャマをかえてくれた。「きれいになれ。きれいになれ。もとの弥生(やよい)ちゃんになーれ」と泣きながら言う母さんのその声も手も震えていた。
 報道陣の垣根とフラッシュの嵐が去り、私はやっと学校に通えるようになった。しばらくの間、私には再びの悪夢を恐れるように誰かしらの信用の置ける護衛がついた。それは父さんだったり母さんだったり、家族ぐるみで付き合っていた知人、親戚の人だった。
「弥生ちゃーん」
 私を呼ぶ声が頭上で響いた。見ると、校舎の二階の窓から身を乗り出して正代(まさよ)ちゃんが手を振っていた。のっぽで勝気な正代ちゃんと、チビで引っ込み思案の私とは母親同士が仲良しということもあり何をするにもどこに行くのも一緒だった。事件のあったあの日に限って正代ちゃんは家の事情で早退していた。もし、あのとき正代ちゃんと一緒だったら……。私はこんなひどい目に遭わずに済んだかもしれない。
 監禁されている間中ずっと、私は意識もなく横になっていたと聞かされた。だが救出され我に戻ったとき私は裸で毛布にくるまれ誰かに抱きかかえられていた。誰かの手があまりにも優しく私をそっと撫でていた。その慈しみに満ちた優しさが、私の身に起きた不幸の大きさを教えてくれた。
 私は恐ろしさのせいで気を失っていただけ。私に変わったことなど何もなかった。そう、私は何度も自分に言い聞かせた。
 下駄箱に身をかがめたとき、正代ちゃんやクラスメートや先生たちが、
「よかった、よかった。ほんとうに、心配したんだから。怖かったでしょう、分かるよ……」
 と皆口々に言いながら、それでいてどこか探るような瞳の奥の好奇心を私に向けてきた。
「弥生ちゃん、よく頑張って学校に来たわね」
「はい……」 担任の大町(おおまち)先生だった。
 あの日、大町先生は病室の外で母さんと話しながら押し殺した声で泣いていた。その大町先生の秘めた心の声が何を言っているのか、子供心にもなんとなく察しがついた。
 12歳の私に決して起きてはならないことが、起こったのだ。
「弥生ちゃん。弥生ちゃんはしばらく保健室で自習しましょう。私の方から露子(つゆこ)先生によくお願いしてありますからね」
「……はい」 私は答えた。
「どうしてなの? 大町先生。どうして弥生ちゃんだけ保健室なの?」
 正代ちゃんがいかにも驚いたというふうに言った。大町先生は何も答えず黙っていたけど涙ぐんでいるように見えた。
 ……あのね、大町先生がなんとか説明しようとして顔を上げたとき授業が始まるチャイムが鳴った。とても柔らかい音色だった。
「弥生ちゃん、休み時間になったら保健室に行くからね」
 そう言いながら正代ちゃんはくるりと背を向けて6年2組の教室へと駆けていった。
 初夏の明るくすがすがしい日差しが廊下に行き渡っていた。校庭の桜はいつしか散って、枝々に萌えでた若葉がその色を深めて空に広がっていた。
 授業を邪魔することのないよう気を配り、ひとりきりでしんと静まった廊下を歩くとキュッ、キュッ、上履きのゴム底がピカピカに磨き上げられた床板で鳴った。椅子を引く音や笑い声、先生が誰かを指す声がとても懐かしかった。職員室を過ぎ、理科室を横切り、保健室に近づくとどこからか足音が近づいて来るのが聞こえた。
 すたすたと急ぎ足。
 それも小さな子どもの足音。足音は私に近づいてきて私の真ん前で立ち止まった。
「弥生ちゃん」 と私を呼ぶ声がした。
「弥生ちゃん」とその声はもう一度呼んだ。
「弥生ちゃん。あなたがあまりに遅いから心配になって来てみたら、私、すっかり驚いてしまわったわ。いったいどうしたの? 誰かあなたに酷いことでも言いましたか?」
 露子先生はそっと私の肩に手をやって、何とか助けてやれないものか、慰めてやれないものか、と思い悩んでいた。
「あの、あの」と私は口ごもった。
 さっき足音がしたのは気のせいだろうか。あれは夢だろうか。自分の足音を誰かの足音と取り違えたのだろうか。
 保健室は学校の北側、音楽室や家庭科室が並ぶ廊下の一番突き当りにあった。広過ぎず狭過ぎず。戸は一つ、窓はない。
 もしも、ここで、露子先生に自分の本当の気持ちを打ち明けても、しゃくり上げて泣いても何も心配することはないだろう。
 あれから、何かが変だ。皆が、周りの大人たちが言う真実は、真実ではない。心の中がとても不安。抜け落ちた記憶がうまく思い出すことができないからだ。私は隠れた真実に怯えていた。
「弥生ちゃんは少し具合が悪いだけです。しばらくすれば気分も元通りになります。そうなれば、又、お友達と一緒に勉強したり遊んだりできます」
 保健室の先生になってまだ日が浅い露子先生は屈みこんで、微笑んで、私をじっと見つめていた。
「……はい」 私は答えた。
「えっと……」、私は黄色いランドセルから、『新しい算数 6上』、ノート、筆箱を取り出した。106ページ(復習・5)3からだ。
  *3 線対称な形と点対称な形を書きましょう。
   <1> 直線ABが対称の軸
   <2> 点Oが対称の中心
 それぞれ3ミリの赤い方眼紙の右半分に答えを書き込むようになっていた。私は1ミリもはみ出さないよう定規と鉛筆を動かし始めた。
 とそのとき、さっきと同じように小さな子どもの足音がした。
 すたすた、すたすた。
 一体、なにをそんなに急いでいるのだろう。
 やがてその足音が廊下の外れに消えてしまうと、知らぬ間に戸口が開け放たれていた。すぐ横にいる露子先生の様子が気になった。すると露子先生は意外そうな顔で私を見つめ返して、「どうしたの?」と私のことを心配した。どうやら露子先生には足音はもちろん、不審な気配も出来事も聞こえない、感じ取っていないようだった。
 私は算数の勉強にもどった。
「ええっ!」
「どうしたの、弥生ちゃん。なにか……、何かあったの?」
 露子先生は私の気持ちを乱さないように慎重に言った。
「あのう、あのう……。なんでもないです」
 何でもないことなんかない。赤い方眼紙の中の私が引いた線の様子が変わっていたのだ。私は教科書を手に取って離してみたり近づけてみたりした。
 そのうちに線の先が3ミリ方眼紙の隅にかたまってちりちりとくすぶり始めた。そして、あっと言う間に赤からこげ茶へ変色していった。焦げ目からニッと顔を出したのがきかんそうな小さな男の子だった。
 それを見た私は急に胸あたりがひどく重苦しくなってきた。男の子は赤い舌をのぞかせて言葉のような不思議な声を発し、私に向かって何かを言っているのだけれど分からなかった。ごめんなさい。分かってあげられないことがとても苦しい。
 授業終了を告げるチャイムが鳴った。
 と同時に、正代ちゃんやクラスメートが数人保健室になだれ込んできた。皆の関心が興味本位からきていることに気付いていた。それはちょうど教室の棚に並んだ広口瓶の液体が一つだけ違う色になっていることに秘密めいたものを感じ取った女の子たちの敏感な嗅覚だった。そこに密やかに透けて見える大人の色が見えていたのかもしれない。
「何だか分からないけどすごく大変だったんだよね。もう、なんともないの?」
「うん」
「だってさ、ほら、私たちが知らないすごいこと経験しちゃったんだもんね弥生ちゃんは……」
 私は皆をぶん殴りたいほどイライラしてきた。同情しようとしながら楽しんでいるかのようにはしゃぐ女の子たちがひどく幼く思えた。それでいて、自分だけが取り返しがつかない過ちを犯した気分だった。
「ねえ、あなたたち、弥生ちゃんはすこし具合が悪いだけです。だから、ここで自習をしています。しばらくすれば元気になって、また、みんなと一緒に勉強したり遊んだりできるようになります。だから、それまで静かに待ちましょうね。ここにもこんなふうに来てはいけません。分かりましたか?」
 露子先生が厳しい命令の口調で言った。
 険しい表情と真剣さの間に、私の怯える真実が見え隠れしていた。明らかに露子先生は心を痛めるというよりは慌てていた。そこに、言ってはいけない真実が隠されている気がして仕方がなかった。
「はーい」 女の子たちは露子先生の言葉に素直にうなずき薄暗がりの廊下のなかへばたばたと消えていった。
 余計なことを考えなくていいのよ……。とでも言いたげな表情を浮かべる露子先生の目が私を必死でなだめていた。
「いいわね。あなたが悪いわけじゃないのよ」
 そう、言われても……。私はあいまいに頷き、書きかけていた算数の図形の続きをすることにした。いつの間にか図形の中の焦げ跡も、男の子も、ひっそりと気配を鎮めていた。
「ちょっと職員室へ行ってきます。すぐ戻ります」 露子先生が書類を持って立ち上がった。
 しばらく経って電話が鳴った。
 嫌だな、私ひとりきりのときに。呼び出し音は執拗に鳴り響いた。私はちらりと保健室の前からあたりを窺い、仕方なく受話器をとり、
「……はい」、と小さな声で言った。
 だが、相手は押し黙ったまま。
「露子先生はいません。私は6年2組の、神崎弥生です。あの、あの、どなたですか?どんな御用ですか?」
 だけど、受話器の向こうはひっそりと闇の底に沈んだまま。私はその闇の底を響かせる、すたすた、すたすた、あの小さな男の子の足音が聞こえぬかと耳を澄ませた。
 受話器を下すとすぐにまた電話が鳴った。
「はい、源(みなもと)です。あっ、はい、はい。はい、分かりました。弥生ちゃんにそう伝えます」
 いつの間にか露子先生が戻っていた。
「弥生ちゃん、少し早いんですけど今日はもうこれでお終いにしましょう。お家の方の都合で、これからお父様がお迎えにいらっしゃるそうです。先生がちゃんと玄関までお見送りします。忘れ物がないようにね」
 色白でショートカットの露子先生は優しい声でそう言った。
「はい」うつむいたまま露子先生のあとを静かに歩いた。職員室のそばを通るとき校門をくぐってくる"坊さんルック”の父さんのスクーターが見えた。黒いヘルメットと風にはためく法衣の裾が、まるで"仮面ライダー”の悪役のようだった。
 私の家は、「浄徳寺(じょうとくじ)」という浄土真宗の小さな寺で、父さんはそこの住職、母さんは坊守、そして私は一人娘で寺の跡取りだった。他に松村(まつむら)という、"坊さん”、兼、"人夫”、兼、"雑用係”といった年老いた人がいた。天涯孤独の身だとかで、寺の一隅に寝起きしていた。
「神崎です。いつも弥生が大変お世話をお掛けしております。すぐ近くで門徒さんの法事がありまして、このあと夕にはいろいろと立て込んでおりますので勝手を申しました」
 父さんは露子先生にしきりに頭を下げたり詫びを繰り返していた。そして、一つ息を吐いてから、
「……そうですか。一番大事なことは……」
 ひそひそ露子先生と話し込んで、あとは口の中でつぶやくような弱々しい声でよく聞こえなかった。
「それでは、私、ここで失礼いたします。弥生のこと、どうぞよろしくお願いします」
 父さんはぺこぺこ頭を下げた。
「さようなら、弥生ちゃん」
 初夏の日差しはまぶしく、校庭の木々は青々としていた。かぐわしい香りを運んで吹いてくる風が心地よい。風でもつれた髪を直す露子先生は、はっとするほど美しかった。父さんも顔を赤らめちゃって。
「さよなら、露子先生」
 校門まで二人で歩き道に出ると、父さんは子供用の可愛らしい銀色のヘルメットを私にかぶせた。
「それじゃあ、弥生。しっかり父さんに摑まっているんだよ」
「うん」このごろ父さんの腰にしがみつくとき、私はほとんど無意識的に身体が近づき過ぎないようにするようになった。それは照れ臭い、と言うよりは生理的嫌悪だった。急に胸あたりから腰あたりまで厚みが増し丸みを帯びてきた自身への、嫌悪だった。
「弥生、久しぶりだから、ちょっとその辺ひと回りしてみるか」
 というかスクーターはもうご機嫌で海の方へと走り出していた。
「うーん、でも、いいの?」
 そんな父さんはすっかり子供に戻っていた。
 黒尽くめのいでたちの悪人、御用、御用。"仮面ライダー”がすっ飛んできて、捕まったって、私、知らないよ。
 私と父さんは路面電車を追い越し、大きな工業団地に続く坂道を通って、穏やかな曲線を描く海岸沿いへと下りはじめた。
 対岸の小島を結ぶ、吊り橋を走った。
 風の音に紛れるように気持ちよく、熱く乾いたエンジン音が追っかけてくる。海からの風が私の頬を強く打ち、喉がヒリヒリと痛かった。
 私はいつの間にか父さんの背にぴったりくっついていた。父さんの体が揺れ、お香の香が漂った。父さんのいつもの匂い。
 だけど本当の父さんの匂いを私は知らない。いつも、このお香の香に邪魔されていたことを今まで私は気づかなかった。
 ドオッ、ドドド……。
 足元からスクーターの振動が這い上がってくる。父さんの背に寄りかかり、私は果てしなく広がる海をゆっくりと眺めていた。碧い海の波間をきらきらと真珠のように光がこぼれていた。
 小さな島はとても静かで、ずっと遠くまで波音がさらさらなっていた。
「弥生、海まで行ってみようか」
「うん」
 ……だけど、いいの?
 お寺で夕方からいろいろ立て込んでいるんじゃなかったっけ。まあ、いいや。母さんはしっかり者だし、松村さんもちょっと頼りないけどいちおう"坊さん"なんだから。
「父さん、裸足になって、海でバシャバシャやっても、いい?」
「……ああ、いいよ」
 言うが早いか私はもう父さんに背中を向け海辺へばたばたと駆けだした。 
 砂に足を取られながら少しずつ海に向かっているはずなのに、なぜか歩けば歩くほど海から遠ざかっていく感じがした。小さいスニーカーが白い砂浜におっぽり出され片足がひっくり返っていた。
 向かいの小さく丸みのある島もまたスニーカーの形をしていた。
「あれは、400年前の殉教の島だったんだよ」
 と、先代の住職(私のおじいちゃん)がいるころは社会科の先生だった父さんが得意気に近づいてきた。
「禁教下で……、うーん、わかる?」
「うん。私、父さんが思ってるよりずっと大人だし、誰に似たのか頭がいいもん」
「そうか、そうか、これは失敬。その禁教下で信仰に生きたこの島の人たちはとても悲惨な死を遂げたんだ。あの島の崖から突き落とされたり、処刑の後に絶対に生き返らないようにと焼き尽くした遺骨は、島の周辺の海に撒かれたんだ。
「ふーん。それだけ怖かったんだね、深い信仰を持った人たちが」
 この海はたくさんの命を吞み込んできたのだ。
 知らん顔で寄せては返すさざなみも、光もとどかぬ海のそこでは呻くような切なさが鳴り続けているのかもしれない。
 突然、"アンゼラスの鐘の音”が響き渡った。見上げると切り立った崖の上に海に向かって大きな十字架が掲げてあった。
「行ってみようか、あそこまで」
「うん」
 片側にチェーンのある急な勾配を父さんと私でスクーターを押して上がった。二人ともじっとり肌が汗ばみ、ふうふう息を吐いていた。薄暗がりを抜け崖の上に出ると、村の"寄り合い所”といった「小さな教会」があった。
 海から吹き上げる風のがけっぷちにあるので濃灰色に覆われた教会は、ひしゃげたように屋根が低かった。それらしい装飾もない。
 あるのは純粋な信仰のみ。それゆえに美しい気もした。
 そこから崖をぐるっと囲むようにして家々が立っているのが見えた。隠れキリシタンの末裔たちだ。この小さな教会が、人々の心のよりどころになっているのだ。あれこれ思いめぐらせていると、
「どなたか、おいでになりますか?」
 父さんが戸口の把手に手をかけて中を覗いていた。「ちょっと、失礼して」。戸口がギイーギイー音を立てた。暗い礼拝堂だった。
 平天井も祭壇も簡素で、鍵盤の黄ばんだミサ用の古いオルガンの蓋が開いたままになっていた。教会の前の木に、"アンゼラスの鐘”が吊るされていた。
 坂道を下りマリア像の前を通ると、女の子が二人、賛美歌を歌っていた。この子たちはさきほどの"小さな教会”の信徒で、"マリア様”に感謝する歌を歌いにやってくる。口を大きく開けて歌うあどけない透き通った声で、島はすっかり祝福の気配に包まれた。
 木立を透かし"ドンク岩”と呼ばれる、大きな岩が海に突き出ているのが見えた。ホント、「蛙」にそっくり。それも蟇蛙(ヒキガエル)。
 童話ではきまって、悪党だ。
 大きな耳腺と重たげな眼玉と醜いイボをいくつも持ち、夜、這い出てくるヤツ。なのにあの日、午下がりの学校の帰り道で、この悪党の蟇蛙は私を襲い、そして連れ去った。
 私はぐいぐい沼の中へ引っ込まれていった。気色の悪い赤い舌をちろちろさせ、蟇蛙は私の精気を吸い取り、体中を舐めまわす。灰白色の腹がうねるたび、私の髪は額にぺったり張りつきぐったりしていった。それから、蟇蛙はねっとりした白い有毒液を分泌し、私を気絶させた。
「弥生、弥生。どうした?顔が真っ青じゃないか。こんなにぶるぶる震えて。まさか、き、君、何か、思い出したんじゃないだろうね。そ、そんな馬鹿な。そんなことがあってたまるもんか」
 父さんは心を痛めていた。私が思うよりもずっと激しく傷ついていた。突然、音もなくまだ幼い娘の中へ入ってきた大きな黒い影に、足を踏み鳴らし、刃で切りかかり、大声で泣き叫んでいたのだ。
 だがしかし、だから今さらどうなる。
 私は、『葬られた秘密』を、けっして掘り起こしてはならないと、強く思った。
 それが、私の幸せ。
 それが、父さんや母さんの幸せ。
 それが……、皆の幸せ。
しばらく時間が過ぎた。
「弥生、帰ろう」 「……うん」
 吊り橋に向かう途中に、「OO教会下」というバス停があり、木造のベンチに一人のお坊さんがいて、その横に涎掛けをした2、3歳の小児が腰かけていた。二人はぴくりとも動かず同じ姿勢で座っていた。やがてバスが来ると、二人は乗り込んだのだが、ちらりと振り向いた小児はあのきかんそうな男の子だった。
 私は思わずあっと小さく叫んだ。男の子を乗せたバスを、私は黙っていつまでも見つめていた。もしかしたら、あの子が暮らしているのはあの辺りではないかと、私は海沿いの小さな家々を見やった。どこか哀しげな瞳だった。町のざわめきは遠く、ときおり大空から鳶の鳴く声が聞こえてくるだけだった。山の頂をあかね色の夕焼雲がやさしく包み込んでいた。
「おおっ、しまった。今夜は寺で田村のおばあちゃんの通夜があるんだった。えーと、なになに?今、何時だ。おおっ、もう六時をかーるく過ぎてるじゃないか。急げ、弥生。父さんにしっかりと摑まってるんだぞ」
「うん」
 父さんは時計へ目を走らせると、めいっぱいアクセルを開けた。
 ブオーン、ドオッ、ドドド……。
 吊り橋を渡り市街に入り公会堂を抜けるとコンクリ-トの建物と街並みの中にぽつぽつと寺の大屋根が見えはじめる。その墓地下へ抜ける裏道に差し掛かったとき、突然、
「神崎弥生ちゃん、ですよね」
 遠慮のない男の声が私の名をフルネームで呼んだ。
「神崎弥生ちゃん」
 私は相手が好ましくない人間だとすぐ分かった。私は返事をしなかった。
 するとその声は、
「神崎弥生ちゃん、だよね」と脅すような口調になった。
「なっ、なんだ、あんた。うちの娘にいったい何の用があるんだ」と父さんは涙交じりに声を震わせて叫んだ。
「おっと、これはどーも、大変失礼しちゃいましたね。俺、『週刊 夢窓』の本多。通称ポンちゃん。まあ、業界じゃあ、俺のこと、"すっぽんのポンちゃん”って言ってね、これと狙った獲物に食らいついて、梃子でも離しゃあしないの。まあ、そーいうこと」
 男は瞳に鋭い光を湛えていやらしい笑顔を浮かべている。
「どーいう、ことなんだ、おい!」
 父さんは男を睨みつけ、いまにも殴りかかりそうな勢いだった。
「まー、まー、そうカッ、カッしなさんなっ、て。実はねー、これなんだけどさあー。なんか変だろう?誰も、こんな記事、そのまま信じないよ。鵜吞みにしないって、こと。だからさ。ホントのこと、聞かしてほしいわけよ。そしたら、悪いようにはしないからさ。じゃあなかったら、あること、ないこと、てきとーに、書くぜ」
 ニヤリとした口元からのぞく黄ばんだ歯は不潔そのもの。いやらしい。きたならしい。
 ―xx女児監禁、再逮捕
 OO地検は、5日間にわたり小6の女児、(12)を自宅に閉じ込めた監禁の罪で、無職石川治容疑者(53)を起訴。xx署捜査本部は"わいせつ目的”略取容疑で再逮捕。ただし、保護後、OO大学病院に検査入院した女児に、わいせつの被害は認められなかった。女児は現在順調に日常を取り戻し……―
 事件のあと、しばらくして新聞に載った記事だった。
「てなわけ、ないだろう。弥生ちゃん、閉じ込められてるときさあ、何があったのかおじちゃんに教えてほしい、てわけよ。弥生ちゃん、救出されたときパジャマ姿だったんだろう。小学校の制服、自分で脱いだの?ひとりで?知らないおじさん、そのとき、何してたの?もしかして……」
「やめろ、やめろ!お前、それ以上言ったら、只事ではすまんぞ。ぶっ殺すぞ。そもそも、この子は神崎弥生とかいう子じゃない」
「ほ、ほおう。俺らを甘く見ちゃいけませんぜ。"浄徳寺“ご住職、神崎貢(みつぐ)さん。なにもかも、ちゃんと調べはついてるんですよ。それに、あんた、坊さんだろ。かりにも坊主が"殺すぞ”、そりゃあ、ないんじゃないないの。それも、ちょっと彩り、てやつ?なんなら書いてもいいんだぜ。今日はこの辺にしときますか。これからも、ヨロシク。俺の大事な大事なハニーちゃんに嫌われたくないもの。さよなら、弥生ちゃん」
「コノヤロー、まだ、言うか!」
「おっと、と、と。大事なこと、すっかり忘れるとこだったぜ」
男はフラッシュをかざし、唸るようにカメラのシャッターを押した。
 フラッシュがまぶしくてならない。私は目を開けていられなかった。
「よせ、よせ。頼むから、これ以上、弥生を苦しめんでくれ。頼む、頼むから、そっとしておいてくれないか」
「ほおー、あんた、今、自分で認めたね。その子が、弥生ちゃんだってさ。誘拐され、監禁された女の子、神崎弥生、だってさ。写真ができたら送るよ。なんせ、あんたとこの弥生ちゃん、可愛いいもんなあ。いやあー、可愛いというより、きれいだ。色が白くてむちむちしててさ。美少女、てヤツ?」
 なおもシャッターを押し、何かを叫び、男は笑いながら駆けていった。
「なあ、弥生。今の男の言った事なんか、信じるんじゃないよ。"誘拐”、なんて、なんか秘密めいた匂いがするだろう。世の中にはね、それを面白おかしく思う人間がいるというのも事実なんだ。だから、ああいう連中の商売も成り立つってもんなんだ。気にするんじゃない。忘れろ。何もかも忘れるんだ。弥生はなんにも、悪くないんだから」
「うん」 私はそう答えるしかなかった。それだけ言うのが、私にはせいいっぱいだった。
 境内の親鸞様の像のそばにスクーターを停めると本堂から低く読経の声が流れてきた。遅くなってしまった父さんの代わりに、松村さんが田村のおばあちゃんの通夜を務めているのだ。恐らく、孫の法子(のりこ)もいるだろう。
 法子は私と同じクラスだが、私はあまり好きじゃない。我慢できないほど嫌い、というわけでもないけれど、私は彼女の"なんでも上手”が嫌いなのだ。上手に小6少女12歳で、上手に人と話を合わせ、上手にお利口さん。校内規則をきちんと守り、勉強も運動もできる。そして、先生や大人たちに擦り寄るのも実に上手い。
 おまけに、法子こそ正真正銘の美少女なのだ。色白で目鼻立ちが整い、しかもその輪郭もくっきりしている。それに比べれば私なんか、まあ見ようによっては可愛らしい、せいぜいその程度だ。
 なのに、なぜ、私だったのだろう。
 本堂の広い畳敷きの間に大勢の人が集まっていた。やっぱりその中ほどに、いかにも辛そうにうつむく法子がいた。
 どうか人の目に触れませんようにと、そっと廊下の端を歩く私を見て、あっちでこそこそ、こっちでこそこそ、低い声で囁きあっているのが聞こえた。袈裟をつけた急ぎ足の父さんが松村さんの横にすわり、それと同時に衣擦れの音を立て松村さんが下がっていった。
 法子が伏した美しい顔の下からじっと私を見つめていた。
 この私に、噓は通用しないよ。
 どんなに隠したってさ、なにもかもお見通しだよ、弥生ちゃん。
 法子の冷たい視線が私に纏わりつく。
 重い足取りで階段を数段上ると、父さんの読経の声が驚くほど大きくなった。
 部屋で一人になるとどっと疲れが出て、私は敷いてあった布団に横になった。しくしく泣いていたらそのまま眠りに落ちた。しばらくまどろんでいると襖がそっと開いて母さんが入ってきた。
「弥生、弥生ちゃん。夕方、正代ちゃんが来て、大町先生から言付かったって、これ、持ってきてくれたの。弥生があんまり遅いから痺れを切らして帰っちゃった。神島まで行ったんだってね。それから、なんか変な男が弥生に酷いことを……。ホントに大丈夫なの?何だったらもうしばらく学校を休んだっていいんだし。母さん、大町先生ともよく相談したのよ。どうしてもね、公開捜査に踏み切る以上、顔写真が必要だって言われて、あの、それで、ああいうことになっちゃったのよ。ごめん、弥生。写真が全国ネットで流れたこと、母さん、少し後悔してる。ただ、ただね。ただ、なんとしても弥生をこの手に取り戻したかった。だけどそのせいで、弥生がとっても辛いことになってしまっている……、ごめん、弥生。ごめんね、弥生。だけど、これだけは覚えておいて。何があっても、どんなことがあっても、たとえ世間の人がどんな陰口をたたいても、父さんと母さんだけは、弥生の味方だからね」
 母さんは一度思いを吐き出すと次から次から溢れ、言葉と涙が止まらなくなった。
 しかし、田村のおばあちゃんの通夜で忙しい最中の坊守の母さんが、いつまでもここでめそめそしているわけにはいかない。うつむいていた顔を上げた母さんは、ティッシュを2,3枚摑み、チーンと洟をかみ涙を拭いた。だけど、拭いても、すぐ洟が出て涙が零れる。なんとか気持ちを落ち着けようと、母さんは何の関係もない法子ちゃんのことを話題にした。
「……法子ちゃん、来てるよ。確か同じクラスじゃなかった?しっかりしたいい子だもんね、法子ちゃん。勉強はできるし、お行儀がいいし。ここへ一度も遊びに来たことないけど、弥生、法子ちゃんとは仲がいいの?」
「うーん、そうでもない」
「あら、そ、そう。田村のおばあちゃん、うちの法ちゃん、法ちゃん、ってよく自慢してたもんね」
 私は少しいらいらしているのに、母さんは必要以上に熱心に法子ちゃんの話をつづけた。
「じゃあ、下に行くわね」なんとか涙も乾いたようだ。
 とんとんと、階段をくだっていく母さんの足音が聞こえた。
 正代ちゃんが持ってきたのは理科のプリントだった。大町先生からのメモ紙がクリップで留めてあった。しっかりとした文字と言葉で、いかにも大町先生らしい励ましが書いてあった。
 *ものの燃え方と空気
―マッチやロウソクに火をつけて、口の広い瓶に入れると、火は消えないで燃え続ける。瓶の口に蓋をすると、マッチの炎は次第に小さくなって消える。そのあとに、燃えているロウソクを入れると、蓋をしなくても火が消えてしまう。このように、木やロウソクが燃えたり消えたりするのはなぜだろうか。―
 私は自分が、この広口瓶の中に、ポツンと一人取り残されている気がした。いくらマッチを擦っても、腐臭の満ちた広口瓶の中では炎を上げ続けることはできないのだ。
 ならば、いっそ、その広口瓶を叩き壊したほうがいい。
 次の日、私は松村さんの運転する寺の車のマーチで登校した。正面玄関のところで露子先生が私を待っていてくれた。
「おはよう、弥生ちゃん。何も変わったこと、ないわね?」
 露子先生はにこにこしながら私の様子を眺め、運転席の松村さんにちょっと会釈をした。
「はい、ありません」 私は答えた。
 算数の線対称な形の線のつづきを書こうと定規と鉛筆を動かし始めた、そのとき、聞き覚えのある小さな子どもの足音がした。
 すたすた、すたすた。
 足音は私に近づいてき、机を軽々と越えて算数の教科書の赤い3ミリ方眼の真上で立ち止まった。と同時に、書きかけの線がじりじり動こうとしていた。
 すっ、すっ。
 線は勝手に、対象の軸、直線ABからどんどん離れながら進んでいく。そこに、さっきから息を潜めていた足音が重なった。
 すっ、すっ。すたすた、すたすた。
 やがて、こげ茶に変色した方眼紙の隅に立ち止まった二つの足音は、真っ黒い穴の中へ墜ちていった。
 そこから、"アンゼラスの鐘の音”が、大きく「カーン」、小さく「カン、カン、カーン」と鳴り響いた。あの男の子が暮らす小さな海沿いの村にもこの清らかで美しい"鐘の音”がとどいているだろうか。どこか哀しげな瞳を、祝福で満たしてやってはくれまいか。
「弥生ちゃーん」 下駄箱で上履きを運動靴に履き替えていると、松村さんが陽に焼けた笑顔でこちらに近づいてきた。
「弥生ちゃん、今日はお寺の車、お父さんが使ってるからおじちゃんと一緒に歩いて帰ろう。お天気もいいし」
「うん」 私はつかず離れず、松村さんの後ろをちょこちょこ歩いた。松村さんの足取りは軽やかで、とても70歳をとうに越えているとは思えなかった。寺へ向かう小道にある西法寺の境内に、葉を茂らせ見事に花を咲かせた卯木が白い花垣になっていた。
「きれいだね、弥生ちゃん」
 ほんとうに……、そう言おうとしたのに、白くてふわっとした花垣から、カメラのシャッターを押す連続音がし、フラッシュが私に向けて激しい光を放った。
「おんどれ、なんばしよっとや。こげな幼気な子に。いい加減にせんかい」
 いつもは話しかけるとおだやかな松村さんが、履いていた草履を"すっぽんのポンちゃん”目掛けて投げつけた。
「おっと、危ない、危ない。こっちは体が資本。大事な商売道具だからね。おいそれと、やられるわけにはいかないのよ。それにしても驚いた。"浄徳寺“僧侶、松村程道(のりみち)さん。あんた、今の啖呵、素人さんじゃないよね。昔はその筋の人だね?こりゃあ面白くなってきたぞ、よいよいよい。"すっぽんのポンちゃん"、はりきっちゃうよ。それにしても、"浄徳寺”は物騒な寺だぜ。住職さんは俺を"ぶっ殺すぞ"と脅しつけるしさあ、松村さんは元、へへへ……。そこんとこへもってきて大事な嬢ちゃんは、あれだろ……。へへへ……。可愛いよ、ね。ホントに。可愛いというより急に綺麗になっちゃってよ。この、この……」
「なにゅう、抜かしくさっとんじゃ‼」
 言うが早いか松村さんの強烈なパンチが、"すっぽんのポンちゃん”の腹あたりにストレートに決まった。
 んごおごおごー。"すっぽんのポンちゃん”はひっつるような声を出しふらふらっとへたり込んだ。だがすぐ、ふらふらと立ち上がり、
「おっ、おっ、覚えてろよ。このままじゃすまんぞ。お前さんの素性もきっちり調べて、あることないこと週刊誌に書き立ててやるからな。"件の少女”と、"暴力坊主のいる寺”なんて、あんたたち、又々、世間のかっこうの餌食だぜ。ふん、ざまあみやがれ。いてて……」
 最後っ屁をした"すっぽんのポンちゃん”はのたくって逃げて行った。
「あーん、あんあん。あーん、あんあん……」
 鋭い痛みが、私を打ちのめした。
「あーん、あーん、あーん、あーん……」
 息苦しく、身体中が震えてどうしようもなかった。
 あーん、あーん、あーん。
 あーん、あーん、あんあんあん……。
 私は涙が止まらなくなってしまった。
「ああ、かわいそうになあ、弥生ちゃん。おお、よしよし」
 私の体がへなへなとなり、松村さんは慌てて駆け寄ってきて私を抱きとめた。
 あーん、あーん。
 それでも私の涙は止まらなかった。
「弥生ちゃん。おじちゃんの背におんぶされな。いいから、このままじゃ家に帰れないからさ。さあ、遠慮せんで、おじちゃんにおぶされな」
 あーん、あーん。私は松村さんにおぶさられて家まで帰った。あーん、あーん。ずっと、ずっと、私の涙は止まらなかった。
「坊守さーん、坊守さーん」
 松村さんは背の私の体をとんとんして、寺のほうに向かって叫んだ。
「あっ、坊守さん。実は……」 それを聞くと母さんはもうおろおろした。
 あーん、あーん。その間も私の涙は止まらなかった。
 あーん、あーん、あーん……。
 そのまま何日か起き上がることができなかった。明かりもつけずに天井の板目を見つめながら、私は辛かったことをあれこれ思い出し涙をこぼしていた。怖い、怖い。皆、怖い。私は涙の中に顔をうずめなかなか顔を上げようとしなかった。
 それでも少しずつ、境内の木々の葉擦れの音や鳥の鳴き声、父さんや松村さんの読経の声、急ぎ足の音、などが私の耳に聞こえるようになった。
 襖を開ける音がした。
「弥生、弥生。今日は高梨(たかなし)先生の診察の日なんだけど……。どうする?先生には、弥生の様子をお話ししておいたの。そしたら何とか来てほしい、て」
 救出された私は体のあちこちを検査され、最後に行ったのが6階の高梨先生の診察室だった。それが一番適切な方法なのかどうかは分からないが、私はカプセルの中に入った。不思議な曲が流れていた。聞いているうちに、何もかもが眠りについた。そう、あの忌まわしい記憶さえも。
 七月になると私は、保健室と教室を言ったり来たりできるようになった。ただ、一瞬光るものが瞳に飛び込んでくると相変わらずパニックが起きた。  その度、保健室に逆戻りになった。
 今、6年2組の皆が、特に男の子たちの最大の関心ごとは、女の子のブラウスの後ろに一本線が透けて見えるかどうかということだった。男の子は、静かに膨らむ乙女の胸が顔を赤らめるほど魅力的なのだ。ブラをつけるということはそういうことだ。そして、女の子たちはトイレに向かうとき、屈みこんでスカートのポケットに生理用品を隠し持つ者がいないかと素早いチェックを入れる。女の子の体が大人になるということは、生理的嫌悪と何となく艶めいた春の訪れなのだ。
 夏休みが終わり、しばらくたって五時間目に男の子は男の子だけ。女の子は女の子だけ一室に集められ、露子先生から『女性と男性の体の仕組みと働きについて』というお話があった。教室は軽くざわめき、女の子たちはニヤッと笑ったり、いやだ、いやだという手つきをして顔を見合わせていた。男の子たちは同性の体育の先生、杉内先生がお話をした。
 露子先生はこの日のためにずいぶん準備をしてきたのだろう。
「皆、今日は、こんなに静かに先生のお話を聞いてくれてありがとう」と、ちょっと胸を詰まらせて礼を述べた。
 家に戻ると、私はベッドにごろんと寝っ転がった。蛍光灯の灯りが弱々しい。ランドセルから露子先生のプリントを取り出した。
「妊娠」、「赤ちゃん」……、男の子。
 私は、事件後はじめて登校した日に聞こえた足音から、算数の教科書の中からニッと顔を出したきかんそうな男の子のこと、神島の教会下のバス停に腰かけていた涎掛けをした小児のことを思った。男の子は私の心の中にポツンと立っていた。
 空は高くさわやかに空気が澄み、すっかり秋らしくなったころ、学校で身体検査があった。服装は体操着。私たち女の子は名前順に10人ほどが保健室に入り、身長、体重、胸囲、などの測定や校医の中尾先生の診断を受けた。それを大町先生が一つ一つ記入していた。
「新井貞子、身長OOセンチ、体重xxキロ、胸囲OOセンチ、はい、次……」
 露子先生はてきぱきと測定し、次々に中尾先生にバトンタッチしていった。乙女たちはくすくす笑いながら、それでいて、互いの下着姿の静かな膨らみが気になって仕方がなかった。
「神崎弥生、OO、xx、OO、はい、次」
 露子先生の巻き尺がくるくる戻りはじめたとき、私のお腹の何かが弾けた。
 うう-ん、ううーん。熱い痛みが走り、ブルマーのゴムがぱちんと切れ、ううーん、何かが迫り出してくる感じ。
 ううーん、ううーん。
 ブルマーもパンツも足元に落ちてしまった。
「うっ、うわあ-! 弥生ちゃん、弥生ちゃん、それっ」
 そ、そんなこと言われなくても分かっている。ぐい、ぐい。私のお腹は膨らみつづけ、どんなに手で押さえても、ぐいぐい大きく、大きくなっていく。私は必死で全身を映す鏡の前に立った。
 あの子だ。
 迫り出したお腹から、あの子がまっすぐに私めがけて歩いてくる。据わった目でじっと私を見つめたまま。
 フラッシュがたかれ、唸るようなカメラのシャッター音がする。
「やったぜ。とうとう、決定的瞬間を撮ったぞ。大スクープ、ありがとさーん」
 "すっぽんのポンちゃん”は奇声を発し、小躍りして喜んだ。
 まぶしい。くらくらと目眩がする。
 瞼が震え、唇が震え、身体中が震え、私は目を開けていられなかった。

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