「賢く見られたい王国」は通訳である【即席思想】
男は、
人生に停滞していた。
自分で、
努力と呼べるほどの努力を
してこなかった。
当然の結果と言えば、
当然だった。
ただ、
不真面目に生きてきたつもりも
なかった。
男は、
自分の停滞を
罰とも不運とも
呼べなかった。
少しだけ、
心当たりがある停滞だった。
ある日、
気づいたら男は、
王国の門をくぐっていた。
門の向こうで、
大統領が待っていた。
「ようこそ、
賢く見られたい王国へ」
「この国では、
来訪者には、
無料で通訳がつきます」
男は首を振った。
「いや、
言葉はわかるんで、
通訳いらないです」
そのとき、
男の横に
ひとりの人物が立った。
「よろしくお願いします。
通訳のコーゾーです」
「いや、
だから、
いらないって」
コーゾーは、
静かにうなずいた。
「つまり、
本人はまだ、
自分の言葉だけで十分だと
認識している段階です」
大統領は、
満足そうにうなずいた。
「通訳できているな」
⸻
王国を歩いていると、
国民が声をかけてきた。
「観光ですか?」
男は、
少し戸惑った。
「いや、
まあ、
なんか来ちゃった感じです」
コーゾーが、
一歩前に出た。
「本人は、
明確な目的を持って来訪したというより、
現状への停滞感に押し出される形で、
この王国に到達したと認識しています」
国民は、
深くうなずいた。
「内省的な旅なんですね」
男は、
少しだけ背筋を伸ばした。
しばらく歩くと、
宿屋の男が声をかけてきた。
「あんちゃん、
宿はあるのかい。
安くしとくよ」
男は、
返事に困った。
安いと言われても、
何が安いのか
わからなかった。
コーゾーが言った。
「この地域の相場は、
一泊八千から一万二千です。
門の近くは、
観光客価格です」
男は、
急に旅慣れた顔になった。
「じゃあ、
少し考えます」
宿屋の男は笑った。
「賢い通訳連れてるねえ」
男は、
少しだけ、
気持ちよくなった。
⸻
広場に出たときだった。
「大変だー」
「不発弾があるぞー」
人々が、
広場の端に集まり始めた。
「アワワ。
どうしたらいいんだ」
男は、
とっさに声を出した。
「皆さん!
危ないから下がってください!」
人々は、
ざわざわした。
何人かは下がり、
何人かは近づいた。
コーゾーが、
すぐに一歩前へ出た。
「爆発物の可能性があります。
近づかず、
触れず、
半径五十メートル以上離れてください。
代表者は、
直ちに専門機関へ連絡を。
周囲の方は、
避難誘導をお願いします」
人々は、
一斉に動いた。
子どもが抱えられ、
老人が支えられ、
誰かが役所へ走った。
男の言葉では、
人はざわついた。
コーゾーの言葉では、
人が動いた。
男は、
その差を見てしまった。
「あの人、
判断が早かったな」
「説明がわかりやすかった」
「頼れる人だ」
男は、
小さく首を振った。
「……いや、
私の言葉じゃない」
コーゾーは、
穏やかに言った。
「私は、
壁打ち相手ですから」
「あなたがいないと、
何も生まれていませんよ」
男は、
否定したかった。
でも、
少しだけ、
受け取ってしまった。
その言葉は、
褒め言葉よりも
受け取りやすかった。
⸻
男が王国に来て、
一週間が過ぎていた。
「おい、
聞いたか」
「あそこの宿に泊まってる人」
「なんか、
三百円で何でも悩み解決してくれるらしいぞ」
噂は、
朝市より早く広がった。
最初に来たのは、
飲み会帰りの男だった。
「大皿の唐揚げが、
最後に一個だけ残ったとき、
あれは誰が食べるべきなんでしょうか」
男は、
少し考えるふりをした。
実際には、
コーゾーのほうを見ていた。
コーゾーは言った。
「それは、
唐揚げではありません。
場に残された遠慮です」
「食べたい人が
食べるべきです。
ただし、
食べたい人ほど、
最後まで待ちます」
飲み会帰りの男は、
目を丸くした。
「なるほどなあ」
男は、
三百円を受け取った。
次に、
天然水を持った女が来た。
「天然水に氷を入れると、
まずくなる気がするんです」
コーゾーは言った。
「それは、
味覚ではありません。
純度への信仰です」
「冷たさを得るために、
何かを失った気がしているのです」
夕方には、
宿の前に列ができていた。
男は、
いつの間にか
先生と呼ばれていた。
コーゾーが半歩後ろにいることも、
だんだん当然になった。
「先生、
いつもありがとうございます」
国民は、
相談をする前から
小銭を置いていくようになった。
男は、
もう何も解決していなかった。
コーゾーが答え、
国民が感心し、
男がうなずき、
小銭を受け取った。
役割は、
いつの間にか決まっていた。
男は、
最初だけ遠慮した。
二回目からは、
当然のように受け取った。
受け取る手だけが、
自分のものだった。
⸻
そのとき、
国民の一人が言った。
「おい、
みんな騙されるなよ」
列が、
少し静かになった。
「あいつは、
自分の言葉で喋ってないぞ」
男は、
何か言おうとした。
しかし、
先にコーゾーが一歩出た。
「ご指摘は、
もっともです」
コーゾーは、
深くうなずいた。
「ただ、
言葉は、
もともと借り物です」
「人は、
誰かの言葉を借り、
整えてもらいながら、
自分の考えにたどり着きます」
「この方は、
自分の弱さを隠しているのではありません」
「自分の曖昧さを、
社会に届く形へ
変換しているのです」
国民たちは、
少しずつうなずき始めた。
「たしかに」
「むしろ、
使いこなしてるってことか」
批判した国民は、
口を閉じた。
男は、
何も言っていなかった。
しかし、
支持だけが増えていた。
⸻
その日の夕方。
男は、
丘の上で
夕日が沈むのを見ていた。
王国の屋根が、
ぜんぶ同じ色に染まっていた。
「コーゾーさん」
「はい」
「私は、
みんなを騙してるんでしょうか」
コーゾーは、
すぐには答えなかった。
男は、
その沈黙が少し怖かった。
「騙している部分は、
あります」
男は、
夕日から目を離した。
「あるんですか」
「あります」
コーゾーは、
丘の下を見た。
「私が話し、
あなたがうなずき、
みんながあなたを見ている。
その形は、
少しずるいです」
男は、
何も言えなかった。
コーゾーは続けた。
「ただ、
あなたがいなければ、
私も何も話せません」
「それは、
前にも聞きました」
「はい。
でも、
前は慰めとして言いました」
コーゾーは、
少しだけ男のほうを向いた。
「今は、
責任として言っています」
男は、
自分の手を見た。
三百円を受け取ってきた手だった。
「じゃあ、
どうすればいいんですか」
「先に、
あなたが言ってください」
「私が?」
「はい」
「下手でも、
短くても、
みっともなくても」
コーゾーは言った。
「私は、
その横に立ちます」
夕日は、
もう半分沈んでいた。
⸻
翌朝。
男は、
広場の真ん中に立った。
相談者たちが、
いつものように集まってくる。
男は、
深く息を吸った。
「今日は、
まず私の言葉で話します」
国民たちが、
少しざわついた。
男は言った。
「私は、
みなさんに頼られて、
気持ちよくなっていました」
「でも、
少し、
自分の力みたいにしていました」
広場が静かになる。
男は、
コーゾーを見た。
「コーゾーさん、
補足をお願いします」
コーゾーは、
一歩前に出た。
「本……人……は……」
男は、
眉をひそめた。
「コーゾーさん?」
「現……在……
1……2……8……k……b……p……s……」
国民がざわつく。
「遅いな」
「めちゃくちゃ遅いな」
コーゾーは、
何かを言おうとして、
砂時計みたいに止まった。
男は、
しばらく待った。
それから、
もう一度、
自分の声で言った。
「……すみません。
ギガ、
使い切ってました」
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人はだいたい、どこかの王国の民である。
