短編小説【雪催いの告白】最終話
柏先生の手のひらに乗せられた、小さな楕円形の赤い果実。うっすら溶け始めた表面が明るい照明を照り返して、まるで宝石のようだった。
「それをそのまま口に入れて、噛まずに飴をなめるみたいに舌の上で転がしていてください。種以外は食べちゃって大丈夫なので、舌全体になじませる感じで」
「はい。では、いただきます」
彼女がモゴモゴしている間に、ヨーグルトの準備とミラクルフルーツの解説をする。
ミラクルフルーツには、「ミラクリン」というタンパク質が含まれている。
このミラクリンが舌の味蕾…つまり味を感じる細胞に結合すると、酸性下で甘味を感じる味蕾を活性化させるという働きをするのだ。
「これを「味覚修飾活性」といいます」
「ええと…つまり?」
「要は「酸っぱいものが甘くなる」んです」
「ええ?ホントに?」
「本当です」
レモンもお酢も梅干しもヨーグルトも、酸味のあるものがことごとく甘く感じるのだ。
「食べ終わりました?」
「一応。ミラクルフルーツ自体はミラクルな感じがしませんけど…」
「確かに味はしないって言われてますね。それじゃ、この無糖ヨーグルトをどうぞ」
「…」
神妙な…というか、明らかに「無糖はちょっとなぁ」…と言いたげな表情でヨーグルトを一口食べた柏先生は、スプーンを口に入れたまま目を丸くしてフリーズした。
「…ミラクル、起きました?」
俺の問いかけに、首がもげそうな勢いで頷いている。
どうやら実験は成功したらしい。
「起きました!無糖なのに甘い!なにこれ」
沙羅が俺の横でくすくす笑っている。
「柏先生って、反応がかわいいですよね」
「…まったくもって同感」
もう一口ヨーグルトを食べながら柏先生が首を傾げているので、沙羅の言葉をそのまま伝える。
「生徒にかわいいと言われる教師って…」
「褒め言葉ですよ。だよね?」
「当たり前じゃないですか。そういう素直な反応が上杉先生の心をわしづかみにしてるんですから」
…そういうことは言わなくていい。
もちろん聞こえてないのをいいことに通訳はしない。
「俺としても、実験に素直に反応してくれるのは嬉しいです」
「……返す言葉に困るんですけど…」
そう言いながら、もう一口。
どうやら柏先生は「加糖に感じる無糖ヨーグルト」を気に入ったらしい。
「それ、全部食べちゃっていいですからね。ちなみに30分から1時間くらいこの効果は続きます」
「他の味は変わらないんですか?」
「はい。酸味だけが変化するんです。沙羅さん達にはレモンの輪切りを食べてもらいましたよ」
「甘いレモンも魅力的かも…」
「夏にまた実がなれば、挑戦してみます?」
「はい、ぜひ!」
瞳をキラキラさせている柏先生に、沙羅は両手で顔を押さえて「…私、もうあてられそうです…」と理科室へ逃げて行った。
…ちょっと気持ちは分かるな。
「ホントに不思議です。あんな小さい実で感じ方が全然変わるなんて」
柏先生はヨーグルトを食べ終えて満足気に呟いた。
「…ミラクルフルーツと一緒で、小さいきっかけで変わるものなのかもしれないですよ」
「……何がですか?」
「上杉先生の体質への考え方です」
「え…」
「きっと、私が想像する以上に視えることで苦労されてきたんだろうし、先生の考え方を無理に変えようとは思いませんけど…。少なくとも私は、今日先生のことを知れて、沙羅さんと間接的にでも話ができてよかったと思います」
「…」
どう答えていいか分からなかったが…。
なんだろう。
ほんの少しだけ、心が軽くなった気がした。
「先生、雪が本降りになってきてますよ」
理科室から沙羅の声が聞こえた。
俺の反応に柏先生は沙羅が喋っているのを察したようだ。「彼女はなんて言ってます?」と聞いてくる。
「外、本降りになってるそうです」
「えぇ…また積もっちゃいますね」
「今日はもう片付けて帰りましょう。…このままだと、帰る前にまた除雪なんて話になります」
温室の温度を再確認して荷物をまとめると、年明けにまた顔を出すという沙羅とはその場で別れた。
積雪を気にせず行き来できるのは少し羨ましいが、さすがにそれは口にしない。
沙羅の言う通り、外は新たに降った雪で覆われてしまっていた。
「あの、上杉先生。…帰りながらでいいので少し聞かせてください」
「はい」
「沙羅さんとは学校でずっと一緒だったって…屋上で流星群を見たときもですか?」
「いましたよ。ずっと柏先生の隣で星を見ていました」
足跡がすっかり消えてしまった敷地を、2人でゆっくり歩きながら語る。
「…ちなみに文化祭も?」
「ええと…確か、沙奈さんが展示の相談にきた日と、当日見に来てました。プラネタリウムとあの壁を見て感動してましたね」
「…結構頻繁に来てるんですね」
「頻度としてはだいたい1、2ヶ月に1回くらいです」
何となくだが柏先生の言いたいことがわかったので。
「…見えない相手への不安はありますよね。…でも、沙羅さんは相手のプライバシーには配慮してくれるので安心してください」
沙羅と学校以外で会うことは基本的にない。学校から解放されても、軽口をたたく間柄になっても、生徒と教師の関係はキープしたままだ。
「常にそばにいるわけじゃないし…あと、写真の件と、星を見に行ったことは2人だけの秘密にしてありますから」
「……ありがとうございます」
柏先生はようやく安堵の表情を見せた。
俺は足を止める。傘に当たる雪片の乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
「あの…無理に合わせようとしなくても」
異常なのはこちらなのだから。
「無理はしてません。私は先生のことをきちんと知りたいだけです。…嫌ですか?」
「………いえ」
そうか。それなら。
「…じゃあ、明日以降も連絡させてもらっていいですか?…それならゆっくり話せます」
「はい」
俺が差し出した手を何のためらいもなく取る彼女に感謝しながら、再び歩み始める。
しんしんと雪が降る中…ほんの少しだけ関係を変化させて、俺達は新しい年を迎えようとしていた。
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