郷土料理は記憶のトリガー
学習実験ログ#12
※6月に食生活アドバイザー3級を受験予定。
その勉強の試行錯誤を記録しています。
結果も大事だけど、その途中を見ています。
各回は単体で読めます。
私は、ブルーハーツが大好きだ。
高校時代、奈良・京都の修学旅行。
バスでの移動中、ずっとブルーハーツを聴いていた。
そのときにずっと聴いてたアルバムの中の
「TOO MUCH PAIN」という曲が妙に印象に
残っている。
だから今でもこの曲を聴くと、
修学旅行のあの頃の“いろいろ”を思い出す。
つまり、私にとってブルーハーツの
「TOO MUCH PAIN」は、
あの時間を呼び起こすトリガーになっている。
そして、それとまったく同じことが、
こんなところにもある。
一昨年の冬、高松で家を探しに来たときの話。
早朝、駅前のうどん屋に奥さんと並んだ。
オープン前なのにすでに列ができていて驚いた。
開店と同時に、
ものすごいスピードで注文が進む。
その流れに巻き込まれながら、
あたたかい「わかめうどん」を食べた。

あれが、実によかった。
それ以来、うどん屋に行くと、ほぼ決まって
「かけうどんにわかめ」か「わかめうどん」を頼む。
そして、食べるたびに思い出す。
あの寒い朝。
奥さんと並んだ時間。
初めての高松の空気。
つまり、わかめうどんもまた、あの光景のトリガーになっている。
同じ構図だ。
ここから、少し未来の話。
これから、うどんの技術はどんどんコモディティ化していくと思う。
全国どこでも、おいしい「かけうどん」や「わかめうどん」が食べられる。
すでにそうなりつつある。
じゃあ、高松でうどんを食べる意味って、なくなるのか。
チェーン店で食べられるなら、それでよくないか。
郷土料理って、不要になるのか。
そういうふうにも考えられる。
でも、ここでまた話が少しズレる。
私は、茨城→福岡→東京→新潟→高松と、
節目ごとに住む場所を変えてきた。
だから、自分は「郷土料理を感じない人生」だと思っていた。
でも、よく考えると違う。
外から来ているからこそ、
福岡のがめ煮、とんこつラーメン、ぬか炊き、ホルモン。
高松のうどん、骨付きどり。
新潟ののっぺ、笹団子、枝豆。
こういうものに、むしろアンテナが立っている。
ずっとそこにいる人にとっては当たり前でも、
自分にとっては新鮮だった。
だから、どこかで「郷土料理へのあこがれ」もある。
自分が根を張ってこなかった分。
ただ、それ以上に強く残っているものがある。
いわゆる「おふくろの味」。
からあげ、カレー、ハンバーグ。
子どもの頃に、母親が作ってくれた料理。
それがおいしかったから、
今でも好きな食べ物の上位にある。
ここには、郷土料理かどうかは関係ない。
毎日の食事が、自分の体を作ってきた。
味というより、
その時間ごと、身体に残っている。
これも同じ構造だ。
味がトリガーになって、
そのときの記憶を呼び起こす。
郷土料理になると、それが個人ではなく地域になる。
しかも一代ではなく、何世代も積み重なっている。
その土地の食材、気候、生活の中で、
試行錯誤されてきたものが今に残っている。
そこには膨大な時間がある。
これは、AIでは代替できない。
…と思いたい。
でも、また考えてしまう。
だとしても。
味は再現できる。
動画でも作れる。
どこでも食べられる。
だったら、
やっぱり、郷土料理ってなくても困らないんじゃないか。
そういう考えが、まだ自分の中に残っている
休職205日目
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