11回目のメモリアルデーに、自分の感情と対話した事とは
先日、義母と愛犬の11回目の祥月命日の供養を行いました。
毎年この時期になると、自然と二人のことを思い出します。
亡くなった当時のことを振り返る年もありますし、
今の自分の暮らしと重ねながら思い出す年もあります。
今年は、義母が亡くなったあとに自分の中で何が変わったのかを
改めて考える時間になりました。
義母の介護や看取りは、私たち夫婦の価値観を大きく変えました。
それまで当たり前だと思っていたことに疑問を持つようになったのです。
私と夫、そして義母は、同じ師僧のもとで法務に携わっていました。
そのため、多くの僧侶や寺院関係者との付き合いもありました。
私は僧侶とは、人の苦しみに寄り添う存在だと思っていました。
悲しみの中にいる人に対して、どのような言葉をかけるのか。
どのような態度で接するのか。
そうしたことを大切にする世界だと信じていました。
けれど義母が亡くなったあと、その思いは大きく揺らぐことになります。
ある方が私たちの前に来て、
「この度はご愁傷様です」
と言われました。
もちろん、その言葉自体に問題があるわけではありません。
けれど、その時の態度や表情からは、
悲しみに寄り添う気持ちは伝わってきませんでした。
出張帰りで疲れていたのかもしれません。
事情はあったのでしょう。
しかし私は強い違和感を覚えました。
そしてそれ以上につらかったのは、
その場にいた誰もその違和感に気づいていないように見えたことでした。
私は怒りを感じました。
同時に、とても虚しくなりました。
人の死に向き合う立場の人たちであっても、
悲しみの中にいる人の気持ちが見えなくなることがある。
その現実を目の当たりにした気がしたのです。
当時の私は、その感情を持つことはいけないことだと思っていました。
僧侶なのだから怒ってはいけない。
許さなければならない。
そう考えていました。
けれど11年たった今は少し違います。
あの時の怒りは、人を大切にしたいという気持ちから
生まれたものだったのだと思うのです。
義母を大切に思っていたからこそ悲しかった。
人の苦しみに寄り添うことを大切にしていたからこそ腹が立った。
そう考えると、あの感情も私にとって大切なものだったのかもしれません。
命日を迎えるたびに、亡くなった人のことを思い出します。
けれど供養とは、故人を想い出すだけの時間ではないように思います。
その人との出来事を通して、自分が何を感じていたのか。
何に傷つき、何を大切にしたいと思ったのか。
そんな自分の心の声に耳を傾ける時間でもあるのでしょう。
11回目のメモリアルデーは、義母や愛犬を偲ぶだけではなく、
自分自身の感情と静かに向き合う一日になりました。
そして今もなお、
義母が私に教えてくれていることがあるような気がしています。
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