二度と会えないことの重さに、心が追いつかない日がある
大切な人が亡くなったあと、
「もう会えない」
そのことは分かっているはずなのに、心がついていかない日があります。
葬儀を終え、
手続きを済ませ、
少しずつ日常が戻ってきても、
どこかで、その人がまだいるような気がするのです。
電話が鳴ると、
「あの人かな」
と思ってしまう。
買い物に行けば、好きだったお菓子に目が留まり、
「これを買って帰ろう」
と、いつものように考えてしまう。
そして、その直後に、
「もう会えないんだった」
と気づきます。
その瞬間、胸の奥が少し痛みます。
そんなことを繰り返しながら、人は少しずつ現実と向き合っていくのかもしれません。
私はこれまで、お寺で多くのご家族のお話を伺ってきました。
「玄関の音がすると、帰ってきた気がするんです。」
「今でも、つい話しかけてしまうんですよ。」
そんな言葉を聞くことは、一度や二度ではありません。
私は、そのたびに思います。
それは現実を受け入れられていないのではなく、その人と過ごした時間が、それほど自然に毎日の暮らしに溶け込んでいたということなのだと。
朝の「おはよう」。
食卓で交わした何気ない会話。
「行ってきます」と「おかえり」。
そうした日々は、亡くなったその日から、すぐに消えてしまうものではありません。
私自身も、大切な人を見送ってから長い年月が過ぎました。
六月になると、義母や愛犬を思い出すことが増えます。
そして三月になると、母が最期を迎えた頃のことを思い出します。
あの時の病室の空気や、母の苦しそうな表情が、昨日のことのようによみがえる日があります。
夢の中では、みんな元気な姿で現れます。
目が覚めた時は、どこかほっとした気持ちになります。
けれど、静かな部屋を見渡した時、
「ああ、夢だったんだ」
と現実に戻ります。
その寂しさは、今でも変わりません。
何年たったからといって、
「もう会えない」
という現実を、すべて受け止められるわけではないのだと思います。
命日が近づいた時。
思い出の場所を訪れた時。
ふとした香りや音に触れた時。
そのたびに心は、もう一度その現実と向き合っています。
だから、涙があふれる日があってもいい。
何もする気になれない日があってもいい。
それだけ大切な時間を、その人と生きてきたということなのだと思います。
悲しみは、なくそうとするものではないのだと思います。
「もう会えない」という現実を、何度も受け止め直しながら暮らしていくことなのかもしれません。
もし今日も、その重さに心が追いつかないなら、
それもまた、ごく自然なことなのかもしれません。
大切な人を深く思ってきたからこそ、その現実を受け止めるには、
それぞれの時間があるのだと私は思っています。
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