もう犬は飼わないと思っていた私が、キャンディに出会った日
涙が出たのは、悲しかったからだけではなかった
実家の愛犬キャンディと出会ったのは、3年前の夏でした。
その4か月前、私たち家族は、半生を一緒に過ごした愛犬を看取りました。
中学生の頃からずっと一緒にいた子でした。
思春期も、受験も、大学生活も、社会人になってからの日々も、気がつけばいつも実家に帰るとそこにいました。
コロナ禍には、家族で軽井沢、白馬、伊豆、岡山にも一緒に旅行しました。
旅行先でも、いつものように家族の真ん中にいてくれました。
白馬では、一緒に気球にも乗りました。
空に浮かぶ特別な体験のはずなのに、本人はなぜか真顔で、その表情が今でも家族の中での笑い話になっています。
そんなふうに、楽しい思い出の中にも、当たり前のようにいる子でした。

ある日、愛犬の名前を呼ぶ家族の声が聞こえました。
ただならぬ声でした。
声のする方へ向かうと、愛犬は舌をべろんと出して、ぐったりしていました。
私と妹は医師です。
反射的に呼びかけ、心音を確認し、心臓マッサージをしました。
数分間、できることをしました。
けれど、意識は戻りませんでした。
家族は泣き叫んでいました。
その中で私は、どこか冷静に、愛犬の葬儀社を調べ、連絡をし、手配を進めていました。
医師としての自分が先に動いていたのだと思います。
でも、葬儀を終え、少し落ち着いた頃。
中学生の頃から一緒に過ごした日々を思い返すと、急に涙が出てきました。
最寄駅まで迎えに来て、階段を登ってきた姿。
食いしん坊で、好物のおいもにまっすぐ向かっていく姿。
伊豆でお魚を食べて、目をまんまるにした姿。
一緒に気球に乗って、なぜか真顔になっていた表情。
婚活で落ち込んでいた時には、物理的にも心理的にも、そばに寄り添ってくれました。
当たり前のようにそばにいてくれた時間が、もう戻ってこないのだと実感しました。
こんなに悲しい思いをするなら、もう犬は飼わないでおこう。
その時は、本気でそう思っていました。
そんなある日、母が言いました。
「近くのペットショップに、同じ犬種の赤ちゃんがいる」
亡くなった愛犬と同じ、シェットランド・シープドッグでした。
さらに母は、
「昨夜、あの子が夢に出てきた。もしかしたら、生まれ変わりかもしれない」
と言いました。
正直、私は半信半疑でした。
そんなわけはないだろう。
会いに行ったところで、また悲しくなるだけかもしれない。
そう思いながらも、母と一緒にペットショップへ向かいました。
そこにいたのが、キャンディでした。

亡くなった愛犬と同じ毛色。
性別は違うけれど、活発で、ぴょこぴょこと動く姿がとても可愛らしい子でした。
小さな体で、元気いっぱいに動いていました。
私は、ただ見ているだけのつもりでした。
まだ心の準備なんてできていなかったし、すぐに次の子を迎えることに、どこか抵抗もありました。
でも、その子はふと、私の方を見ました。
そして、目が合いました。
そのあと、小さく、
「わん」
と力強く声を上げました。
その瞬間、涙が頬を伝いました。
悲しかったからなのか。
懐かしかったからなのか。
それとも、また誰かを大切に思ってしまう予感がしたからなのか。
自分でも、はっきりとは分かりませんでした。
ただ、
その涙は、亡くなった愛犬を忘れるための涙ではありませんでした。
むしろ、あの子と過ごした時間があったからこそ、目の前の小さな命を見て、心が動いたのだと思います。
医療の現場で別れを経験することはあります。
それでも、家族との別れ、愛犬との別れは、やはり本当に悲しいものです。
もう二度と同じ思いをしたくないと思うほど、苦しいです。
それでも、愛犬と過ごした日々は、悲しみだけを残したわけではありませんでした。
誰かを大切に思う気持ち。
家族でひとつの命を見守る時間。
言葉が通じなくても、表情や行動で確かに心が通う瞬間。
そういうものを、私たち家族に残してくれていました。
キャンディと出会った日の涙は、別れの悲しみと、新しい出会いへの戸惑いが混ざった涙だったのだと思います。
あの日、私はまだ、
「もう犬は飼わない」
と思っていました。
でもキャンディは、力強く「わん」と鳴いて、私の心の扉を少しだけ開けてくれました。
今では、実家に帰るたびに、嬉しそうに迎えてくれるキャンディがいます。

「遊ぼう!」と言っているかのように前足を伸ばして、
抱っこをすると、肩に寄りかかり、顔や手をぺろぺろ舐めてくれます。
亡くなった愛犬の代わりではありません。

でも、あの子と過ごした時間があったからこそ、キャンディとの時間も大切にしたいと思えるようになりました。
別れのあとに、また出会いがある。
そのことを、キャンディは涙の初対面で教えてくれました。
