【道行き2-1】
【第二章『車』-1】
八雲が帰り、バックヤードに残った茉由は、何もせず静まり返った室内にいた。この僅か一時間たらずの間に起きた出来事を、一人で思い返していたのだった。
「旋風のような騒ぎだったわ……」そんなことを考えながら立ち上がると、ロッカーを開けて着替え始める。着替えといっても、制服をブルゾンに変えるだけなのですぐ終わる。
グレーのブルゾンを羽織ってバックヤードを出ると、茉由はカップラーメンを一つ手に持ってレジに向った。
「色々ごめんね、後藤ちゃん」
「いったいなんの騒ぎだったんですか?」
茉由が持ってきたカップラーメンを精算しながら、後藤と呼ばれたアルバイトの青年が聞いた。
「うん…… ここじゃちょっとね。これ、裏で食べてる」お湯を入れたカップラーメンを持って、茉由はバックヤードに戻っていった。
下月 茉由は二八歳。昨年からこのコンビニでアルバイトしている。
「そろそろかな~」時計を見て茉由がカップラーメンの蓋を開け始めた時、コンコンとノックして後藤がバックヤードに入ってきた。
「さっきのは、なんの騒ぎだったの?」カップラーメンを食べようとしている茉由に後藤が聞く。
「なんて言ったっけ? ほら、なんとか詐欺……」
「特殊詐欺のことですか?」
「そう、それ! その特殊詐欺に巻き込まれたようだったの」
「あのおばぁちゃんがですか?」
「そうだったのよ。あ、ラーメン食べながらでもいい? のびちゃうからさ」そう言うと、茉由はラーメンをすすりながら騒動の経緯を後藤に話した。
「へぇ~ 特殊詐欺ってどこか遠くの世界の出来事のように感じてましたが、こんな身近でも起きていたんですね」
「そうよね、私も他人事のように思っていたから驚いたわ」後藤の驚きに共感するように茉由は言った。
「でも、未遂で終わったんでしょ。警察まで来たから、本当に驚きましたよ」
「大丈夫だったと思うわ。まだお金を渡してなかったようだし、警察の人が『一緒に自宅まで行く』って、言ってたからね」
最後のスープを飲み干してから、茉由はこう答え、「未遂で終わって、本当によかったわ」と、付け加えた。
「ところで……」声のトーンを落として、意味ありげに茉由を見ながら後藤が言う。
「あの男の人は誰なんですか?」後藤は、八雲と茉由が知り合いだと思っているようだ。
「私にもわからないわ、名前も知らないし」
「本当に?」素っ気なく答える茉由に、疑いの眼差しを向けて後藤が聞く。
「本当よ、話をしたのも今日が初めてよ」
「な〜んだ、そうだったのか」変化のない茉由の返答に、いつものトーンに戻って残念そうに後藤は言った。
「あの人よく来ますよね、お弁当とか買いに」
「そうよね、きっと一人暮らしでしょうね」二人の話題は、あっという間に八雲の個人情報に移る。
「なんかパッとしない人だと思ってたけど、警察の人と仲良しっていうか」
「そうそう、刑事さんが『ちゃん付け』で呼んでいるのよ。『あなた何者なの?』って感じ」
「警察の関係者ですかね」
「そうじゃないと思うけど、腐れ縁なんだって」
「人は見かけによらない、ってことですね」
「よくわかんないけど、ちょっと興味津々よね」
「ですね。探ってくださいよ、下月さん」
「さっき、そうしようと思ったのよ。でも、さらっとかわされたわ」
「え、下月さんがですか? 強敵ですね」
「次のチャンスは逃さないわ」
「期待してますよ」
「任せて」そう言って、茉由は左拳を突き上げた。
そんな二人の噂の的になっていることなど全く知らない八雲は、部屋に戻ると濡れた衣類を着替え、弁当にカップラーメンというわびしい食事を始めた。八雲は自炊もするのだが、一人分だけ作るのは面倒だ。普段忙しく動いていることもあって、もっぱら食事は外食かコンビニのお世話になっている。
食事を済ませると、八雲はパソコンに電源を入れた。昨夜編集した写真を最終チェックするためだ。問題ないなら依頼主にデータを送信して仕事は終りだ。いくつかの写真をチェックしている時、ふと茉由の笑顔が脳裏をかすめた。
「暖かいラーメンでもか……」モニターから目を離して、インスタントのコーヒーを入れる。時計は夜の九時を過ぎていた。
「どこかの若奥様だろうか? 年はいくつだろう、二十代後半かな?」そんなことを考えながら、カーテンを開けて窓の外を眺める。いつの間にか雨は止んでいた。
そんな八雲がパソコンと格闘している時、茉由は一人で車を走らせていた。オーバーホールしたばかりのエンジンは、軽い音をマフラーから出している。この車は茉由のものではない。友人で、自動車の販売店に勤めている「長谷 隆夫」の名義で登録されている。隆夫は古い車に手を入れて、自分の好みに仕上げることが好きだった。
隆夫が車を整備する時、一番苦労するのが「慣らし運転」だった。古くなった部品を新しいものに交換した時、部品同士がスムーズに動くようになるまで、ゆっくり馴染ませる必要がある。特に心臓部のエンジンでは、最も重要な作業の一つになるのだが、時間がかかるのだ。
そこで、限りある時間を有効に使うため隆夫が白羽の矢を立てたのが、同級生の茉由だった。茉由はメカニカルなことは全くわからないが、車の運転は好きだったし得意だった。
茉由は、隆夫に声をかけられた時、二つ返事で話しに乗った。そしてその後もこの関係は続いていた。
そんなこんなで茉由は、隆夫の車でドライブを楽しんでいたのだが、今夜はいつもと少し違っていた。
それは月曜の夜に始まった。その夜、隆夫は小型のファミリーカーに乗って、茉由の自宅にやって来た。
「さっき、エンジンを組み上げたばかりなんだ、これを土曜の朝までに千キロ慣らしをしてくれ」
茉由にこう言う隆夫の顔は、誰の目にも疲労困憊と見える。だが、その目はキラキラと輝いていた。
「急にどうしたの?」その顔を見て、心配そうに茉由が聞く。
「ある人に貸すことになったんだ、それでエンジンを組み直した」
笑顔で隆夫は答える。その顔はまるで、夏休みに作った工作を友だちに披露するかのように自信満々だ。
街灯に照らされたその車を、茉由はしげしげと見つめた。「古い小型のファミリーカーなのに、どこか雰囲気が違う」茉由はその車が放つ、不思議なオーラが気になった。
「乗れよ、ちょっと走ろう。面白い車だぞ」と言いながら、隆夫が運転席に座る。
「しかたないな」そう言いながら、茉由は助手席のドアを開けた。
「え、マニュアルなの?」乗り込んだ茉由が驚いたように隆夫に聞く。
「ああ、そうだよ。メーカーチューンさ」そう言いながら、隆夫はゆっくりクラッチをつないだ。
一速から二速、三速とギアを上げるごとに、車は乾いた排気音を残してスムーズに加速を繰り返し、スピードメーターの針はすぐ三桁の数字の上で踊る。
「これって、ちょっと凄い! ねぇ、変わって」
「だろう、コンビニ見つけたら停まろう」
運転を代わった茉由は、郊外の住宅地を一回りして隆夫を自宅に送った。
「面白い!」
「じゃ、土曜の朝までに頼んだよ。五百キロを超えたら時々全開にしてみてくれ。そうだな~ 三速か四速で頼む、当たりが欲しい」
「わかったわ、任せて」
「こいつなら、お前を気に入ると思ってた。こいつのようにクラッチが踏めるやつは、男でも少ない。安心してお前を預けられるよ」隆夫は自分の車にそう語りかけた。
ーー続くーー

