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【道行き8−3】

【第八章『八雲』-3】

 八雲やぐもが部屋に戻ると、パソコンにメールが届いている。開くとイスラエルにいる「阿部」からだった。この「阿部 義文あべ よしふみ」が、八雲が茉由まゆに「師匠」と話した人物だ。
「準備はどうだ、順調に進んでいるのか? またお前と仕事ができる日を心待ちにしている」
 簡素な内容だった。
「準備は整いました。予定通り明日の午後、成田からイスラエル航空の直行便に乗ります。テルアビブで合流できますか?」
 八雲も簡素な内容で返信した。そのメールに対し、阿部からの返信は夜になって届いた。
「私はガザを離れられない。仲間がテルアビブにいる、そいつと合流してこっちに来い。お前の写真はその仲間に渡してある、コンタクトはそいつがする」
「了解!」
「相変わらずだな、阿部さんは」メールを読みながら、八雲はそんなことを思った。
 タバコに火をつける。ゆっくり紫煙を吐いて部屋を見渡す。大きな家具などなにもない部屋は、生活感があまり感じられない。テレビと冷蔵庫が唯一、自分を主張している。部屋に残していくものの処分は不動産屋に任せた。着替えと日常生活用品を入れたキャリーバッグとカメラバックが、八雲の旅に付き合うこととなる。
「世話になったな」ワンルームの部屋に向かって、八雲は小さく呟いた。

 その夜、隆夫たかおは茉由に電話した。
「茉由か、元気なのか?」
「隆夫……」
 八雲がイスラエルに行くことを聞いてしまい、逃げ出すように隆夫の病室を後にしてから、茉由は隆夫にも会っていない。茉由のことを心配していた隆夫だったが、茉由なりに悩んでいると思い、連絡は取らなかった。
「ごめんね、隆夫。お見舞いにも行かなくなって……」
「そんなことはいい、もう退院した」
「聞いてたわ。遅くなったけど、退院おめでとう」
「あぁ、ありがとう」
「どうしたの? 急に電話なんて」
「うん、おまえの声が聞きたくてさ」
「バカね、そんな女たらしみたいなこと言って」
「会えないか?」
「これから?」
「いや、そうじゃない。会いに行ってもいいか?」
「店に来るの?」
「ダメか?」
「そうじゃないけど…… でも隆夫、身体は大丈夫なの?」
「もう治った、じゃこれから行く! 十分で行く!」
「そんなに急いだらダメ、待ってるから大丈夫よ」
「わかった、ありがとう茉由」
「うん、じゃ後で」
「ふぅ」と息を吐いて、隆夫は車のエンジンをかける。
「隆夫ったら……」そう呟いて、茉由はスマホを抱きしめるように胸に押しあてた。

 夜に冷やされた朝の空気は冷たい。そんな仙台駅のホームで、八雲は新幹線を待っていた。朝の早い新幹線に乗り込む乗客は少なく、僅か数人が八雲と同じように新幹線を待っている。
 新幹線が静かに入ってくる。「もう二度と、このホームに立つことはないだろう」そんなことを考えながら、八雲は新幹線の扉が開くのを待って乗り込んだ。乗車券を見ながら、自分の席を探して座る。出発のメロディーがホームに流れ、扉を閉めた新幹線が静かに動きだした。

 八雲がイスラエルに行ってから早くもひと月が過ぎた。リハビリの効果もあって、隆夫は身体の調子が日増しに良くなり、通院以外は暇を持て余していた。
「暇で、暇で、死にそうだよ」
 そんな言い訳をしながら、隆夫は夜の早い時間から「姫の館」に入り浸っている。あの日以来、茉由との関係も少しづつ改善していた。

 あの日とは、八雲がイスラエルに飛び立つ前の日のことだ。あの夜、隆夫が「姫の館」にやってきたのは、茉由との電話から二十分ほど経ってからだった。
「こんばんは」そう言って、隆夫は店のドアを開けた。
「いらっしゃい」茉由は少しはにかんだような笑顔で隆夫を迎えた。
「いらっしゃい、カウンターでいいかな」のぼるが声をかける。

「あ、あの、お、お嬢さんを大変な目に遭わせてしまい、本当にすみませんでした」
 昇の正面に立ち、隆夫はそう言って深々と頭を下げた。
「おいおい、やめてくれよ営業中に…… それに、ケガをしたのはお前の方で、家の娘にはかすり傷ひとつなかった。娘も礼を言ったと思うが、私からも礼を言いたい。娘を守ってくれて、本当にありがとう」
 そう言って、昇も隆夫に深々と頭を下げた。
「二人でなにしてるの、営業中に。お客さんみんな驚いてるわよ」
「だってよ、茉由。オレ、お父さんにちゃんと謝ってなかったから……」
「私も一緒だよ、ハハハ」
 昇と隆夫はお互いの顔を見ながら笑った。

「本当にもう」呆れたようにそう言うと、「なんにする、コーヒーでいい?」と隆夫に水を出しながら、茉由が笑顔になって聞いた。
「うん、コーヒーで」隆夫も笑顔で答える。
 しばらくの間、隆夫は黙ってレコードを聴いていたが、思いつめたように言う。
「茉由、ちょっと外、いいか?」
「うん」
 二人は店の外に出た。
「なに?」
昌夫まさおさんのこと……」
「昌夫さんの?」
「昌夫さんから聞いてるか?」
「なにを?」
「本当になにも聞いてないのか?」
「私はなにも聞いてない。というより会ってないの、あの人と……」
「そうか……」
「どうしたの、なにかあったの?」
「今日、昌夫さんが来たんだ。車を返しに」
「そうなの……」
「知ってるんだろう、イスラエルに行くってこと」
「うん……」
「明日って言ってた」
「そうなんだ、明日……」
「朝、早い時間の新幹線だって」
「・・・・」
「いいのか、このままで?」
「・・・・」
「なぁ、茉由、本当にいいのか?」
 茉由は答えない。隆夫も、もうなにも言わない。薄暗い店の外に二人は黙って立っていた。

「あのね、隆夫。私さ、フラレたの」
「なんだって!」
「しっ、大きな声出さないで。聞こえるでしょ!」
「あ、ゴメン」
「いいの、もう。私の片思い、一方通行だったの。まるでおこちゃまよね、一人で舞い上がって…… ほんと、バカよね。やんなっちゃう」
「だって、そんな……」
「昌夫さんにとって、私は隆夫の同級生。ただそれだけ…… だからもういいの」
「・・・・」
「お店に入ろう、寒くなってきたわ」
「うん」
 隆夫が頷いて、二人は店内に戻った。

      第八章『八雲』 ー完ー





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