銀行の不思議【シャチハタは不可】でも…
先日、銀行の窓口で「届出印はシャチハタ不可です」と言われた。
その瞬間、私は二十歳の頃に戻ったような気がした。
人間の記憶は曖昧だから、二十一歳だったかもしれないし、五十五歳の疑いも捨てきれない。
あるいは昨日ことだったかもしれない。
とにかく私は、とある興業銀行に二年ほど勤めていたような気がする。
その銀行では毎日、大量の印鑑を見た。
丸い印鑑、四角い印鑑、押した本人も読めない印鑑、印鑑が曲がっているせいで押した人の人生まで曲がって見える印鑑。
いろいろあった。
だが、シャチハタだけは頑なに拒絶された。
理由は知らない。
理由を説明するほど銀行という組織は暇ではないのだ。
先輩はただ「届出印にシャチハタはダメ」と言い、
私が「なぜですか」と訊くと、「昔からだ」と答えた。
日本では「昔からだ」は強い。
法律より強く、憲法より強く、たぶん重力より強い。
リンゴが木から落ちるのも、ニュートンが発見する前から
「昔からそうだった」からに決まっている。
ところが不思議なことに、その先輩は自分の机の引き出しからシャチハタを取り出し、「確認済」「受付済」「検印」を次々に押していた。
まるでスタンプラリーである。
シャチハタは悪ではなかったのか。
ダメなはずのものが最も活躍している。
これは学校で「買い食いは禁止だ」と言った教師が、
職員室でポテトチップスを貪り食っているようなものである。
私は考えた。もしかするとシャチハタは悪ではない。
悪とされることで、かえって自らの権力を維持しているのではないか。
だから、行内の事務処理はほぼシャチハタで終わるのかもしれない。
そこで現在に戻る。
私は窓口係に言った。
「実は私、昔この業界にいたような気がするんです。通帳繰り越しの際、印紙税として一律1000円を銀行が負担していた記憶があるのですが」
窓口係は困った顔をした。
こういう、中途半端に昔の端端しい数字
(しかもなぜか消費税が2重課税にならない…ガソリンは二重課税なのに)
を出してくる客は間違いなく面倒だからだ。
その時、後ろから声がした。
「まだ文句があるんですか、先生」
振り返ると白石麻衣だった。
なぜ白石麻衣が銀行員なのか?理由は分からないが、
私がかつて銀行員だったという風説よりは、まだ現実味がある。
白石さんはため息をついた。
「先生がいたのは消滅した興業銀行でしょう。
興銀が『通帳更新で1000円』なんて、
そんな無駄な負担をするわけないじゃないですか」
「やっぱりそうか」
「しかも、先生がいたのはずいぶん前です。
当時は消費税の二重課税なんてだれも気が付かない振りをしていたんです」
「そんな昔だったか。じゃあ、あの印紙税1000円は夢だったのか」
「知りませんよ。だから今の若い行員さんに話しても困るんです」
私は少し安心した。
私の記憶は、完全に間違っているという点で一貫していたからだ。
すると白石さんは続けた。
「でも、もっと不思議なことがあります」
「何ですか」
「当時は印鑑が違うと、一円の融資も受けられませんでした」
「そうです」
「今はスマホ認証も顔認証もあります」
「ありますね」
「なのに印鑑や手数料の話になると、皆さん急に昭和へタイムリープします。なぜですか」
私は思わずうなずいた。
そうだった。
銀行で最も強力なシステムは、オンライン勘定系でもAI審査でもない。
「昔からです」
という思考停止の呪文である。
これさえ唱えれば、どんな矛盾も正当化される。
白石さんは笑った。
「ところで、その1000円の印紙税はいつ納付するんですか?」
私は胸を張った。
「知りません」
「どうして」
「聞いたけど忘れました」
「それが一番困るんです」
そして私は気付いた。
銀行に二年いた記憶より、自分がどこに金を預けたか、あるいは誰に1000円を騙し取られたかの記憶の方がはるかに怪しい。
人間とは、自らの損失に対して実に寛容にできている不思議な生き物である。
さて、ここまでお読みいただいた皆さんに問題です。
🎺じゃジャン!
この文章の中のウソはどこにあるでしょう?
A. 私が銀行に二年間勤めていたこと
B. 興業銀行が印紙税1000円を自行勘定で負担していること
C. 白石麻衣さんが税金や手数料の計算に詳しいこと
D. シャチハタのインクが永久に切れないこと
E. そもそもこの「私」は銀行とお付き合いがないこと
正解者の中から抽選で一名様に、当時の貴重な銀行グッズをプレゼントいたします。なお応募締切は昭和64年1月8日です。
白石麻衣
「それ、まだ応募できます?」
私
「できません。時効です」
白石
「プレゼントに価値はあるんですか?」
私
「ありません。だからこそ、あげるのが惜しくないのです」
結局、ウソがどこにあるのかは私にも分からない。
ただ一つ確かなのは、これを読んだ読者が帰りの電車で
「印紙税の相殺額はいくらで計算するのか」と、
余計な計算を始めることだけである。
銀行とはお金を預ける場所ではない。
他人に無駄な思考を強いる場所なのだ。
(正解は、作者も知らない。
なぜなら私はすでに、
昭和63年の1円玉をどこに置き忘れたかで頭がいっぱいだからである)
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チップのお返しは・・・なにができるのか?思案橋です