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IQが高くても人は幸福になれない。

人類は物差しを捨てるのが苦手である

ある「高知能指数者研究所」構想を読んで考えたこと

人類は物差しを捨てるのが苦手である。

学校のテストは良くない。

偏差値教育は良くない。

受験競争は人を不幸にする。

そう言いながら、気が付くと別の物差しを取り出してくる。

昨日まで偏差値で測っていた人が、今日はIQで測る。

人類は忙しい。

昨日捨てた物差しに金箔を貼り、名前を変えて再利用するのである。

もちろん私は知能指数(IQ)そのものを否定する気はない。

心理統計学上、それは一定の意味を持つ指標である。

しかし、指標はあくまで指標だ。

体温計が38度を示したからといって、人間そのものが38度になるわけではない。

ところが時々、人類は数字に恋をする。

そして恋は人を盲目にする。

先日、ある構想を読んだ。

中卒・高卒・不登校・引きこもりなど、既存の学校教育からこぼれ落ちた若者を対象に、高い知能指数を持つ者を選抜し、生活費や研究費を支給しながら自由な研究活動を行わせるというものである。

漫画を描いてもよい。

音楽を作ってもよい。

研究をしてもよい。

政治家を目指してもよい。

なかなか夢のある話である。

もし私が中学生の頃に聞いたら、たぶん三秒で応募していた。

そして一週間後には失格になっていただろう。

問題はそこではない。

私が少し怖くなったのは、対象者の条件を読んだ時である。

不登校。

引きこもり。

中退者。

社会からはみ出した人々。

この瞬間、私の頭の中で話が少し変わった。

なぜなら引きこもりとは、単なる状態ではないからだ。

誰だって好き好んで天井を眺めて暮らしたりはしない。

そこに至るまでには、それなりの事情がある。

学校で傷ついた人もいる。

家庭で傷ついた人もいる。

社会そのものに疲れ果てた人もいる。

理由は一つではない。

だが共通しているのは、多くの場合、その人は何かとの摩擦で消耗しているということだ。

すると不思議な疑問が浮かぶ。

その人たちに本当に必要なのは研究所なのだろうか。

あるいはもっと別の何かなのだろうか。

私は昔から引きこもりという現象を、社会との戦争に敗れた結果だとは思っていない。

むしろ逆だ。

最後の砦である。

城壁は全部破られた。

学校もだめだった。

職場もだめだった。

人間関係もだめだった。

その結果として残った小さな避難所。

それが自室だったりする。

だから外から見ると怠けているように見えても、本人は必死に生き延びている場合がある。

沈没船の乗客に向かって、

「君はなぜ甲板で泳いでいるのか」

と聞くようなものである。

泳いでいるのではない。

しがみついているのである。

ところがここへ新しい制度がやってくる。

君は高IQかもしれない。

だから研究費を出そう。

生活費も出そう。

好きな研究をしてよい。

ただし三か月ごとに成果を見せてほしい。

結果が出なければ退場である。

さて。

これは本当に救済なのだろうか。

もちろん制度を考えた人は善意だろう。

悪意ではない。

むしろ善意だからこそ怖い。

なぜなら善意は時々、人間を見落とすからだ。

例えば学校で失敗した人には言い訳がある。

学校が合わなかったのかもしれない。

社会で失敗した人にも言い訳がある。

職場が合わなかったのかもしれない。

だが、

「君には才能がある」

と言われ、

「環境も与える」

と言われ、

「お金も出す」

と言われ、

「好きなことだけしていい」

と言われた場所で失敗したらどうなるだろう。

残る敵は誰だろう。

学校か。

違う。

社会か。

違う。

親か。

違う。

最後に残るのは自分自身である。

私はそこが怖い。

評価制度というものは便利だ。

だが便利だからこそ乱用される。

偏差値も評価制度だった。

IQも評価制度である。

名前は違う。

単位も違う。

しかし測るという行為そのものは変わらない。

そして人間は測られ続けると、時々、自分自身まで数字だと思い込む。

本当は違うのに。

知能で人を助ける人もいる。

優しさで人を助ける人もいる。

気配りで人を助ける人もいる。

ただそこに居るだけで救われる人だっている。

人間の価値は、そんなに単純ではない。

だから私は、高知能指数者研究所という構想を読んで、最初に研究室を想像しなかった。

ソファを想像した。

古びたソファでいい。

少しコーヒーの染みが付いていてもいい。

そこで誰かが、

「成果はどうだ?」

ではなく、

「今日は調子どうだ?」

と聞いてくれる場所である。

人類は才能を育てる話が好きだ。

しかし時々忘れる。

才能より先に、人間がいることを。

そして人間は、評価によって伸びることもあるが、評価によって壊れることもある。

だから私は思う。

本当に守るべきなのは知能指数ではない。

研究成果でもない。

最後の避難所である。

なぜなら、評価制度という名の消防車が、時として避難所そのものを焼き払うことがあるからだ。

それだけは、少し気を付けた方がいいと思うのである。

――と、知能指数のパッとしない戦略ゴッゴ支障たる海尾守は思う。

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海尾守【ジブチの象】 チップのお返しは・・・なにができるのか?思案橋です