見出し画像

大学不要論【第1回】うどんを食べる前に七味を2年間舐め続ける狂気

レルフのシラバスと、海尾守の反論

日本の大学というのは、なぜか頑なに
「1〜2年次は基礎教養、3〜4年次は専門」
という2階建て構造を守り続けている。
これが今、完全に制度疲労を起こして、
熱海の旅館のごとく歪な増改築を繰り返している。

実態を見てみよう。

地理学科に入った学生が、1年目に学ぶのは専門ではなく
「基礎教養としての地理学」だ。

そして2年目、ようやく専門の入り口に立ったと思ったら
「地理学概論」と「人文地理学概論」を学ぶ。

さらに3年目、専門が深まったところで
「文化地理学」を学ぶ。

学生から見れば、

「最初の教養や概論は何だったんだ?」

という疑問が当然湧く。

同じような内容が、
看板を掛け替えながら大教室で繰り返される。
これは教育ではなく、
ただの大学側の「運営上の合理化(手抜き)」だ。

そもそも「教養」の定義がおかしい。

教養を「前菜」にするのではなく、
「薬味」にするべきだ。

うどんを食べる前に、
七味(教養)だけ2年間舐め続ける人はいない。
必要な時に、必要なだけ振るから意味がある。

だから私は、現行の4年制学士課程を廃止し、
1年目に徹底的な
「思考の道具(統計、情報、ライティング、論理)」を叩き込み、
2〜5年目を一気通貫の専門教育とする
「5年一貫の修士課程」を提案している。

大学側は「泳げるようになってからプールへ入れ」
と教養で足止めするが、
学問は本来、水に落ちて溺れかけながら覚えるものだからだ。

この海尾の批判に対し、壇上でゆっくりとマイクを握ったのが、
場所論の巨頭エドワード・レルフだった。
彼は自らのシラバスの設計思想を盾に、冷徹に反論を始める。

レルフの反論

レルフ

「海尾会員、君はカリキュラムの表面的な名前だけを見て、
知性のグラデーションを無視している。
私のシラバスを見なさい。

1年目の『基礎教養の地理学』は、
まだ自分の専門を決めていない全学部の学生に向けて、
世界を『空間』として眺める窓(視点)を配る場所だ。

2年目の『地理学概論』『人文地理学概論』は、
地理学という固有の『場所』に足を踏み入れた学生に、
その学問が過去にどんな格闘をしてきたかという
地図(学説史)を渡す場所だ。

そして3年目の『文化地理学』で、ようやく学生は、
自分自身の身体を通じて世界の『景観』を読み解く
サバイバル(専門)が許される。

君は『同じことの繰り返しだ』と切り捨てるが、
これは繰り返しではない。
螺旋状に知性を深めていくための、
緻密に計算された階段だ。

君の言う『1年目に道具、2年目から専門』
という5年一貫システムは、一見シャープだが、
目的地へ最短で向かうのっぺらぼうな
高速道路を作ろうとしているだけだ。

最初から効率よく道を決められたプールで、
道具だけ持たされて泳がされる学生に、
学問の本当の奥深さが立ち上がると本気で思っているのかね?」

美しい。

レルフの反論は、
会場の空気を一変させた。

確かに彼の説明を聞けば、
現在の大学のカリキュラムは、
無意味な重複どころか、
知性を螺旋状に育てるための精巧な設計図にも見える。

教養は窓である。

概論は地図である。

専門はサバイバルである。

なるほど、美しい。

実に美しい。

まるで大学案内パンフレットの巻頭特集のようだ。

だが私は、その瞬間ふと周囲を見回した。

冷房の効かない大教室。

眠っている教授。

スマホを眺める学生。

後方には「出席だけ取って帰ります」と書かれた紙切れ。

そして誰も開いていない履修要覧。

もしレルフの言う螺旋階段が本当に存在するなら、
それはどこにあるのだろう。

少なくとも私の見ている景観には、
あまり姿を現していない。

もしかすると問題は制度ではない。

あるいは制度だけでもない。

設計図と現場の間に横たわる、
巨大な空白地帯にあるのかもしれない。

レルフの語る大学は、美しい。

だからこそ怖い。

美しい設計図ほど、
現場との落差を隠してしまうからだ。

文化地理学者は景観を読む。

ならばまず、
私たちは自分たちの大学の景観を読まなければならない。

講義室の後ろで光るスマホも景観だ。

履修登録締切日の大混雑も景観だ。

単位表と時間割を見比べながら
「一番楽に卒業できる組み合わせ」
を探す学生も景観だ。

そこにはレルフの言う螺旋階段とは別の、
もう一つの大学が存在している。

そして私は、その大学の方を見ている。

景観としての大学

レルフのシラバスを通じた反論。

大学のカリキュラムは「手抜き」ではなく、
学生の知性を段階的に引き上げるための
「設計図」であるという主張だ。

私はその理想を否定しない。

むしろ認める。

問題は、その設計図が現場でどのような景観として現れているかである。

もし大学が本当に知性を育てる螺旋階段ならば、
私たちはその階段を歩いている学生をもっと見かけるはずだ。

しかし現実には、学生たちは履修要覧という迷路ではなく、
卒業要件表というチェックリストを見ている。

大学は迷路を提供したつもりでいる。

学生は攻略本を探している。

そのずれは、想像以上に深い。

そして、このずれこそが、私を次の疑問へ導く。

大学が本当に価値を持つとすれば、
それは効率化された専門教育でもなければ、
履修要覧に書かれた理想でもない。

人が思いもよらぬ学問へ迷い込み、
自分でも予想しなかった問いに出会う、
その瞬間にあるのではないか。

だとすれば。

その「迷子」は、本当に現在の大学で起きているのだろうか。

それとも私たちは、迷路だと思い込んだスタンプラリーを歩いているだけなのだろうか。

その話は、次回に譲ろう。

(第2回「計画された迷子」へ続く)

いいなと思ったら応援しよう!

海尾守【ジブチの象】 チップのお返しは・・・なにができるのか?思案橋です