『ローマ書』所感 ①
パウロは、イエス・キリストの使徒だった。
新約聖書におけるかなりの割合が、彼のしたためた手紙によって成っている。
が、あくまでも個人的に思うことだが、このパウロなる人物において、大した文才のあったとも思えない。というか、はっきり言って、文章そのものの巧拙を問うた日には、実にもってヘタくそだと言ってやりたいくらいだ。
――といった具合に、この所感を書き出そうかと思ったが、やめにした。
というのも、タイトルの示唆する通り、ここで言いたいこととはパウロの筆法の出来不出来についてなんかではなく、彼の書いた「ローマ書」について思ったことをば、ただ素直に書き連ねてみたいと思っただけだから。
「ローマ書」、
この(長すぎるぐらいに長い)書簡の目的たるや、いったいなんであったのか――。
それは、冒頭の数行を読んでいけばおのずと分かるものだが、一言にして述べてしまうなら、「異邦人伝道」である。
ユダヤ人であったところのパウロが、同胞の「ユダヤ人」に対してではなく、「異邦人」に対して、いったいどんな思いを抱きながら伝道活動をしていたのか――。それがこのローマ書なる手紙の上に、(あまり上手ではない書き方をもって)蜿蜒としたためられているのである。
それゆえに、
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく ”霊” によって施された割礼こそ割礼なのです。」
という一文こそ、序盤における、もっとも重要なそれであると言えよう。
別に目新しくもなければ、これというほど警抜でもない、当たり前と言えば当たり前の一事を訴えているばかりなのだが、こういう基本的な、あまりに基本的な一事をこそ、「ユダヤ人」であれ「異邦人」であれ、なんであれ、「人間」とは往々にして知らないし、分かってもいないのであろう。
であればこそ、
こんな一文をもってしても、いつもいつも思わせられることのあるとしたらば、この世の中においては、いかにトンチンカンな「教会ごっこ」や、「聖書ごっこ」や、「ユダヤ人ごっこ」なんぞに身をやつし、日がなひねもす遊び暮らしてしていながら、満足しきっているようなカンチガイヤロウ様が、なにゆえにこうもはびこっているのであろうか。
たとえば、
巷の目抜き通りにそびえ立った「教会」における最大の行事とは、「バプテスマ」だという。これはパウロがローマ書に書いたように、その昔、ユダヤ人が「割礼」を大事にしていた様相と、とてもよく似かよっている。
だから、ここでひと言、「どうぞご勝手に」。
(理屈っぽいばかりで、文才にも欠けていたとはいえ)せっかくイエス・キリストの使徒たるパウロが、ローマ書の中で「割礼」について書いてくれているというのに、「教会」の構成員様がたにあって、それすらまともに読んだことのないのだろうか。
すなわち、
アブラハムはユダヤ人の父祖であるが、「信仰によって義と認められた」からこそ「ユダヤ人」なのである――と。
「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのだ」――と。
アブラハムという(比較的分かりやすい)人物を例に上げながら、「外見上のユダヤ人でもない…」とか、「肉に施された割礼でもない…」とかいうふうに、はっきりと論じてくれているというのに、なにゆえに「バプテスマ」なんぞが、教会における「一番の行事」なんだろうか――?
あくまでも私一己の体験談にすぎないけれども、小さな水槽の中に五体を沈められたからと言って、それが何だろう。そんなものをば、若い日にあってみずから進んでやってみたところが、ひっきょう、「なんの役にも立たなかった」、いわば「肉の割礼」そのものだった。
そんな「儀式」ふぜいが、「イエスはキリストである」という真理に至らせてくれたかといえば、否である。そんな水に沈められた体験なんかが、「憐れみ深い父なる神」の顔を見せてくれたのかといえば、否、否である。イエスを、父なる神を知るべくわずかなきっかけさえ与えてくれなかった、あの若き日の「水槽の中での出来事」とは、いったいなんのためのものだったのか、――正直言って、もはや思い出すにも値しない。
それがゆえに、
ヘブライ語をしゃべって、トーラーを読み込んで、定めの祭りを祝って、食べ物の細かな規定を守って・・・というような、いわば「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではない」――という言葉の意味も、私には大変に良く分かる。
毎日のようにヘブライ語で聖書を読んで、毎年のように過越の祭りを祝って・・・をやっていれば、「わたしの神」にあいまみえ、「復活したイエス」に顔と顔を合わせて出会い、ひいては「憐れみ深い父なる神」を知ることができるなどと、――ああ、あくまでも個人的な体験談からはっきりと言えることは、「それほど話は甘くない」。
福音書的にも、ローマ書的にも(ひいては聖書全体的にも)解釈したって、「それほど話は甘いわけがない」と、はっきり言えるではないか。
だって、もしもそんな話で済むのならば、なにゆえにイエスは殺されなければならなかったのか。イエスを殺したのはほかでもない、ヘブライ語を与えられて、トーラーを与えられて・・・という「ユダヤ人」たちだったではないか。
それゆえに、
「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく ”霊” によって施された割礼こそ割礼なのだ」
――この一文をこそ、あらゆる「教会ごっこ」、「聖書ごっこ」、「ユダヤ人ごっこ」、「アーメンごっこ」・・・にいそしんでいるすべてのクリスチャン様たちにあっては、いまいちど、再考されたらよろしいというものです。
そう――
たとえば内村鑑三とかいう名の、主に明治・大正時代に活躍した思想家がいた。
この人物たるやまあ、ご多分にもれず、ものの見事にマトノハズレタ事柄をば、その著書の中にしたためてくれたものである。
いわく、「イエスはユダヤ人である。これを忘れてはならない」、だとか。
「教会ごっこ」には積極的でなかった分、すこしはマシかと思いきや、やっぱり「聖書ごっこ」に明け暮れていただけあって、ひっきょう、「イエスはユダヤ人である」とか、「ユダヤ人は最も古い世界的民族である」とか、そんな程度のご理解にしか至らなかったんだろう(呵々)。
同じ文章の中で、「モーセも、パウロも、ユダヤ人だった」――というようなことまで書いておきながら、なにゆえに、そのパウロの言った「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく ”霊” によって施された割礼こそ割礼なのだ」を、読み落としているんだろうか?
イエスはユダヤ人である――はい、その通りです、しかしそれは「肉において」そうなのであって、それ以上ではないでしょうが…!
もっとも大切なこととは、
ユダヤ人イエスは死んだ――ということだ。
それ以上に大切なこととは、
死んで、復活した――ということである。
そして、もっとももっとももっとも大切なこととは、
復活したイエスは、ユダヤ人なのか――というこの一点こそである。
もう一度、しかと問う(三界の人間に、いや、地上ならぬ天上の諸霊に、いやもとい、わたしの神キリスト・イエスと、キリストの父なる神に…!)
復活したイエスは、ユダヤ人なのか――?
復活したキリストは、「肉におけるユダヤ人」として、復活したのか――?
もっと言えば、「人間として」、復活したのか――?
こんなひとつ事ぐらい、「からし種ほどの信仰」をもって考えてみたらば、くっきりと、はっきりと、めいめいかくかくとして、分かる話ではないか…!
だから、ここでも思うこととは、問題は、あながち内村鑑三のごとき「クリスチャンごっこ」にいそしんでいるおバカな人々のせいばかりでもなく、パウロの文章の書き方にこそ問題があったんじゃないの――?といふうにも、思ったりするものだが、まあ、これは別の議論になるのでやめておこう。
がしかし、
これはいささか余談になるかもしれないが、ものはついでに書いておこうか。
パウロなるキリストの使徒が、特にローマ書なんかの中で、「肉と霊の闘い」というような話について、くどくどと論じてくれたそのおかげで、「文学」にも、ロクな影響を及ぼさなかったと。
たとえば、
「 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」、とか。
そして、ドストエフスキー。
この、パウロのように理屈っぽく、癲癇病みのロシア人もまた、ローマ書の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」に憑りつかれた、おバカな一人である。
その冗漫なる小説の中で、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです…」といった事柄を、書き表したくて、書き表したくて、かならずと言っていいくらい、分裂症をわずらったような人物を登場させては、「自分のしていることが分からない」を言わせている。
はっきり言って、読むたびごとに「またか!」と目をまわし、「わざとらしい!」と頭をふらされざるを得ない。
「教会ごっこ」も「ユダヤ人ごっこ」も、しんからヘキエキさせられるけれども、ドストエフスキーなんかがこだわった「罪人ごっこ」というのもまた、ちゃんちゃらおかしい「おバカごっこ」である。
なによりもなによりも、なによりも大切なひとつ事とは、「イエスが死者の中から復活したこと」であり、「父なる神がその憐れみによってキリストを復活させたこと」、である。
ローマ書にだって、そう書いてある。
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」、と。
「イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら…」
――これこそ、「内面がユダヤ人」であるという言葉の指し示したもの、すなわち「”霊”による割礼」である。
――また、これこそが、各時代の人間が探し求めてきた「希望」であり、人類すべてのなお求めてやまない「宝」であり、「永遠の命」であり、「救い」であり、、、「神」そのものであり、「神の神たるゆえん」ではないか。
「割礼」も「バプテスマ」も「ヘブライ語」も「祭り」も「ユダヤ人」も…すべて、なべて、おしなべて、それ自体はなんの価値も力もない「やがて過ぎ去る影」である。だから、ドストエフスキーみたいな「ごっこ」をばことさらにがんばらなくても、そういう影の行きつく先とは、はじめから「わたしはなんてみじめな人間なのでしょう」が関の山なのである。
つづく・・・
