保健室の先生になったわけ——母の言葉と、鳥のさえずり
退職して、近所をぶらぶら歩くようになりました。
ある日、ふと足が止まりました。道沿いの植栽に、花が咲いていました。 ——花って、こんなにきれいやった?こんな色やった?
鳥の声も、なんだか違って聞こえるようになりました。 「鳴き声」が、いつの間にか「さえずり」になっていた。
花鳥風月を愛でるって、こういうことなのかと。 長い間、そんな余裕すら持てずに働いてきたんだなあと、少し笑えました。
実は、英語が好きでした。
若い頃の夢は、海外に関わる仕事でした。ツアーコンダクターに憧れて、漠然と「人生で3回は結婚して、3回目は外国の人と!」なんて考えていたこともありました。
笑ってください😄
でも、英語で食べていけるのかという不安もあって。何か手に職を、資格をと考えるようになりました。
母の言葉が、進路を決めました。
私の母は、たくさんの弟妹を養うために学校を出ることができませんでした。内職やパートをしながら、父から不当な扱いを受けながらも、遊びにも行けず、家族のために人生を捧げてくれた人です。
そんな母が、幼い頃からよく言っていました。
「手に職があれば、女でも経済的に自立できる」 「何でもいいから、先生と呼ばれる仕事に就きなさい」
その言葉が、ずっと心の中にありました。
短大時代は、バイト三本立てでした。
裕福ではなかったので、短大が精一杯でした。でもせっかく行かせてもらえるなら、と必死でした。
夏休みは市民プールで、冬休みは郵便局で、普段の夕方から夜はKIDDY LANDで。我ながらよく動いていたと思います。
母が「働かざる者食うべからず」と言いながら、家事も分担して育ててくれた人だったから、働くことは自然なことでした。
気づけば、一番身近にあった仕事でした。
養護教諭を選んだのは、実はそんなに大層な理由ではありません。
小学校の保健室の先生は、正直、怖くて好きではありませんでした。保健室って、あまりいいイメージがなかったんです。
ところが、中学1年の3学期に転校することになりました。新しい学校では、最初は勉強にもついていけず、なかなか馴染めなくて。そんな時、体調不良で保健室に行くと、先生がとても優しく話しかけてくださいました。
あの時の安心感や話した内容まで、今でも覚えています。 保健室に対する気持ちが、すうっとリセットされた瞬間でした。
自分もよく保健室に行く子どもでした。高校では保健委員会にも入っていた。気づけば、保健室という場所がずっと身近にあった。
それだけといえば、それだけのきっかけです。でも今思えば、あの転校先の先生との出会いがなければ、この仕事を選んでいなかったかもしれません。
退職した今、思うこと。
今年の3月、保健室を去りました。そんな私を、同僚や家族が支えてくれています。
そして通勤電車で、母と同じくらいの年齢の女性を見かけるたびに「私も頑張らないと」と思い続けてきた日々が、走馬灯のように浮かんできます。
母が「手に職を」と言ってくれたから、この仕事に就けた。母が働くことを教えてくれたから、長年続けられた。遊びにも行けず、家族のために生きてくれた母に、改めてありがとうと伝えたいです。
3回目の結婚は外国人と——なんて夢は叶いませんでしたが、保健室の先生になれたことは、我ながらよかったと思っています😄
いいなと思ったら応援しよう!
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。今日の気づきをあなたと共有できたことに感謝します。