第1章 なぜ公園は“自由な場所”なのに息苦しいのか?─制度が風景を縛るとき

公園は「誰もが使える場所」だと言われる。
けれど、そこでは意外なほど行為が制限されている。
自由のはずの空間が、なぜか窮屈に感じられるのはどうしてだろう。


芝生の上で猫が眠っている。風も光も穏やかで、人の姿はない。けれどその光景は、確かに風景として記憶に残る。

しかし設計の現場では、そうした静けさは価値として扱われにくい。「人が集まる」「視線が抜ける」「緑化率○%」といった、数値化できる基準ばかりが重視されてしまう。風景は制度のなかで「見えるもの」とされ、「測れるもの」へと変わっていった。



1. 風景は「見るもの」なのか

ランドスケープという言葉は、もともと「land(領域)」と「-scape(視覚的にとらえられた景色)」の組み合わせから生まれた。つまり、見る人の視点から切り取られた風景を意味していた。近代ヨーロッパでは、この「見る風景」は絵画の構図のようにフレーミングされ、庭園や展望台、ピクチャレスクな景観に形を変えた。

現代でも、「見晴らしのいい場所」「抜け感のある街並み」「緑が見える空間」が良い風景とされるのは、この視覚中心的な価値観の延長線上にある。

けれど風景は、本当に「見るもの」だけなのだろうか。音や匂い、時間の蓄積、誰かがいた痕跡や不在の気配──そうした感覚の層は、制度的な基準からこぼれ落ちやすい。



2. 制度が風景を測りはじめたとき

近代以降、国家や行政は風景を制度化し、数値化する仕組みを整えてきた。都市計画における用途地域や建ぺい率、容積率。景観条例における高さ制限や色彩規制。さらには「緑被率」「緑地率」などの環境指標も導入されてきた。

欧米のゾーニング制度でも、容積率や建物の高さに加え、地区によっては「視覚的調和」や「公共空間の利用度」といった要素が審査対象となることがある。つまり、風景は「数値」や「利用実績」として制度に翻訳され、管理の対象となってきたのである。

一見すると、それは質を守るための仕組みのように見える。だが実際には、「制度に適合していること」そのものが「良い風景」の条件となり、制度に映る部分だけが公共性として承認される構造を強化している。



3. 設計の言葉と、こぼれ落ちる風景

設計の実務において、制度への適合は不可欠である。図面に描かれるのは、面積や寸法、数量といった測定可能な情報であり、それをもとに費用も算出される。だからこそ、数値にできないものは図面からもれ落ちやすい。

風の流れ、音の響き、午後の湿度──それらは制度に届かず、設計言語として扱いにくい。特にランドスケープは建築に比べてスケール感や時間の変化を図面に表しにくく、パースやCGを駆使しても完全には伝わらない。

思想家フランコ・ベラルディ(Bifo)は、アルゴリズムが支配する社会では、人間の身体的な感覚や詩的な知覚が制度の外へ追いやられると指摘した。ランドスケープに置き換えれば、湿度や陰影のような「手ざわり」が制度の言葉から抜け落ちていく現象だと言える。



4. 「見える風景」だけを信じないために

制度が「見える風景」ばかりを価値とすることで、「使われているから良い」「人が集まるから意味がある」という単純な正義が支配しつつある。

けれど、誰もいない午後の公園や、空いた縁側、踏み跡のない土の匂いにも、確かに風景は息づいている。制度には記録されないものを、設計者はどう扱うのか。

制度が風景を「見えるもの」にしてきた歴史を振り返ることは、あえて「見えない風景」を設計に取り戻す第一歩になる。

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