崩壊の予兆──失われた「責任」の均衡
「文明の崩壊は、常に内部から始まる」
歴史家ウィル・デュラントの言葉を引くまでもなく、今の日本社会を眺めていると、その静かなる崩壊の音が聞こえてくるようでならない。昨今、声高に叫ばれる「女性活躍」や、過度とも思える女性への配慮・優遇を見るにつけ、社会を支えてきた太い梁(はり)が軋んでいるのを感じるからだ。
昭和という時代を振り返れば、確かに男は「立て」られていた。家庭にあっては父として威厳を持ち、職場にあっては長として敬われた。今の若者からすれば、それは前時代的な男尊女卑の象徴と映るかもしれない。だが、そこには現代人が見落としている、極めて重要な「均衡」が存在していたのである。
男が立てられていたのは、単なる特権ではない。それは「無限責任」の対価であった。
一家が食えなくなれば、それは父の恥であり責任であった。会社が傾けば、泥をかぶり、身を粉にして組織を守るのは男たちの役割だった。荒波から家族や組織という船を守るため、矢面に立ち、重圧に耐え抜く。その「責任」という巨大な重りを背負っていたからこそ、反対側の天秤に乗る「権威」や「優遇」と釣り合いが取れていたのだ。男たちはその矜持(きょうじ)を胸に、社会の屋台骨を支えてきたのである。
翻って、現代はどうだ。
「女性活躍」の美名のもと、権利や地位の配分ばかりが急ピッチで進められている。もちろん、女性が能力を発揮すること自体を否定するつもりはない。しかし、そこに昭和の男たちが背負っていたような、逃げ場のない「責任」は伴っているだろうか。
優遇は享受するが、泥をかぶる役回りは御免こうむる。権利は主張するが、結果に対する全責任を負う覚悟は希薄に見える──。あえて言わせてもらえば、今の社会は「美味しいとこ取り」を許容しすぎているのではないか。
責任なき所に権限を与えれば、組織は腐敗する。重圧なき所に優遇を与えれば、人間は増長する。かつて男たちが歯を食いしばって維持してきた「責任と権威の均衡」が、今まさに音を立てて崩れようとしている。
男から威厳を奪い、一方で従来通りの過重な責任だけを押し付け、女性には権利を与えて責任を問わぬ。ん な歪な構造が、長く保つはずがない。支える者がやる気を失い、守られる者が感謝を忘れた時、社会という巨大な構造物は内部からその強さを失い、瓦解への道を歩み始めるのだ。
今の日本が直面しているのは、単なるジェンダー論ではない。社会を維持するための「契約」の崩壊そのものなのである。
