男女平等の「守られたい」と「対等でありたい」の矛盾について

男女平等やジェンダーレスという言葉が日常に浸透し、私たちの意識はここ数十年で大きく変わりました。職場での機会均等、家事分担の公平さ、対等なパートナーシップ。これらは現代社会において誰もが認める正義であり、目指すべき理想です。

しかし、ふとした瞬間に私たちは、自分の中にある矛盾した感情に気づくことがあります。それは、「対等でありたい」と願いながら、心のどこかで「守られたい」と望んでしまう本音です。

たとえば、デートでの会計や、重い荷物を持つ場面、あるいは結婚後の経済的な大黒柱としての役割。頭では「割り勘が当然」「家計も折半」と考えていても、相手がスマートに支払いをしてくれたり、頼りがいのある姿を見せてくれたりすると、ときめきや安心感を覚える人は少なくありません。

ここには、非常に人間臭いジレンマがあります。

「守られる」ということは、心地よいものです。誰かに庇護され、責任の一部を背負ってもらい、大切に扱われる。それはある種の特権であり、甘美な体験です。しかし、誰かに守られるという構造は、どうしても「守る側(強者)」と「守られる側(弱者)」という上下関係を含んでしまいます。

一方で、「対等である」ということは、責任を等しく負うことを意味します。自分の足で立ち、経済的にも精神的にも自立し、相手と同じ重さの荷物を背負う覚悟が必要です。そこには、一方的な甘えは許されません。

私たちはしばしば、この二つのいいとこ取りをしたくなります。「私の意見は対等に尊重してほしいし、キャリアも応援してほしい。でも、いざという時は私を守り、私よりも強くあってほしい」。

このダブルスタンダードこそが、現代のパートナーシップにおける摩擦の原因ではないでしょうか。

権利としての「平等」を主張しながら、文化的な「特権」を手放せない。男性には従来の男らしさ(強さ、甲斐性)を求めつつ、家父長制的な支配は拒絶する。この矛盾した要求を突きつけられた側は、「結局、どっちなんだ」と疲弊してしまいます。

本当の意味での「対等」とは、守られる特権を放棄する覚悟を持つことかもしれません。

「守ってもらう」のが当たり前ではなく、お互いが一人の自立した人間として荒波に立ち、その上で手を繋ぐこと。自分が辛い時に相手に頼るのと同じくらい、相手が弱っている時には自分が盾になって守る気概を持つこと。

「守られたい」という欲求自体は、決して恥ずべきことではありません。それは人間の根源的な安心への欲求です。しかし、それを「性別による役割」として相手に一方的に期待するのではなく、「相互のケア」として交換し合える関係になれた時、私たちは初めてこの矛盾を乗り越えられるのかもしれません。

対等であることの厳しさを引き受けた先にしか、本当の意味で心が安らぐパートナーシップは存在しないのです。

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