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「いい子」だった私を迎えにいく。

「いい子」だった私を迎えにいく。

私は、幼い頃からある違和感を感じていた。

それは、やんちゃな子ばかりが大人に相手にされて、
しっかりしている私は、あまり相手にしてもらえないということだった。

担任の先生に、少し悪さをしたとき、こんなことを言われたことがある。

「あなたがいるから大丈夫だと思った。」

その言葉を聞いたとき、
私はなぜか少し寂しかった。

私は、嫌われることを極度に怖がる子だった。

あらゆる出来事を通して、
「見捨てられたかもしれない」
という感覚がすぐにやってくる。

だから怖くて、怖くて、
担任の先生に好かれるために必死だった。

担任だけではない。
親にも、友達にも、習い事の先生にも。

そして、自分自身にも。

私は、他人に合わせて生きていた。
そして、リーダーになることや、認められる機会は、できる限り手に入れようとしていた。

そうしていないと、怖かったから。

授業で指名されると、
私は自分が感じたことよりも、
「先生の注意を引ける発言」をしていた。

いわゆる「立派なこと」を話す癖がついた。

その癖は、今でも抜けない。

発言したあと、心のどこかから声が聞こえる。

「カッコつけてんじゃねーよ」

綺麗な言葉を並べるから、
せっかく発言しても、周りの反応は「ふーん」で終わる。

面白みがないのだと思う。

それが悔しくて、苦しくて、恥ずかしい。

だから今度は、人間味のある話し方をしてみる。
でも、それも「そうしよう」と思ってやっていることだから、興味を持ってもらえても、
「本当の自分を受け止めてもらえた」という感覚がない。

私はずっと、作られた自分で生きるしかなかった。

そんな私にも、忘れられない記憶がある。

友達のお母さんのことだ。

ある日、そのお母さんは、
私の顔に両手を当てて、
「むぎゅーーーーーっ」としながら、

笑顔で名前を呼んでくれた。

私は、何もしていなかった。

ただそこにいただけだった。

それなのに、
まるで宝物みたいに扱ってくれた。

私はその瞬間、
そのお母さんのことが大好きになった。

だってその人は、
何もしていない私を大切にしてくれたから。

あのとき感じた感覚を、
私は今でも忘れられない。


私はこれまで、仕事柄、
いわゆる「グレーゾーン」と言われる子どもやその親の力になりたいと思ってきた。

でも最近、あることに気づいた。

もしかしたら、
「いい子」と呼ばれる子への支援も、
同じくらい大切なのではないか。

手がかからない子。
問題を起こさない子。
大人の期待に応える子。

そういう子たちは、
「大丈夫な子」として見過ごされてしまう。

でも、その子は本当に
「何も感じていない」わけではない。

もしかしたら、

認めてもらうために
必死でいい子をしているのかもしれない。

ここで誤解してほしくないのは、
グレーゾーンと言われる子が
「いい子ではない」という意味ではない。

そもそも、
いい子も悪い子も存在しない。

ただ、そこに存在しているだけで、
誰だって価値がある。



そんなことを考えていたある日、
私は、過去の自分に会いに行った。

やんちゃな子ばかりが相手にされるのを見て、羨ましそうにその光景を眺めている
小さな私のところへ。

そして、こう伝えた。

「今はわからないよね。

安心感を得るために、
担任や親に認めてもらおうとして、
一生懸命なんだと思う。

そして、それが今のあなたにとって
当たり前なんだと思う。

でも大丈夫。

それで得られるものも、たくさんあるから。

それにね。

苦しくなったとき、
大人になった私は、ちゃんと立ち止まる。

すごく怖いけど、
ちゃんと立ち止まって、

必ずあなたを迎えに行く。

抱きしめに行くから。

だから今は、今のままでいい。

必ず行くから。

信じてね。
自分のこと。」



それを伝えたとき、
心がふわっと軽くなって、
あたたかくなった。

涙も、自然に流れてきた。

だから私はこれからも、
何度でも過去の自分に会いに行く。

そして、迎えに行く。

あの「いい子」だった私を。


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