人生が変わる直感と矛盾と音楽の話
序
どんな音を聴いて響くのかによって「自分が今どんな状態にあるのか?」を確かめる習慣が、昔からずっとある。
最近はFourTetやThe XX、Fred Again、Disclosure…、国内では宇多田ヒカルとコラボして知名度が上がったFloating Pointsもよく聴いていた。
去年の夏に単独行をしたFUJIROCKの影響と余波の中にいる感覚が、今年の4月のFourTet来日のLive@豊洲PITでさらに爆発したまま、その勢いは止まらない。いまや日々に欠かすことのできないエネルギー源になっている。
あの時も必要なタイミングで、必要なことが起こっていた。
「ひとりでも行く必要がある。」と前日の深夜に覚醒して、むりやり上越新幹線に飛び乗った。
向かう途中、電車の中で爆発しそうな何かを抑えながら脳みそを高速回転させながら言葉に変換し続けて過ごした身体の感覚を今でも昨日のことのように思い出せる。電車から見える景色がピーカンの晴れというわけじゃなくて曇り空だったはずなのに妙に心地よかった。
その頃、数年ぶりに狂ったように聴き漁っていたFourTet。お目当てのLIVEは、深夜の苗場山でとんでもないエネルギーを溢れさせていた。どうしてこんなに震えるんだろう。叫んで、飛び跳ねる、躍動の音。
調べると、彼は「愛とエネルギーが循環する空間をつくりたいんだ」というようなことを言っていた記事、あるいは動画をどこかで見かけた気がする。「そうなんだ!」と得心した気になって、出会って15年近くかけて、ようやくどうしてあんなにも腹の底から突きあげられるように震わせる「何か」があるのか、いったい自分が「何の音」を聴いていたのかが、はじめて少しだけわかった気がした。
※ヘッドホン/イヤホン推奨
LIVE音源ばかりを片っ端からiPhoneで聴けるようにしている。興味が尽きない限りはSoundCloudやMixCloudも徘徊して掘りにいくこともある。音源は実体のある形で手元に、ローカルファイルで持っておきたい。ノータイムでロードも不要。ストレスなくアクセスできることを優先したいし、見つけた音たちを自分のものにしておきたい感覚は昔から変わらない。
なにより、配信される単曲よりもLive音源の方が圧倒的に身体の芯に響く感覚をつくりだしてくれる。それはLiveにこそ身体のコミュニケーションがあるからこその「情報量の多さ」があるいうことだと思う。当然、その音質がよければ音像までもがくっきりと伝わってくるから、何度でも身体はよろこぶ。
少し前まではアンビエントやクラシックを聴いていた時期があった。サカナクションはベーシスト草刈亜美のチャレンジングなアンビエントや、アリス・紗良・オットの情緒に刺さる心地よいピアノの音ばかりをぐるぐるしていたこと。不思議と印象派のドビュッシーやラヴェル、サティは聴かなかったのはどうしてだろう。
この頃は音楽をまったく聴かないこともよくあった。
無音がもっとも心地よくて外の音を聴いていたいと思う時間が多かった。
それは何かに、ものすごく集中したかった自分だ。
さらにさかのぼるとFKJやYussef Dayes、Khruangbin、Sunni Colon、Tom Mischあたりを聴いていて、10年ぶりくらいに初期のDEDEMOUSEに回帰した時期でもあった。DEDEMOUSEは国内有数のメロディセンスの天才にして奇才だと思う。POPS、といってもコーチェラの出演で、もはや「いわゆるその域」を超えている藤井風や宇多田ヒカルをよく聴いていたのも、この頃。
いずれも新譜かどうかに関係がない。初期の『何なんw』は不変の響きがあるし、Misiaはヒット曲を出し続けた後半よりも、初期の『陽のあたる場所』が最高の一曲だと思うし、あれこそが溢れだしたエッセンスだと思う。どちらも根っこにあるのはSoulの系譜。
もう久しくGRAPEVINEは聴いていない。けど、それでも『真昼のストレンジランド』はずっと最高の名盤だと思う。
最適と最高はぜんぜん違う。ツアーLIVEでNHKホールに行った時のことは今でも覚えているし、LIVEのあとにはすぐにDVDを購入した。中でも『冥王星』のLIVEバージョンはとんでもないグルーヴを放つ。
ここに載せてもリアルを伝えられないのは、もどかしい悔しさがこみあげてくる。これが体験こそが価値を持つと言われるゆえんだと思う。
どこかのLIVEで聴けたら、ぜひ。
だんだん、もはや何でもアリになっていくのだけど、いま、ここにある身体が肚の底から疼く音楽、心から動いて踊りたくなる音をいつも探している。と書いて、「そうか、大好きな音も、大好きな言葉も、いつも響いて疼くという点では、同じものを探しているのか」と気づく。
「その音」が刺さると居ても立っても居られなくなる自分を知っている。だから常に、この身体のどまんなかにいたいと思っている。いつでも受け取れるし、いつでも踊りだせる。そういう衝動と叫びを持っていることを自分ではよく知っている。
これは、人に対しても同じだ、と思ってハッとする。
「ねえ、その奥底に何があるの?」
そうやって、いつでも見たいと思う乱暴な好奇心の源泉と、同じ場所から湧き出ている。
破
世界的なトレンドで鬨の人になったDJ、¥OU$UK€ ¥UK1MAT$U(行松陽介)。耳をつんざく爆音とともに何もかも壊して回るロックやメタル、夢うつつに空を飛ぶドリーミーなポップスやエレクトロニカ、琴線に刺さって響く旋律のピアノと天使の歌声、地獄から天国に放り出された瞬間に聞こえてきそうな声。
破天荒な展開は魂のなせる業で、先行きが読めないばかりにもかかわらずジャンルを高速で力強く領域横断していく勢いが彼の命の出力の底力なんだろう。
「彼なら水と油も混ぜることができるだろう」と評されるのも、まさにその通りだと思う。
僕はここに、人間を見る。とにかく通しで聴いてみてほしい。
少なくとも今の僕には魂を深くエグるように響くものがあった。前代未聞の1900万回再生をするだけの何かが、確かにある。
不死鳥のような物語が生んだトレンドを引き継いで日本人DJではじめて呼ばれた世界最大級の音楽フェスCOACHELLAの映像は、間違いなく真骨頂のひとつだ。
個人的にはガソリンに直結するのはこちらの音源で、この1か月間、ほぼ毎日これを聴いたまま離れることができないでいる。
誰の中にもあるんじゃないのか、こういう感情とエネルギーの質感のジェットコースターが。
表面だけ取り繕って綺麗な厚化粧で整形された、夢見がちなものだけのはずがない。それこそ嘘だ。
本当はどろどろしてねばっこく、反吐が出るような感情も、不快にまみれながら堕ちていく感覚も、主導権を瞬時に奪われる怒りの恐怖も、意図を持つ声であって、ただそういう声が聴こえる、というだけの話だ。
その現象自体は、アイデンティティとは何ら関係がない。
だから、これらはぜんぶパワーに変えることができる。そういうことを、僕らは知っているはずだと思うし、この音が言っているのはそういうことのように思える。
そしてそれは聴けば聴くほど旨みが増す、このCOACHELLAの音源の方に、僕はそれをより深く感じる。
急
そういうやり方、まさに「魂のなせる技」を実地で学んでいるのが、いまだ。できているかどうかの話ではなく、そうではなくて、この2年で、自分という存在が心底「大丈夫」なものになった。これまでにはないほどの根拠のなさで、自分の存在を信じたままの、自分の使い方。
ここまでに得たものは、何だろう。
それは、一言で表すとしたら「どんどん、嘘をつかなくなった」ということだ。自分に。相手に。いま、この瞬間に。
手に入れることと手放すことを、両手で同時に持つ。腹立たしくてうんざりしている自分と、喜びに心が潤う自分を両方そのままに生かす。
自分に嘘をつく自分と、真実からパワーが溢れてくる自分の存在をそのままのスペースごと諦める。
ここから先に進みたくない自分と、どうやったってここにいるべきじゃないことを身体でわかっている自分にまるごと許可を出す。
そういう類の意図を置くことが多くなった。
どういう結末を迎えるのかは、わからない。だからまだ景色が欠けている。
ここから起こることは、きっと何を選んでもぜんぶ正解じゃない。先のことは何も見えないし、それが見える人は誰もいない。
それなのに激痛にさいなまれたり、抗えない引力を感じたりするカオスが、今よりもさらに濃いカオスとなって目の前に広がっている。
もう一階層、深いところへ入っていくことをわかっている。
そのカオスの海に浮かんだまま、「もうここには居たくない」と願いながら、「でも、進むのも嫌だ」と駄々をこねる、ふたりの自分がいる。
でも、もうあたらしい嘘はつけない。もう、ここにいる理由がない。たくさんの傷を負うだろうし、たくさんの涙が流れるかもしれない。大切な何かも失うだろう。
それでも、ここにいるわけにはいかない。
それが、選択した唯一無二の理由だ。
自分でやってやろう、やるしかない、どうにかコントロールしてやろう。そういうエゴの「くびき」を、一度すべてはずしてみる。やるところまでやったら、すべてを委ねて投げ出してみる。これから起こることに、ただ身を任せる。
それは、自分の力を温存したり、周りに合わせて抑えたりすることとは全く違う。 むしろ、「力を存分に使う」ということだ。土壇場は、命を燃やして力を使う瞬間があっていい。
それは、すべてを手放して委ねることと何一つ矛盾しない。
選択する。決める。閉じる。
この極めて困難で、リアルな痛みを伴うプロセスの中で、これを「実験」してみたら、どうなるんだろう。これを、思いきり『遊ぶ』ことをしてみたら、どうなるんだろう。
遊ぶ。この言葉を自分の中から取り出して使おうとする時、まさにいま、書いていてもそうで、身体の奥から震える。自分の最も深いところにある大切な価値観から、存在そのものを使おうとしていることが、身体を通してわかる。これは自分の霊性の話だ。
これまでの延長線上で、残りの人生を埋めたくはない。いま、大きな何かを閉じる。それなら、人生の喜びは何か。役割はいったい何か。でもそれらは閉じたあとに自明になるだろうから、いまは考えなくていい。
40年間、決めないまま過ごして、閉じてこなかった。それを今、意識的に閉じるというのは、どういうことだろう。全部ひっくるめて無視できないもの、大切な何かを閉じることができるのは、どういう自分か。
そして、そこから何が生まれてくるのか。その好奇心が、疼く。
「ねえ、その奥底に何があるの?」
機は、すぐそこまで来ている。近い。
そう思っていたら、ほら、やってきた。
なんの偶然か、CTIのCo-Active Leadership® Programを離脱した、あれから3カ月ちょうどだ。
あまりに長かった。
一歩を踏み出すまでの時間が、永遠のように感じる。
開くために、閉じる。
ある詩の言葉が、静かに、深く刺さる。
解決する人はすべて自分がきっかけを作っていると思い込んでいる。
一方、奉仕する人は何かまだ見ぬ大いなるもののために自分が使われていることを知っている。
私たちが解決するのは何か特定のものだが、私たちが奉仕するのはつねに生命の神秘とその完全性に関する何かである。
解決および援助はエゴのなせる業であり、奉仕は魂のなせる業である。
援助するとき、あなたは生命を弱いものと見ている。
解決するとき、あなたは生命を壊れていると見ている。
しかし、奉仕するとき、あなたは生命を完全なものと見ている。
解決と援助は治すかもしれないが、奉仕は癒やす。
私が援助するときは満足を覚えるが、私が奉仕するときは感謝を抱く。
解決とは評価が形となったものであるが、奉仕とはつながりが形となったものである。
