言葉にならない怒りの正体
やり場のない怒り、山へ向かう深夜2時の衝動
やりきれない思いに苛まれた1週間だった。
感情が抑えきれなくなる頻度が増えている。
行き場を失った怒りを飲み込んで抑えたことによる虚脱感もある。
やるせない気持ち、どうにもじっとしていられない。
反応的な自分、反応させられている自分だ。
自分の手綱を握れないまま、心と身体と魂と思考がバラバラになっているのがわかる。
でもGWに突入する直前、アイデアが舞い降りた。
「あれ? 明日から一泊で登山、行けるんじゃないの?」
それは会社から帰る時……
そうだ、総武線に乗る瞬間だ。
ソワソワしながら心の声が掛け合いをはじめる。
「え? ほんとにやるの?」
「いや、行かない手はないだろ」
「近場のテント泊……そうだ、新しいザックも試せる!」
「よし、行くのは決定な」
この衝動的なカオス。
右往左往と悩みながら、「行く行かないに関係なく、とにかく身体を動かせ」と自分に言い聞かせて、買い出しもパッキングもなんとか済ませた。
ようやく寝たのが2:00で、起床は4:30。
ほぼ仮眠レベルだけど、アドレナリン優位だから余裕で動ける。
自分の心と身体が、頼もしい。
こういう追い込み方は、張り合いがあるから好きなんだと思う。
しかし年々、この感じが増しているのは不思議だ。
そうしてばっちり向かうことにしたのが、東京は百名山にして最高峰、2017mの雲取山………
に、向かう途中にある「三条の湯」だ。
ただし日曜の9:30には青梅駅に戻ってきていなければならない条件がある。タイムスケジュール的にピークハントはできないし、今回、あまりそこに響かない自分がいる。
それなら、師匠おすすめの天国と地獄の天平(でんでいら)を経由して景観を楽しむAルートに行くか。
または、渓流の音を聴きながらの林道ピクニックで早めに着いて、まったりするか周辺散歩にするかの判断を後回しにする贅沢なBルートか。
しかし、いまは、どのルートで行くか?よりもやらなきゃいけないことがたくさんある。
理屈を捨てて響くなら、予約は当日のバス停で
そうだ、そもそも三条の湯に泊まれるかどうか、これは博打だった。
前日時点ではWEB予約は締め切られ、電話が通じる時間をとうに超えていた。当日予約は原則禁止で、電話をかけるにも9:00開始と書かれてある。
あらゆることが直前すぎて、時間も準備も意思決定も移動も、何もかも制約だらけだった。
だから、もう登山口のバス停「お祭」まで行って、そこでちょうど9:00をすぎる頃合いだから宿に電話して、予約を試みることにした。
WEBには「原則、当日予約は受け付けません。事前に予約を済ませてください」という情報が溢れていた。
内心ビクつくところもあったのは確か。
だけど、もはや、やってから考える。
そういうスタンスに決めている。
だから行かない、リスクがあるから云々、みたいな話は、もういいんだよ。
楽しいことをやろう。
響くことに身体を使おう。
もっと許可を出していこう。
ただし、宿と自分のためにも、もう少し早めに動くようにはしていこう。
さて、めでたい名前、間違いなく自分をお祝いしてくれているなと勘違いさせてくれる「お祭」のバス停についた。
調べてみると全然めでたくないのだけど。
バスから降りた人たちが登山口に向かって行くのを尻目に、さっそく宿に電話する。
すると、宿の人は嫌そうな声もせずに、「テント場は場所がいっぱいになって埋まってしまったんですよね」と、申し訳なさそうに答えた。
「小屋泊はどうですか?」と聞くと、「何名様ですか?」と聞かれたので「おや?」と思い、「1名です」と答えたら「ちょっと待ってくださいね。確認しますね……」
というわけで、無事に小屋に泊まれることになりました。
え?ほんとに?
いいんですか??
うわあ、本当にありがたい。
「助かった」という気持ちと、「これで一泊で入山できる」という喜びに安堵した。
宿の人に、感謝しかない。
テントや寝具一式、食料は余分な荷物としてたくさん持って来ちゃったけど、この愚か者めが。
ふはは、でも、せっかくなんでね。
小屋のご飯をいただくことにします。
一泊夕食付、9,800円。
安いよ、1.5倍払ってもいいくらいだ。
さて、すべての準備が整ったんじゃないか?
ようやく、何も考えずに普通の山行と同じ条件が整った。
セットアップは完了して、最高の天気、雲ひとつない青空の下から林道に入って行く。
ああ、青々とした新緑と風が気持ちよくて、たまらない。
気候は涼しくて、空気が軽くて澄んでいる。
ぜんぶが透明。
一息ひと息が身体を通り抜ける風の通り道をつくる。
空気を吸い込むと身体が透けて軽くなる。
新しい相棒のザックは、驚くほど身体にフィットした。
不要な装備を詰め込んでずっしり重いはずなのに、なぜか軽い。
このままずっと歩いていたいと思った。
どこまでも歩いていけそうな高揚感があった。
足がすいすいと、勝手に前へ進んでいく。
無心で土を踏みしめる、喜びの時間
山の、木々の間を通り抜けていく。風を感じながら、遠くで流れる川の音を聞きながら、前に前に歩いて行く。
土の感触を味わいながら、足の裏で地面を踏み固めて歩く。本当に美しい透明な新緑の緑に目を潤ませる。
木漏れ日の太陽の光の揺らぎに目がチカチカする。
息を思いっきり吸い込むと、香ばしい木の香りが鼻の奥を抜けて脳の中まで抜けていく、たまらない爽快感。
ずっとずっとずっと今ここを感じながら、ただただ無心で歩く。
歩く歩く、ひとり山を歩く。
ここに足りないものなんてあるのか?
特にいまは、これで充分だろう。
あぁ、もう、このまま全部、なにもかもなげうって、ずっと山を歩いていきたい。
山道を歩いていると、下の方から轟音が聞こえる。見下ろすと、昨日、一昨日に降った雨で水かさの増した川が勢いよく流れる濁流が見える。濁流といっても、都会のドブ川に比べれば圧倒的にきれいな清流だ。
勢いよく流れる様子は暴力的で、だからこそむしろ生命力を感じる。そういうもので溢れている今日はやっぱり少し特別な気がした。
以前、人生の師匠に道なき深い山奥の源流へと連れ出されて沢登りをしたのも、ちょうどこの時期だった。
あの新緑のインパクトも半端ではなかった。
目にした瞬間、本当に「圧倒」されるほどの瑞々しさ。葉っぱ一枚一枚が生きていると感じるような躍動があった。
抑え込めば力を奪う。本当の目的は「叫ぶこと」
恍惚としながら、こんなにも気持ちよくて満たされてしまうと、「もう永遠にこのままでいいじゃん」と思ってしまいそうになる。
でも、そういうわけにはいかないよね。
その気持ちを確かめてみると、エゴの質感はない。でも、快と不快の軸にあるのはわかる。
それとは矛盾しない形で、さらにもう一つ、純粋欲求に近い意思もある。
それ、はっきりと、ありありと感じてるでしょう?
明確にやらねばならないことがあるよね?
自分自身のために。
それをどう進めるのかは今は考えなくていいから、その自分も大事にしてやるんだ。
そいつが持ってる本当の声を出せる場所がなくて、今週はずっと無気力になってしまってたんだろう。
飲み込んだ怒りや、押さえ込んで、押し潰し続けた苦しみや悲しみに蓋をしてきた。
どれだけ仲間たちと言葉を交わしたとしても、それとは違う何かがずっとある。
「言葉にならないもの」だ。
自分が持っている力を、身体が使いたがっているエネルギーを、自ら抑えている。
当然、そのパワーはどんどん出なくなっていくし、鮮度は落ちて、色は濁って使えなくなっていく。
お前が、お前自身が生きることに、その力を回せなくなっていく。
当然だ、当然そうなる。
そういう自分でいたいわけじゃないだろう。
当たり前だろうよ。
だから、「こんな時だからこそ」「こんなことをやっている場合なんだ」って、自分に言いながらやってる。
それは直感で、無意識の確信だ。
自分を許して解放させる、力の湧く選択は何か?
いざという時、水路が通っている自分でいるには?
生きている状態の自分から、応答をつくるなら?
その問いからとった行動は絶対に、極限状態の中で自分を支えてくれるはずだ。
なんてことを真剣な顔でひとり、ぶつぶつと喋りながら歩いていると人工的な林道の終わりが見えてきた。
このペースなら昼過ぎには三条の湯に着く。そこからどう過ごすのかをまったく考えてなかったことにハッとした。
ひとつめは、宿の湯に浸かって、本を読んだり散歩をしたり、さっきみたいに考えたことをまとめたり、書いたり、一冊だけ持ってきたヘルマン・ヘッセは『デミアン』を読んで、ゆっくり過ごす。コーヒーを淹れたりなんかしながら。
ふたつめは、三条の湯に荷物を置いて、アタックザックに切り替える。水と行動食だけ持って、懐かしの雲取山山頂を目指すか。
今日の目的は、何も考えない時間を過ごすこと、それ自体を喜ぶこと。やりたいことをやる、ということだ。
でも、ここに来て気づいた、もう一つの目的があった。それは、山の中で思いっきり叫んでみることだ。本当は、一連の流れはすべて、このためにあったんじゃないかと思ってる。とてつもない、めちゃくちゃな響きがあるし、ワクワクしてくる。
きっと、そういうことなんだと思う。
どこで、いつ、やろう。
と、言ったって、すでに山の中。
直感に従って、好奇心とともに探索していこう。
そのために必要ならアタックザックでピークハントすればいいし、三条の湯にとどまったっていい。
それは手段に過ぎない。
目的は叫びの方だ。
恐れの箱を壊す、本性の声
宿についてからは、昼ごはんを食べ、コーヒーを淹れ、宿を中心に過ごすことを決めた。
鉱泉の湯に浸かり、部屋のベランダから見える景色を見て読書をしながらうたた寝するという最高の時間を過ごした。
翌朝、二日目は4:00に起きて、三条の湯から下山開始。
まだ暗い山道をヘッドライトで照らしながら降りはじめる。
すこぶる快調だ。
歩きはじめて1〜1.5時間くらい経った頃か、林道の端っこで足を止めた。
眼下には渓流が流れ、谷底から望む山奥、その先には雲取山らしき山が見える。
「ああ、気持ちいいな。」
呼吸に身体を合わせて動かす。
内側に静けさを取り戻していく。
身体への集中のリズムがカチリと繋がる。
何かが頂点に達した瞬間、息を深く吸い込みきって、山の方に向かってありったけの声を放った。
咆哮だった。
年初、北海道は誰もいない山奥の雪原でも同じことをした。
なぜ、そんなことをしているのか?
それは、バラバラになりそうな、心と身体と魂と思考を取り戻すためだ。
身体の深いところから声が生まれ、それを放つ。
瞬間、ぐっと大きなエネルギーが体のど真ん中を通って出ていくのがわかる。
やると、自分の内側におおきな道が開くのがわかる。
声の出る場所が、変わる。
声を放つ。
その行為は、もう一つ、ある強烈な記憶と結びついている。
それはリーダーシップを学ぶリトリート中のこと。
ある夜、恐ろしい悪夢を見た。
家の1階の玄関で、足を限界まで大きく開いて、全身の筋力を使って耐えながら、死に物狂いでドアが開かないように押さえ込んでいた。
「ガチャガチャ!!!!」
「ガンガンガンドンドンドンドン!!!!!」
ドアの鍵は上下二つに加えてチェーンロックもかかっている。
でも絶対に開けられてしまうだろう。
そう思い込んでいる。
外から、正体不明の誰かが思いっきりドアを開けようとしている。
誰がいるのかはわからないが、見るのも恐ろしい気がしていた。
「絶対に開けるわけにはいかない」と、私は怯えていた。
私はドアを押さえ込み、後ろを振り返りながら、何度も叫んでいた。
「お母さん、助けてー! お母さん、助けてよー!」
誰もいない家の中で泣き叫ぶ私。そして、そんな錯乱した自分を、どこか冷静に眺めている「もう一人の私」。
今、この文章を書きながらも、身体中が粟立って背筋に恐怖を感じる。
私が恐れているものは、いったい何か?
安心安全な「家」という箱の中で、誰もいるはずのない、しかもよりによって「母」をなぜ呼んでいるんだろう。
そして開けられたら、外へ引きずり出されたら、死んでしまうとでも思っていたのだろうか。
外からドアを叩いていたのは、果たして恐ろしい怪物だったのか?
いや、違う。
もしあの時、ドアを押さえるのをやめて、外に向かって一歩を踏み出していたら。
きっと死ぬどころか、涙と鼻水を垂らしながら、喜びに打ち震えて歩き出し、駆け出していったと思う。
ドアをガンガンと叩いていたのは、私を外の世界へ連れ出そうとする「仲間」たちだったんじゃないか。
なぜかそんなことを思った。
あるいは、ドアを叩いて開こうとしていたのは、野生を取り戻した「もう一人の自分」だったのかもしれない。
安全な場所に留まりたい「古い防衛の力」と、全体性に向かって進もうとする「あたらしい統合の力」。
現実以上にリアルな夢の、痛いまでの葛藤の中で起きていた、長い緊張。
そして、その状態を気合で吹き飛ばし、悪夢の空間を打ち破ったのは、まぎれもない私自身の「声」だったのだ。
うめき声を上げ、叫び声とともにベッドから跳ね起きた私を、同室の仲間は静かにホールドしてくれていた。
あの時、放った声。
あれは私がずっとしがみついていた箱を壊して、内側から出さずにはいられなかった「本性の声」だった。
生き方を問う『デミアン』のことば
今このタイミングでヘルマン・ヘッセの『デミアン』を読んでいることは必然に思える。
数十年ぶりに、この書籍に書かれている言葉に触れてみて、自分がなぜCo-Activeに惹かれたのか、今どうして、こういうことが起きているかの伏線回収に思えてならない。
ヘッセの言葉が10代のうちに自分の身体の深いところを通り、巡っていったというのは奇跡的な僥倖に思える。
自分を祝福したくなる。
20年前の自分に伝えてやりたい。
まだ読み返している途中だけど、いくつか抜粋して、ここを閉じようと思う。
われわれはたがいに理解することはできる。
しかし、めいめいは自分自身しか解き明かすことができない。
この世の中で人間にとって、自分を自分自身に導く道を行くより、心にさからうものはない。
衝撃はいつも「別な世界」からやって来て、いつも不安と強制とやましい良心とを伴い、いつも革命的で、私が自分の住み家としたいと思っていた平和を危うくした。
蛾はただ、自分にとって意味と価値のあること、自分に必要なこと、絶対に手に入れねばならないことを、求めるだけだ。そういう場合にこそ、信じられないようなこともうまくいくのだ。
自分はどうしても北極に行きたいんだ、というようなことを頭に描くことはできる。しかし、実行したり、十分に強く欲したりすることができるのは、その願いが完全にぼく自身のうちにある場合、実際にぼくというものが完全にその願いに満たされている場合に限るのだ。
そういう場合になってきて、きみが自分の内から命令されることを試みる段取りになれば、きみは自分の意志をよい馬のように駆使することができる。
きみはきみの考えたとおりに生きてこなかったことがわかる。生活されるような思索だけが価値を持つのだ。
きみの『許された世界』は世界の半分にすぎないということを、きみは知った。きみは、牧師さんや先生がやるように、第二の半分をごまかそうと試みた。
そうはいかないだろう!いやしくも思索を始めた以上、それはうまくいきはしない。
鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという。
自分の信じない願いに身を任せてはなりません。あなたがなにを願っているのか、私は承知しています。あなたはその願いを断念することができなければなりません。でなかったら、それを完全に正しく願わなければなりません。
自分の心の中で実現を確信するほどに願えるようになったら、実現もすぐです。あなたは願っているけれど、また後悔し、不安をいだいています。そういうものはすべて克服されねばなりません。
愛は願ってはなりません。要求してもなりません。愛は自分の中で確信に達する力を持たねばなりません。そうなれば、愛はもはや引っ張られず、引きつけます。
シンクルール、あなたの愛は私に引っ張られています。それがいつか私を引きつけたら、私は行きます。私は贈り物をあげません。私は獲得されたいのです。
彼は愛して、それによって自分自身を見いだした。これに反し、大多数の人は愛して、それによって自分を失うのである。
