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恥ずかしくはないらしい

毎日noteを書いている。
去年の9月からだから今日で半年間毎日書いている。びっくり。
びっくりですわ。

自分がいちばんびっくりしている、というか自分以外の方がびっくりする理由は無いのだけど。
もっと続けている人もたくさんいるし、継続日数で誰かと競っていない。そして連日更新していれば良いというものではない。

それなりに時間を費やして文章を書いているからには、何か意図をもって僕は書いているのだと思う。しかし僕はなんのために書いているのか未だによく分からない。

恐らくなんらかの脳内物質を報酬にしている。
承認欲求を満たしたい気持ちはきっとある。

それでも書くこと自体に何か救いがあるような気もしている。マニ車を回すように。河原で石を積むように。

ところで毎日 noteを書いている、と書いたけど実際はキーボードをタイプしたり、スマートフォンでフリックしたりしているのだよ。
なんていう軽薄なノリは控えていきたいけども。

そんな上っ面のファニーさみたいなものに断固としたNOを突きつけていきたいが、そういうテイストはどうしても滲み出てしまう。手癖で文章を書いている。

もちろん本質はそこではなく、むしろ、自分が書いた文章をインターネッツの大海に放流していることについて、一考の余地はあるかもしれない。
思いの丈を込めたり込めなかったりする文章を、公開していることについて、少し考えたい。

もちろん大河の一滴という言葉もあるとおり、僕の書く文章は数多あるデジタルデータのひとつに過ぎないし、noteという雑多な商店街の隅の隅の端っこにお店を構えて文章を並べているような状態だ。

それでも読んでもらえたりすると嬉しいし、できれば読んでほしいなという気持ち、読まれることを志向して文章を書いている気持ちがあるのは明らかだ。(ましてや友人たちに読んでみて、なんて伝えてさえいるのだから)

だとすればやはり読まれて恥ずかしい文章を書かないように気をつけなければいけない。
恥ずかしくない文章を書くこと、それは現時点においてもそうだし、後に振り返ったときに、例えばあまりの恥ずかしさに憤死してしまう可能性なども考慮しなければならない。ボファニティウス8世のように。(彼は屈辱を受けて憤死したわけで、恥ずかしかったわけではないけれども)

そもそも僕の文章は恥ずかしくないのか、恥ずかしいのではないか、そんな自問自答はある。

「どっちなんだい?」
そんなふうに自分こと”リトルニョッキ”に問いかける。
すると、彼は

「恥ずかしくないヨ」

と答える、裏声で。どうやら恥ずかしくないらしい。

これは必ずしも「恥ずかしくない文章を書けている」ことを意味しない。現時点で恥ずかしいと思っていないだけだからだ。
自己評価が壊れている可能性が大いにあるし、それは僕が年老いていることと無関係ではないだろう。

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