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かつてDiorはモードだった(『ミセス・ハリス、パリへ行く』感想)

netflixで『ミセス・ハリス、パリへ行く』をようやく観ました。

戦争未亡人になった掃除婦ミセス・ハリスがディオールのドレスに魅せられ、お金を貯めてドレスを買いに行く……というざっくりしたあらすじは以前から知ってたんですが、あらすじからイメージしてたのと実際観たのとで全然印象が違ってびっくりした&良かった! という感想文です。
なお、思いっきりネタバレしてます。(特に最後「魔法と現実、あるいは狂気」)



時間が止まっていたミセス・ハリス

1957年。

……1957年!? 

映画冒頭、画面隅に表示されたその字幕に愕然としたところからわたしの映画鑑賞はスタートしました。
戦争未亡人が主人公というならば第二次世界大戦終結直後、1940年代後半が舞台なんだろう……そう思っていたのに、終結から十年以上経った1957年。画面の中のミセス・ハリスは夫の名が書かれた小包を怖くて一人で開封することができないでいます。
えっ今、本当に1957年って表示された?
わたしが混乱している間も映画は進み、仕事を終えたミセス・ハリスは同業の友人と共に酒場へ向かいます。店内では大音量で音楽がかけられ、ミニスカート姿の若い女性たちが一心不乱に踊っている。

あああれ、ビートルズの記録映像でよく見る、ファンの女の子たちと同じ服だ。
じゃあ、本当に1957年なんだ。
……そんなことって。
かくして画面の中のミセス・ハリスは小包を開け、夫が十年以上前に戦死していたことをようやく知ります。

後日確認しましたがビートルズのデビューは1960年、この物語の3年後です。ちなみに映画『ローマの休日』公開は1953年、ベトナム戦争は1955年から。アメリカが社会主義国と戦争している一方で、欧州は第二次世界大戦の傷から経済的にも文化的にも少しずつ立ち直ってきた……そんな風に語られる時期だと思います。
だけどそうした世間の動きとは別に、ミセス・ハリスはずっと夫を待ち続けていたのです。

そんな彼女が掃除婦として働く屋敷の一室で、ディオールのドレスに出会います。
ディオールは1946年創業。CHANEL登場以前のような、女性の胸やウエストを強調しスカートをふわりと膨らませるシルエット(コローラ・ライン)は、ニュールックと呼ばれ支持されます。
戦時中は物資が不足し、華やかな色の布をたっぷり使ったドレスを作ることはできませんでした。また欧州に限りませんが大戦中、男性が戦場に行ったため国内の労働力は不足し、それまで男性が担っていた仕事を女性が担うようになります。ふんわり膨らむスカートは戦時中には望んでも着ることのできなかった服、平和の象徴だったのでしょう。
イギリスにいた頃のミセス・ハリスは小花柄?のすとんとしたシャツワンピースを着ています。後にモデル体型と言われる彼女にはよく似合っていますが、ニュールックとは真逆のシルエットです。
実際、こうしたまっすぐなシルエットの服は戦時中に流行っていたようです。CHANELのコルセットからの解放を経て現れたものではありますが、1940年代においては布を節約し、男性のように働くための服として登場した部分もあるでしょう。

ああ、ミセス・ハリスの心は未だ「戦時下」にあったんだ。
それがディオールのドレスによって「戦後」を、「自分の人生」を生きるようになるんだ。

それは確かにこの時代の、ディオールのドレスにしかできない事だ。

ドレスに魅了された彼女の姿に、そんなことを思いました。
実際、パリに向かったミセス・ハリスは腰からふんわり広がるドレスを着るようになります(映画では宿を貸してくれたディオールの会計係の妹の服、という言い訳がされてます)。
ふんわり広がるスカートのドレスを纏うことはミセス・ハリスにとって過去、戦争という抑圧から解放されることでした。そして1957年を生きる彼女にとってはそれこそが「モード」(流行の最先端)だったのです。


ディオールと抑圧

数年前、東京都現代美術館のディールの展示「夢のクチュリエ」を観に行きました。
ずらりと並んだ美しいドレスや繊細な刺繍やビーズの連なりはため息が出ましたが、一方で展示とともに紹介されたディオールの、ドレスは女性の体の美しさを称えるものだといった趣旨の言葉にはちょっと「うっ」となってしまったのを覚えています。
同様の理由で、ここに並んでいる中から自分が着たいものはあるかと考えると難しいな、と思いました。ドレスの描く曲線を美術品、工芸品として……他人事としてみる分には美しいなと思うけれど、そこに載せられた、女性への賛美(とはつまり女、あるいは女の身体はこのようなものだという解釈でもある)を自分の身体に直接纏いたいかというと、即座には頷けないところがある。

女性の自立を謳うシャネルに対し、ディオールは女性ジェンダーに従順な女性が選ぶもの……そんなイメージがあるのは多分、私だけではないと思います。そして21世紀の日本においてもまた、女性ジェンダーに従順な女性を求める声は嫌になるほど溢れかえっている。
でも映画を見ながら改めて思ったのは、ディオールの原点は戦争及びナチスドイツのファシズムという抑圧からの解放なのだということでした。
女性ジェンダーに従順であれという命令が抑圧であるならば、その反対、女は男の代用品として機能せよという命令もまた、抑圧です。

(厳密には戦時下の女性は子どもを生む機能も別途求められる気もしますが、深入りはしません)
(現代日本において女性は男の代用品として働き、かつ「女性らしく」子どもを産み介護もせよという抑圧がある気もしますが、深入りはしません)

ミス・ディオールという名の香水があります。今ではシリーズ化されて沢山の種類がありますが、基本的にはフローラル系の香水です。
この香水が最初に登場したのは1947年、ディオール創業直後。最近調べて知りましたが、この香水の名前である「ミス・ディオール」とは、クリスチャン・ディオールの妹カトリーヌを念頭に置いているのだそうです。彼女は第二次大戦中、ナチスドイツに抵抗するレジスタンスとして活動していた……そう知った時、なんだか胸を衝かれる思いがありました。

戦争、抑圧、その中で戦う女性への敬意。

こうしてキーワードを並べていると、山本耀司を連想してしまいます。戦争未亡人(!)となり、洋裁店で働き息子を育ててくれた母への敬意を創作の原点に持つ山本耀司。

戦争は終わった! そう言ってレジスタンスとして戦っていた女性に美しい花(だけ)を捧げ続けるようなクリスチャン・ディオールと、戦争が終わってなお、生きるため戦い続けなければならなかった女性のための服を作る山本耀司と。

ファッションとしての方向性は真逆ですが、実は原点は結構近しいところにあるのではないか……そんな気がしてしまったのです。

女性たちに希望を与える愛のような香りを作ってほしい。

Christian Diorの代名詞【ミスディオール】 

「衣服によって女性を外敵から保護する」というのが当初からの彼のモチベーションだった。

ファッション界の巨匠、山本耀司が語る「インスピレーションを掴み取る力」 | GQ JAPAN


しかし戦争は終わった、もうあなたは戦わなくていいと花を捧げる行為は、女の子なんだからそんなに肩ひじ張って頑張らなくていいんだよ……と告げるのと、遠目で見ればとても近しく見えるのも事実です。
とはいえ、ディオールが女性ジェンダーに従順なコンサバファッションに見えてしまうのは、21世紀日本を生きるわたしが少なくとも今のところは、戦争の影に怯えず暮らせていることの証かもしれません。

透明であること

ディオールのドレスに魅せられた思ったミセス・ハリスはいくつかの幸運に助けられつつ、パリへ向かいます。
しかし当時は貴族向けのオートクチュールブランドであったディオールにとって、ミセス・ハリスは異質な存在です。
ここはあなたのような人が来る場所ではない。
受付のマダム・コルベールにそう言って追い返されそうになったところをシャサニュ侯爵に助けられ、ようやくミセス・ハリスはドレスの買い付け場でもあるショーの会場へ入ることになります。

彼女はいい掃除婦だよ、透明(invisible woman)だから。

とは、ミセス・ハリスの勤め先の一つである屋敷の男性の言葉です。
掃除婦は家の住人に代わり家を整える仕事です。
注目されることはない、仕事の痕跡を残すことは悪とされる仕事だから透明=優秀というわけですが、それは機能としての評価であり、ミセス・ハリスを対等な人間として評価した言葉ではもちろん、ありません。

そこに確かにいるのに、いないことにされている。

透明、とは現代においてしばしば、マイノリティの置かれた状況を表すのに使われます。この映画においてミセス・ハリスの友人の掃除婦は黒人女性ですが、彼女が酒場で、自分達がいなければ社会は回らないのにねといった趣旨の言葉をいうとき、それは掃除婦の仕事だけのことを言っているのではない、制作陣の目配せを感じます。

ディオールのメゾンでミセス・ハリスを追い返そうとしたミセス・コルベールも、場違いな闖入者として現れたミセス・ハリスを必死に透明な存在、いないはずの存在として扱おうとしました。
その一方、ディオールのトップモデルであるナターシャや会計係のアンドレ、お針子たちは、ミセス・ハリスを自分たちと同じ労働者として敬意を払い、連帯します。
(ちなみにアンドレが通勤時に乗っているのは『ローマの休日』の二人が乗っていたのと同じ、ベスパではないかと)

しかし、この映画において透明人間とは、属性故に抵抗手段を奪われているマイノリティの暗示だけでなく、見返りを求めない優しい人、お人よしすぎる人のことをも指しているように思います。

掃除婦としてのミセス・ハリスが一部の顧客から明確に侮られていること、彼女自身もそれに甘んじてしまっていることは、映画冒頭から描写されています。なんだかんだと理由を付けて給与を払わない顧客の不払いについて、メモは取るけれど強くは言えない。掃除婦以上の仕事を当然のように求めてくる女優志望のパメラを叱らず、むしろ自ら世話を焼く。酒場では知人の犬の世話も押し付けられ、友人からは「まっとうすぎる」「お人よしすぎる」などと評されています。
相手の要求を拒否できない、要するに、怒れないのです。

ミセス・ハリスをディオールのショーに参加させてくれたシャサニュ侯爵は、その後も彼女にパリを案内してくれたりと二人の交流は続きますが、ある時侯爵はミセス・ハリスに、自分が幼い頃に寄宿舎で出会った優しい掃除婦にあなたはそっくりなのだと話します。
メゾンで出会った貴族の女性を身の程をわきまえない傲慢な人間として貶めつつ、少年時代に出会ったその人は見返りを求めない優しい人だった、と語る侯爵に、わたしもそんな風に見える? と尋ねるミセス・ハリスの何とも言えない表情。
侯爵としては親しみを込めた誉め言葉のつもりなんだけど、ミセス・ハリスからしたら侯爵に対等な人間扱いをされていないということに愕然としていて、でも侯爵本人は何も気づいていない。見ながら共感性羞恥で叫びたくなってしまいました。
ちなみにこの時の彼女の服装は白いフレアのワンピース。イギリス時代のシャツワンピースは勿論、それまで着ていたブルーのドレスより更にふんわり膨らんだスカートだったというのが余計に切なかったです。

ディオールのメゾンという場において、侯爵は彼女を透明な存在として扱いませんでした。ミセス・コルベールや、ミセス・ハリスが注文しようとしていたドレスを横取りした貴族女性のように、彼女を無視したり排除しようとはしなかった。

見返りを求めない優しい行いは、時に確かに他者の心を温めてくれる。
でもそれはその人が他者と対等になる事、特別な唯一の人になることとイコールではない。
だから必要な場面で怒ったり主張したりできないと、自分が本当に大切にしていた物さえ奪われ、損なわれてしまう。
そうして奪われ続けることこそが、人が「透明」な存在にされるということではないのか。

見返りを求めない優しい人、お人よしな人。
そんな言い方をすれば口当たりは良いが、結局のところ他者に主張できない人間とは、他者から搾取される「透明」な存在でしかないのだ。

……なんってイギリスらしい、皮肉の効いた考え方……!
(この映画はイギリス制作ですが原作小説はアメリカ人によるものです)

ミセス・ハリスは何歳なのか

それにしても侯爵のやり取りなどを見ながらつくづく思ったのは、この映画のミセス・ハリスは一体何歳なのだろうという事でした。

もうすぐ60歳の家政婦さんがディオールのドレスに恋をした!

ミセス・ハリス、パリへ行く ミセスハリス (角川文庫) ポール・ギャリコ, 亀山 龍樹

原作小説のあらすじからすれば小説版におけるミセス・ハリスの年齢は明らかです。
でもわたしは知っています。つい最近まで、いや今も、女性は30歳を越えたらもう年寄りだ……という価値観があることを。
1957年。戦争が終わったのに心の一部が戦時下に取り残されている、30代、40代、50代のミセス・ハリス(あるいはミセス・コルベール)は沢山いたのではないか。
『ハウルの動く城』のヒロイン・ソフィーのように、本当は若いのに戦争を経て心が老婆になってしまったミセス・ハリスが沢山いたのではないか。

自分も若い頃は夢があった……そう語る老いた男とミセス・ハリスの会話が、この映画では二回登場します。フランスとパリ、そのどちらでも、ミセス・ハリスはわたしはまだ若いのだと言い返します。その結果、男たちの中の何かが蘇る。

老いるとは年齢でなく、諦めること……とはどこかで見かけた言葉ですが、たぶん、どんな年齢の人の中にも老いた人=諦めた人がいる。
でもそれは何かの切欠で突然、甦る。
例えばディオールのドレスのような、魔法のように美しい力によって。

魔法と現実、あるいは狂気

かくして色々あったものの、ミセス・ハリスは無事、ディオールで美しいドレスを手に入れ帰国し、軍人会のパーティーでドレスを着て踊りました。
めでたしめでたし。
……と、ハリウッド映画ならなるでしょう。なんなら軍人会のパーティーはめくるめく煌びやかなエンタテイメントシーンになる気がする。
しかし残念ながら(?)この映画はイギリス制作です。

ようやく帰ってきたロンドンで顧客の一人であったパメラを助けるため、出来上がったばかりのドレスを貸してあげたミセス・ハリス。
親切は仇となり、ドレスはパメラの不注意で燃えてしまいました。
この時のパメラの全く謝る気のない、ミセス・ハリスに甘えて逃げようとする態度、同じくミセス・ハリスの顧客で給与未払いを指摘する度に話を逸らす女性と併せ、ああ本当に、こういう人って本当にいるよなあ……! 感が凄いです。

失意のミセス・ハリスを友人の掃除婦が慰めます。あんなドレスなんて買って何になるの、軍人会にはいらないじゃない……。

ドレスを買って何になる。
よくある「善意のアドバイス」です。だけどなんと残酷なアドバイスか。

美しいドレスがなくても人は確かに生きていけます。でも、ずっと心が戦時にあったミセス・ハリスの心を救ったのはディオールのドレスでした。
わたしはミュージカル『ラ・マンチャの男』が好きなのですが、このミセス・ハリスと友人とのやり取りを見て、劇中のドン・キホーテと鏡の騎士の対決を思い出しました。

『ラ・マンチャの男』は「ドン・キホーテ」をモチーフにしています。
ドン・キホーテは自らを騎士と名乗り、サンチョ・パンサと共に度に出ますが、本当は騎士ではなく、アロンソ・キハーノという老人です。老いた親戚がいきなり「狂気」に陥り自分は騎士と言い出したのを心配した親戚の手筈により、ドン・キホーテは旅路で出会った「鏡の騎士」と一騎打ちすることになります。
戦いでドン・キホーテは「鏡の騎士」の鏡に映った自らの姿を見て自らが騎士でないことを「思い出し」、急激に弱って病に倒れてしまいます。

たましいを救うための蛮勇・狂気を、善意で潰そうとする人は沢山いる。
あなたはそのままでいい、ありのままでいいという言葉は、時に変わりたいという願い、狂気を冷まし、たましいを殺す言葉になってしまう事がある。

友人の善意のアドバイスにミセス・ハリスは怒りませんでした。というより、抵抗もできず聞いていたという方が正しいでしょう。
燃えてしまったドレスを彼女はかつて夫の無事をコインで占ったのと同じ、橋の上から投げ捨ててしまいます。
(個人的にはそのドレスだって色々あってようやく手に入れた、お針子たちの立派な仕事じゃない……! と言いたくなりますが、ここは夫を喪った時と同じくらい弱っている、という演出なのだと思います)
けれど、ドレスを失った彼女はそれまでの彼女とは変わっていました。怒れるようになっていたのです。
給与未払いの続いていた顧客に、このまま不払いを続けるならもう仕事をやめる、と告げたのです。

これは私の勝手な想像ですが、ドレスを投げ捨てた時、ミセス・ハリスは必死で友人の言葉に頷こうと、合わせようとしていたと思います。
こんなドレスに意味は無かった、自分はなんて馬鹿なことをしたんだろう……。目の前の鏡に映っているのは騎士ではないと気付いたドン・キホーテのように、世間一般の価値観からすれば自分がディオールのドレスを持ったところで何になる、と思ってしまった。

ドレスを買って何になる。
かつて、同じことをパリでミセス・コルベールに言われた時、ミセス・ハリスは胸を張って言い返すことができました。彼女の胸にはディオールの創り出した美しい狂気がそのまま、自身の生命力として宿っていたのです。けれど友人に「アドバイス」された時、美しい狂気は力を失ってしまっていました。

ドレスを買って何になる。

だけど本当にそう思ったら、「正気」に戻ったら、今度こそ自分のたましいは死んでしまう。
たましいを殺さないため、ドレスをなくした彼女は怒ることを自分に許し、顧客の理不尽な対応にノーを告げることができました。
いえ、それ以前から、彼女はすでに少しずつ変化を選択していました。ドレスを手に入れると決めたこと。そのために努力したこと。たった一人でパリへ行ったこと。ショーを見たこと。ふんわり膨らんだスカートのドレスを着たこと。侯爵や、ディオールのメゾンの様々な人と出会ったこと。ともに戦ったこと。
何より彼女はドレスを燃やしたパメラの家の鍵を扉越しに投げ入れて帰りました。ドレスを燃やしたパメラのため働き続けることを、自らの意思で拒否していたのです。

服を買うこと、纏うことはその人の人格を即座に変えはしないが、切欠にはなってくれる。
夫が死んで死にかけたミセス・ハリスのたましいを救ったのはディオールのドレスでした。
ドレスを無くしたミセス・ハリスのたましいを救ったのはミセス・ハリス自身の怒る力であり、ドレスを切欠に出会った、彼女を透明にしない様々な人だったのです。

軍人会のパーティーにドレス姿で現れたミセス・ハリスについて、アーチ―は「以前から美しかったが今は活気のようなものがある」と評します。
活気のようなもの。目に力を与えるもの。
彼女の怒る力は、彼女を更に美しくしたのです。


メディアミックスについて

ところでこの「ミセス・ハリス、パリへ行く」ですが、わたしがこの作品タイトルを最初に知ったのはTwitterの限定配信に関するtweetでした。

そう、アメリカの小説家ポール・ギャリコが原作のこの小説、2016年にミュージカル化されてるのです。
今となってみるとこのミュージカルがコロナ禍が始まったばかりで不要不急の物がことごとく退けられていた2020年5月に配信された理由がよくわかります。観てみたかったなあ……。
(小説は映画化、テレビ番組化も複数回されてるみたいです)

当時、限定配信を見た人の感想も結構流れてきたのですが、記事中でも言及されている、舞台上にいる主人公の夫が実は死者だったという演出はドレスの美しさと併せ結構言及されていて、記憶に残っていました。
ミュージカル版のミセス・ハリスが映画同様に戦争未亡人であるかは不明ですが、心がずっと過去のなかにあることの強調はミュージカル版の方が強いと思います。
(かつ、この記事から推察するに、ミュージカル版のミセス・ハリスは30代かも? と思います)

一方、原作小説のミセス・ハリスは映画やミュージカルと違ってなんというか……凄く、タフです。こちらのamazonリンクから冒頭部分が結構沢山試し読みできるんですが、タクシー運転手に「よく聞いとくれよ」と言ってたり、翻訳文体とキャラの違いにびっくりできます。

2020年公開の映画については原作小説との差異を解説した記事が結構あるのですが、恐らくこの映画はミュージカル版の方も意識しつつ制作されたのではないかな、と思います。
わたし自身はこの記事を書いている時点で小説もミュージカルも未確認なのですが、主人公を第二次世界大戦の戦争未亡人、つまり戦争に傷ついた存在とし、彼女が他でもないディオールのドレスに魅せられ、変わっていくことの必然性を強調したこの設定がどこで発明されたのかは気になるところです。

個人的には絶対似合わないよなーと思いつつ何故かディオールには惹かれてしまう、その理由がちょっとわかったような気がした映画でした。
とりあえずこれからミュージカル曲も聞いてみたいと思います。


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