見出し画像

かわいい、きれい、かっこいい、の前に

あきやさんの「かわいい、きれい、かっこいい」問題。
他の方が自らの考えを深めているnoteなどを読みつつ、いつも自分の頭の中を見切れキャラのようにかすめていく言葉がありました。

「こわい」


人間になりたかった

学生時代、授業で何かを発表したりみんなで議論したとき。あるいは働きだしてから職場や趣味の意見交換などで自分の意見を言うと、しばしば「堂々としている」「緊張してなさそう」「はっきり物を言う」などと言われます。
「難しい言葉を使う」「理論的」「何かの専門家なのか」と言われたこともありますが、あいにく生業としては何の専門家でもありません(なりたかったな…)。
恐らく、ですが、わたしはその場の空気を読んだりする能力にちょっと偏りがあります。
年月が経過するにつれてこの傾向は少しずつ減っているとは思われるものの、「いやあの状況でよくそういうこと言えたね……」とか「あの時嫌なこと言われてたけど結構平然と受け流してたよね」と言われるようなタイプの行動もたまに取っているようです。たぶん。
伝聞調や推測として書いているのは、自分では自分のことをとんでもないことを言っているなとか、平然としているなあと思いながら行動してはいないからです。
自分としては自分について、アクシデントなどがあるとすぐにあわあわしてしまうなーと思っているけれど、どうもそれはある程度以上親しくないと気付かれにくい、らしい。むしろ傍から見ると無表情で淡々と振る舞っているように見えることが多い、らしい(たぶん防衛反応で固まってたり、いろいろ感じなくしているだけです……)。それで周囲の反応を見てから「あ、さっきの自分の対応はずれていたのか」と気付く。以前別のnoteにも書きましたが、わたしは見た目と内面にそれはそれはギャップがあるタイプのようです。
なので、部下には空気を読んで自分の意に従ってほしいと思うようなタイプの上司には(見た目で勝手に期待された分もあってか)なんだこいつと鬱陶しがられます……が、疲れていたり自信を喪失すると途端に周囲の反応に過敏になって自分の行動ひとつひとつが正しいのかどうか、怖くて動けなくなってしまうのも事実です。
インスタライブだったでしょうか、以前あきやさんが、ファッションの相談でお会いする女性の半分は舐められたくないといい、もう半分は怖がられたくないというのだと言ってらした気がしますが、わたしは混合型(?)です。舐めてくるひとは舐めてくるし、怖がるひとは怖がる。なんてこった。

すごいね。頭いいんだね。
褒め言葉として言ってるんだろうなという時はありがとうと言います。えへへと笑ったりもします。
でもわたしはそういう風に振舞おうと意識したことも、そうあろうと努力したこともない。
本当はそうやって遠巻きに、距離を置かれているのではないかと感じてしまうときがある。

テキストでのコミュニケーションしかない、その場での即座の反応が求められないインターネットはそんなわたしにとってはとても楽で、だからわたしは典型的なインターネット/Twitter廃人です。ネットには言葉を扱う人が山ほどいて、それが理由で距離を置かれることは少ないし、自己開示についても楽です。むしろ内心でおどおどしている実態さえ、いやそちらの方が、わかってもらえる。

ふつうになりたい

変な子。変なの。
小学校のころから結構長い間、そう言われていました。
言われていたというか、言われたことを長く引きずっていたのはわたしなので、わたしがわたしにそうずっと言っていたというべきなのか。
どこが変なの。何が普通なの。何を直せばいいの。必死にクラスメイトに尋ねても、その反応が面白いんだよねと笑われるばかり。いつも反応を揶揄われていました。反応が天然だとかかわいい(…?)と言われることはあるので、今も似たような感じなのかもしれません。
わたしの通っていた小学校は大人びた子が多くて、その中でわたしは少しとろかった、のかもしれません。
あるいは本当に変だった、のかもしれません。みんなが泣いていたり悲しい顔をしているなかで、ひとりぽかんとしていることはよくありました。
わたしは優しくないから、クラスメイトのあの子が泣いていても他の子と違ってなんとも思わない。試合に負けてみんな悔しそうだけど、わたしは何も思わない。
自分は人間じゃないんだ、と長らく思っていました。中2病ぽい話ですが、かなり本気です。オズの魔法使いにハートを欲しがるブリキのロボットというのがいますが、まさしくあんな気持ちでした。
だけど人間に生まれたのだから、人間のふりをしなければ。
でないと嫌われてしまう、はじき出されてしまう……そんな思いは、就職活動の面接の間も、就職してからも、ずっとずっとあった気がします。
「世の中の」「ふつうの」人というのは、みんな明るく朗らかで友人も多くいてどんな場にもすぐ馴染めて、空気が読めて気が利いて、誰にも優しく共感的に接することができる、例えていうなら「うたのお兄さん・お姉さん」のような人間だけどわたしはそうではない、だから自分は「ふつう」ではない、「にんげん」ではないんだな、と。
これは、わたしの性別が女性だから余計に拗らせてしまったというのもあると思います。わたしには弟がいるのですが、彼は他者とのコミニュケーションなどについてはわたしより余程上手いので、親からはわたしの性別が女でなければ、弟とわたしの性別が逆だったら、世の中の価値観にもっと受け入れられていたのでは……と言われたこともあります。紫式部か。
(なので働きだすくらいまで、わたしは名誉男性として生きていたと思います)
ちなみにわたしは長らくカウンセラーという職業に憧れを持っていて大学もそちらの方面に進んでいるのですが、それはかつての、クラスメイト達にからかわれていた自分を救えるような自分になりたかったという思いと同時に、そういう「優しい」「にんげん」にならないと自分という人間は受け入れてもらえない、という思いがあったのではという気がします。研究者になりたいとかつて思っていたのは、研究者の世界ならこんな自分でも存在を許されるのではないかと思っていた部分があるかもしれません。専門知識や得意なことがあれば否定されない世界ならこんな自分でも生きられるのではないかと。同じ理由でオタクの世界や好きで繋がる世界は、それ以外の場所より生きやすいと感じていました。
わたしは欠陥品だからどうにかごまかさないと。紛れないと。ばれないようにしないと。
そういう思いが時間の経過やいろいろな理由で少しずつ薄らいで、でもゼロにはならず、今に至ります。

こわがらないで

あなたは「こわい」と、言われた最初の記憶はたぶん、小学校のディベートの授業だったと思います。
男の子に対して反対意見をとうとうと述べたらどこかからそんな声が聞こえた、そんな記憶。職場で上司に言われたこともあります。取引先か幹部の対応について何か言ったりしたときだと思います。

「こわい」と思われるのはよくないことだ、という価値観がわたしのなかにはあるようです。
何も意識せず振舞っていたら自分は怖いんだ。怖がられるんだ。それはよくないんだ、と、思っているようです。
「こわい」はたぶん、わたしにとって「変」より言われるとつらい、「変」の最上級です。

ところでわたしは趣味をいくつか持っているのですが、どこのジャンルでもいわゆる「教えてあげようおじさん」というのがいて、結構頻繁に出会ってしまっています。かなしいことに。
しかし大変申し訳ないのですが、「教えてあげようおじさん」に教えてもらった新しい素敵な知識などほとんどありません。なぜならわたしは頭が良くて(この文脈なので断言しちゃいます)興味を持った分野については勉強が苦にならないタイプなのでそのジャンルの知識を自慢されてもピンとこないし、何ならその人たちよりも論理的でわかりやすい文章が書けるし、場合によっては議論で言い負かすことさえできるからです。
趣味のひとつに合唱があるのですが、先日、団体主催からばんばんダメ出しされました。
いわく、指揮をするな。この曲にそういうものは入れたくない。そんな風に機械的な音の取り方はするな。
じゃあどういうのがいいんですか、と尋ねるとプロの音源を流してこういうのがいい、という。
なるほどこういうのがいいんですね、でもこれならあなたの担当パートがそう動かないとどうにもならないですから、わたしとしては頑張ってくださいとしか言いようがないですね。
笑いながら言ったつもりでした。でも言った瞬間、場が凍りついた気がしました。
あ、やばい。
そう思っても、もう遅い。

突然わたしがキレたとみんなに思われたんじゃないのか。
そう思ったのは練習が終わった後のことでした。いろいろ考えた末、ちょっとこれはわたしが精神的にやばいかもしれない、とサークル仲間に相談しました。
その時わたしが聞いたのはこんなことでした。

「先日わたしがまとめ役の練習のとき、何がありましたか。場が凍ったりしていませんでしたか。
 練習後、飲み会に言った人たちの間で、わたしの練習まとめについて何か話はありましたか」

書いてる今ならわかるんですが、たぶん、これはちょっとずれた問いかけです。
わたしが最初に気にしたのは主催についてではなく、それ以外の人たちの反応、彼らがわたしについてどう思ったか、だったのです。
わたしはわたしが好きな人達に、わたしを怖がらないでほしかった。嫌われたくなかった。それなら最初から、誰とも打ち解けなければ良かったと思ってしまう。やっと打ち解けてきた好きな人達に遠巻きにされるのがいちばん、怖かったのです。

効果のわからぬ呪文のように

「こわい」「変だ」
そう誰かから思われるのが怖いのに、わたしが憧れるのは「こわさ」や「変さ」を魅力や強みに変えている人であるように思います。
わたしが好きなフィクションのキャラクターの性格のパターンとして、普段はすごく優しくて穏やかだけどキレたら凄く怖い、というのがあります。キレたら最後怒りを不発弾にせず、確実に相手を仕留めるタイプ。そんなわたしの初期刀は山姥切国広。いわゆる昼行燈キャラも好きです。(なんの話?)

思えばバレリーナから始まった自分のコンセプトに、いざとなったら戦う、という要素をどう入れ込むか、というのは初期からの悩みとしてありました。つまり、既にわたしはそれを自分の本質として捉えているのです。怖がられたくない、という発想は、だから矛盾している。わたしは自分を含め自分の大事なもののためなら言葉を尽くして戦える(=翻訳できる)人になりたいというのがコンセプトですから、それは見方によっては「こわい」だろうし「変」かもしれません。でもそれがわたしのコンセプトなのです。
何より大人になった今、わたしの「こわさ」や「変さ」について、まあそういうこともあるよねとか面白いねーと言ってくれる人は、かつてよりは増えたはずです。

そりゃあ「こわい」「変だ」と評する人は今後もいるかもしれないけれど。
でもそれ、そう言ってくるひとって、わたしにとって大事なひとか? 

周りの反応は気にするな。
相談した友人達からは何度もそういわれました。みんな、リーダーの対応をああいつものやつだな酷いもんだなと思ってただけだよ。あんたのことは気にしてない。
多分みな、わたしがリーダーよりもみんなに嫌われることが怖いとは思ってないし、仮に知ったところで、いや別に?と言うでしょう。
それでも、それでも、と何度も口にした私にとって、多分これはかなり、もしかしたら一番根が深い問題の一つかもしれません。それでもこの反応はさすがに変だぞ、とようやく自覚してこのnoteを書いていますが、しかし書いている今も、何かをぴしゃーんと「理解した」わけではありません。(余談ですが先日の講演であきやさんが言っていた、自分を理解するためにアウトプットするという言葉は、オンラインで創作をしたり告知をするとSNSで自分の創ったものへの反応が数値化されて見えてしまう現状、一創作者として何度でも繰り返したい言葉でした)だけど、だからこそ、言い聞かせなければ。
何より。「こわい」「変だ」と言われることに怯んでいたら、また良いように侮られて利用される。

わたしは「こわい」「変だ」と言われてもいい。
言ってくる人たちはわたしについて、何もわかってない。



いいなと思ったら応援しよう!