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マリー・キュリー ─ 学び場@偉人たちの代償

マリー・キュリーは、放射線研究の先駆者であり、物理学賞と化学賞の2つのノーベル賞を受けた科学者である。

1899年のある夜、マリー・キュリーは夫ピエールとともに、暗くなった研究室に戻った。パリの廃校にあった元解剖小屋。そこに並ぶ試験管やフラスコが、闇の中で淡い青白い光を放っていた。娘エーヴの伝記によれば、マリーは子どものように目を輝かせて言った。
「見て、この美しい光を。妖精の光のようだ」
その光の正体が、自分の骨髄を静かに破壊する放射線だったことを、当時は誰も正確には知らなかった。


マリア・スクウォドフスカは1867年、ロシア帝国支配下のワルシャワに生まれた。ポーランド人には高等教育が制限され、女性にはさらに厳しい壁があった。マリアは姉ブロニスワヴァの医学部進学を支えるため、6年間家庭教師として働いた。自分の学費を貯め、1891年、24歳でパリのソルボンヌ大学に渡る。

暖房のない屋根裏部屋。食事はチョコレートとパンだけで冬を越す日もあった。1893年、物理学の学位を首席で取得。翌年には数学の学位も手にした。エーヴの伝記にはマリーのこんな言葉が残っている。
「私はポーランドにいた頃から、学ぶことだけが自由への道だと信じていた」

1894年、ポーランド人の友人ユゼフ・コヴァルスキの紹介で、磁気の研究者ピエール・キュリーと出会う。8歳年上のピエールはマリーの知性に惹かれ、手紙にこう書いた。
「あなたと一緒に研究できたら、どんなに素晴らしいだろう。しかしそれは美しい夢にすぎないかもしれない」
1895年、2人は結婚する。


1898年、マリーとピエールはウラン鉱石の放射能に着目し、2つの新元素を発見した。7月にポロニウム(マリーの祖国ポーランドにちなんで命名)、12月にラジウム。
けれど発見しただけでは科学界は納得しない。ラジウムの存在を証明するために、純粋な形で単離する必要があった。

研究室として使ったのは、廃校になった医学校の元解剖小屋。ガラス屋根から雨が漏り、冬は凍え、夏は蒸し風呂になる場所だった。数トンのピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)を大きな鉄鍋で煮沸し、身長より大きな撹拌棒でかき混ぜる。煮沸、撹拌、濾過の繰り返し。
この重労働でマリーの体重は7キロ減った。

4年の作業の末、得られた塩化ラジウムはわずか0.1グラム。1902年のことだった。

1903年、マリーはアンリ・ベクレルとピエールとともにノーベル物理学賞を受賞する。女性初のノーベル賞受賞者。当初、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとベクレルのみを候補としていたが、ピエールが「妻の貢献なくしてこの研究は成立しない」と主張し、マリーの名前が加えられた。


ラジウム抽出法の特許を取れば、キュリー夫妻は莫大な富を得られた。当時のラジウムの価格は1グラムあたり10万ドル。現在の貨幣価値にして約300万ドルに相当する。

けれど2人は特許取得を拒んだ。マリーは言った。
「ラジウムは人類全体のものであり、個人が利益を得るべきではない」
この決断の結果、夫妻は経済的に困窮し続けた。
一方、アメリカではUS Radium Corporation等の企業がラジウムを商業利用し、莫大な利益を上げていた。

なぜ特許を取らなかったのか。マリーはポーランドで「女だから」「ポーランド人だから」と学ぶ機会を奪われてきた。
だから科学は誰でも使えるべきだと考えていた。


ラジウムの代償は、マリーの身体そのものに刻まれた。

指先は慢性的な放射線火傷で荒れ、皮膚は硬く変質していた。白内障が進行し、複数回の手術を受けた。1920年代には慢性的な疲労、耳鳴り、めまい。血液検査では白血球の異常が繰り返し確認されたが、マリーはこれを公にしなかった。

マリーはラジウム塩を試験管に入れてポケットに入れて持ち歩いていた。研究室の引き出しにも防護なしで放射性物質を保管していた。
彼女の研究ノートは今もフランス国立図書館で鉛の箱に保管され、閲覧には免責同意書への署名と防護服の着用が必要である。ラジウム226の半減期は1600年。あと数百年は危険な状態が続く。

それでもマリーは研究を止めなかった。
「科学の研究においては、物事そのものに関心を持つべきであり、自分自身のことは二の次にしなければならない」
と書いている。

第一次世界大戦中、マリーは移動式X線装置を搭載した車両を自ら開発した。「プチ・キュリー」と呼ばれたこの車両は約20台が稼働し、100万人以上の負傷兵のX線診断に使われた。マリー自身も娘イレーヌとともに前線でX線撮影を行った。このためにマリーは運転免許を取得している。戦場で被曝量はさらに増えた。


1934年7月4日、フランス・サヴォワ県のサナトリウムでマリーは亡くなった。66歳。死因は再生不良性貧血。骨髄が正常な血液を作れなくなる病気で、長年の放射線被曝が原因だった。
遺体は内側に2.5センチの鉛で裏打ちされた棺に納められた。

"Nothing in life is to be feared, it is only to be understood. Now is the time to understand more, so that we may fear less."
「人生において恐れるべきものは何もない。理解すべきものがあるだけだ。今こそもっと理解を深め、恐れを減らす時である」

自らの身体が放射線に蝕まれている事実を知りながら、恐怖ではなく理解を選び続けた人間の言葉だ。
「怖がるな」ではなく、
「仕組みを知れば怖くなくなる」
と言っている。
放射線で自分の身体が壊れていくのを知りながら、それでも「理解する」ことを選んだ科学者の言葉だ。


筆者考察

マリー・キュリーの選択を振り返ると、1つの問いが残る。自分の仕事が自分を蝕んでいると知ったとき、それでもやめられるだろうか。

特許を取らなかったのは「崇高な精神」で片づけられがちだが、実態はもう少し複雑に思える。「学ぶ権利を奪われた」経験が、特許を取らない選択につながったのではないか。学ぶ自由を奪われた人間が、科学を金で囲い込む側に回れるはずがない。

マリーは夫を馬車の事故で失い、スキャンダルで社会から攻撃され、身体を放射線に蝕まれた。それでも研究室を離れなかった。その姿を「献身」と呼ぶことはできる。けれど本人にとっては、調べて、知って、理解すること自体が生きる理由だったのだろう。

マリー・キュリーの研究ノートは、あと数百年、鉛の箱の中で放射線を出し続ける。

結び

偉人たちの代償シリーズ、マリー・キュリー編でした。

次回もまた、教科書では見えない偉人の横顔を書きます。

偉人たちの代償 / note: https://note.com/world_person

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