ウィンストン・チャーチル ─ 学び場@偉人たちの代償
ウィンストン・チャーチルは、第二次世界大戦中にイギリスを率いた首相である。ナチス・ドイツの脅威に対し、徹底抗戦を貫いた指導者として知られている。
1911年3月、妻クレメンティーン・チャーチルは夫に手紙を書いている。
「あなたはとても優しく寛大だけれど、時にあなたに仕える人たちに厳しすぎる。あなたが思っている以上に、彼らはそれを感じている」
結婚から約2年。妻は、夫の内側にある激しさを見ていた。Vサインを掲げる英雄の姿が世界に知られるのは、この手紙から30年近く先のことになる。
チャーチルという人物を語るとき、多くの人は1940年の戦時演説を思い浮かべる。「我々は浜辺で戦う」という言葉の強さ。
けれど、その言葉を発していた人間の内側には、
本人が「ブラック・ドッグ」と名づけた暗い波
──繰り返し襲う抑うつが押し寄せていた。
この記事は、英雄の裏側にあった暗闇と、それでも立ち続けた一人の人間の記録として書く。
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルは1874年11月30日、オックスフォードシャー州ブレナム宮殿に生まれた。父ランドルフ・チャーチル卿は政界の寵児として頂点に立ちながら、45歳で世を去っている。息子ウィンストンへの関心は薄く、ハロー校での成績は下位だった。父からの手紙には「失望」の語が繰り返された。
チャーチルは自伝『My Early Life』(1930年、「わが半生」)にこう書いている。「学校時代を通じて、私はかなり打ちのめされていた」。この経験が、「自分はダメじゃない」と証明し続ける人生の出発点になった。
1940年5月10日、ネヴィル・チェンバレンの辞任を受けてチャーチルが首相に就任する。65歳。ヨーロッパ大陸はほぼナチス・ドイツの支配下にあった。フランスは陥落寸前。英国は事実上、単独でヒトラーに対峙することになった。
就任直後の5月末、戦時内閣で重大な分岐点が訪れる。
外務大臣ハリファックス卿が、イタリアのムッソリーニを仲介役とした講和交渉を主張した。「ヒトラーの条件を知るべきだ」というのがハリファックスの論だった。
チャーチルは退けた。
「戦って倒れた国は再び立ち上がるが、おとなしく降伏した国は終わりだ」
この対立は数日間続いた。
5月28日、チャーチルは閣外大臣25名を集めて演説し、事実上の信任を得た。大臣たちはテーブルを叩いて応じた。
講和もあり得た。しかしチャーチルは戦うことを選んだ。
6月4日、「We shall fight on the beaches」(我々は浜辺で戦う)
6月18日、「This was their finest hour」(これが彼らの最良の時だった)
8月20日、「Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few」(人類の戦いの歴史において、これほど多くの人がこれほど少数の人にこれほど多くを負ったことはない)
言葉が武器だった。BBCラジオを通じて、チャーチルは国民の士気を支え続けた。
ちなみに、チャーチルが首相に就任した1940年は、日本で日独伊三国同盟が締結された年でもある。チャーチルが戦い続ける決断をした同じ年、太平洋の向こう側では別の歴史が動き出していた。
主治医のモラン卿は回顧録『Churchill: The Struggle for Survival 1940-1965』(1966年、「チャーチル 生存をかけた闘い」)に、こう記録している。
チャーチルは語った。
「急行列車が通過するときプラットフォームの端に立つのが嫌だ。下がって、できれば柱を自分と列車の間に置きたい。船の舷側に立って水面を見下ろすのも嫌だ。一瞬の行動ですべてが終わる」
戦時中、最も重い責任を背負っている時期に発せられた言葉だった。
チャーチルは「飛び込みたくなる自分」を知っていたから、自分と線路の間に柱を置いた。モラン卿はまた、「彼は何もしないでいられる人間ではなかった」と記している。暗い波が来た日でも、チャーチルは戦時内閣の会議に出席し、決断を下し続けた。
1915年、ダーダネルス海峡作戦(ガリポリの戦い)の失敗で海軍大臣を辞任した後、チャーチルは二つのことをしている。
一つは、自ら志願して西部戦線に赴いたこと。第6ロイヤル・スコッツ・フュージリアーズ大隊の大隊長として前線で指揮を執った。
もう一つが、絵を描き始めたこと。義姉グウェンドリンの勧めだった。
チャーチルは後にエッセイ『Painting as a Pastime』(1948年、「余暇としての絵画」)でこう書いている。
「最も困難な時期に、絵画が私を救ってくれた」
生涯で500点以上の油彩画を残した。ロイヤル・アカデミーに匿名で出品し、審査員が「チャーチル作」と知らずに入選させたこともある。
ケント州チャートウェルの自邸では、庭の壁やコテージを自ら煉瓦で積んだ。1928年、煉瓦職人組合(Amalgamated Union of Building Trade Workers)に正式加入している。
同じ動作を繰り返す手仕事が、暗い気分を遠ざけた。
政敵たちは「首相が組合員」と皮肉ったが、
チャーチルにとっては生きるための技術だった。
そして書くこと。
チャーチルは政治家である以上に筆の人だった。1953年にノーベル文学賞を受賞している。平和賞ではなく文学賞。授賞理由は「歴史的・伝記的記述の熟達、ならびに高貴な人間的価値の擁護における卓越した弁論術」。主著に『The Second World War』全6巻(1948-1953年、「第二次世界大戦」)がある。
荒野の10年(1929-1939年)、政治的に孤立しナチスの脅威を訴え続けた時期には、『マールバラ公伝』全4巻を執筆した。
書くことで暗い気分をやり過ごし、同時に収入を得た。
抑うつを抱えたまま、
それでもチャーチルは絵も煉瓦も文章もやめなかった。
1943年9月6日、ハーバード大学。チャーチルは名誉学位を受けた際にこう述べた。
"The price of greatness is responsibility."
「偉大さの代償は、責任だ。」
この演説は英米関係の文脈で語られたもの。
チャーチルは英語圏の民主主義国が負うべき責任について説いていた。イタリア戦線でバドリオ政権との停戦交渉が進行中の時期でもある。
けれど、この言葉はチャーチル自身の人生の要約でもある。
ガリポリの失敗。荒野の10年間の孤立。戦時の重責。ブラック・ドッグ(抑うつ)との暗闘。
全部を背負ってきた人間が言う「責任」には、
自分の人生がそのまま入っている。
"If you are going through hell, keep going."
「地獄の最中なら、歩き続けろ。」
1929年から1939年までの約10年間、チャーチルは政界で孤立していた。
ナチスの脅威を繰り返し警告したが、ほとんど無視された。この言葉は、その時期のチャーチルの姿勢そのものだった。
筆者考察
1945年5月、ヨーロッパでの戦争が終結する。しかし同年7月の総選挙で、チャーチルは労働党のクレメント・アトリーに大敗した。393議席を失う惨敗。国を救った男が、救った国民に退場を命じられた。
妻クレメンティーンは「変装した祝福かもしれない」と声をかけた。負けたことが、結果的には良いことかもしれない──激務から解放される、という慰めだった。
チャーチルは「今のところ、かなり巧妙に変装しているようだ」と返している。良いことだとしても、まるでそうは感じられない、という意味だ。
この返しに、チャーチルという人間が見える気がする。
抑うつを抱え、選挙で負け、それでも冗談を言える。
この人はそういう人だった。
結び
偉人たちの代償シリーズ、ウィンストン・チャーチル編でした。
次回もまた、教科書では見えない偉人の横顔を書きます。
偉人たちの代償 / note: https://note.com/world_person
