ココ・シャネル ─ 学び場@偉人たちの代償
ココ・シャネルは、20世紀のファッションを根本から変えたフランスのデザイナーである。コルセットからの解放、リトルブラックドレス、シャネルNo.5など、女性の装いに革命をもたらした。
1976年に出版されたポール・モランとの対話録『L'Allure de Chanel』(「シャネルの魅力」)に、こんな一節がある。
「私は自分の人生を発明した。"気に入らないこと" には必ず反対のものがあるはずだと信じて」
ココ・シャネルという人物は、自分の過去を繰り返し書き換えた。
孤児院で育った事実を「叔母の家で暮らした」と語り直し、父の不在には別の物語を重ねた。けれど、書き換えようのない事実がひとつある。12歳で母を亡くし、父に孤児院に預けられ、その父は迎えに来なかったということ。少女はそこで針仕事を覚えた。
ガブリエル・ボヌール・シャネルは1883年8月19日、フランス・ソミュールに生まれた。母ジャンヌは1895年に32歳で病死。行商人だった父アルベールは娘たちをオーバジーヌのシトー会修道院付属孤児院に預け、姿を消した。
修道院は白と黒の世界だった。修道女の服、石造りの壁、ステンドグラスの幾何学模様。後にシャネルの代名詞となるモノトーンの美学は、この原風景に遡る。
1910年、パリのカンボン通り21番地に帽子店を開いた。
開業資金を援助したのは、当時の恋人エティエンヌ・バルサンと、
アーサー・エドワード・「ボーイ」・カペルだった。
1916年、シャネルはジャージー素材を婦人服に採用する。当時、ジャージーは男性の下着や労働者の衣服に使われる安価な素材で、高級婦人服には「あり得ない」生地だった。Harper's Bazaar誌はこれを「poverty de luxe」(贅沢な貧しさ)と評している。安い素材なのに、仕上がりは贅沢に見える。素材の常識を壊した最初の大きな一手だった。
1921年、シャネルNo.5を発売。調香師エルネスト・ボーが80以上の合成香料を組み合わせたアルデヒド系香水。それまでの香水がバラやスミレなど単一の花の香りだったのに対し、No.5は抽象的な香りを目指した。
シャネルは言っている。
「女性は女性の匂いがするべきで、花の匂いではない」
ボトルもシンプルな直方体。装飾過剰だった香水瓶の常識も壊した。ちなみに「5」は、調香師が提示したサンプルの中から5番目を選んだことに由来する。シャネルは5を幸運の数字と考えていて、コレクションの発表日にも5月5日を選んでいる。
1921年は日本では大正10年。原敬首相が東京駅で暗殺された年でもある。大正デモクラシーの渦中に、パリでは女性の「香りの解放」が始まっていた。
1926年、アメリカ版Vogue誌がリトルブラックドレスを掲載した。
「Chanel's Ford」(シャネルのフォード)という見出しだった。
フォード・モデルTが自動車を大衆のものにしたように、シャネルは黒いドレスをあらゆる女性のものにした、という意味。
黒は当時、喪服の色だった。それを日常着に変えた。
1919年12月22日未明。ボーイ・カペルがカンヌへ向かう途中、自動車事故で死去した。36歳。
カペルはイギリスの実業家で、ポロの名手でもあった。シャネルのビジネスセンスを見抜き、帽子店の開業資金を提供した人物。シャネルはその全額を返済している。経済的にも知的にも対等な関係だった。
ただし、カペルは1918年にイギリス貴族の娘ダイアナ・ウィンダムと結婚している。シャネルとの関係を維持したまま。
シャネルは友人ポール・モランにこう語っている。
「彼の死は私への恐ろしい打撃だった。カペルを失ったとき、私はすべてを失った」
シャネルは事故現場に車を走らせ、道路脇の焼け焦げた車を見た。
カペルの死後、シャネルはフェイクパールをデザインの主軸に据えた。カペルから贈られた本物の真珠のネックレスを身につけ続けながら、偽物の真珠を並べて着けた。
「本物と偽物を混ぜれば、どちらが本物か分からなくなる」
カペルとの関係の複雑さが、そのままデザインに反映されていた。
ウェストミンスター公爵ヒュー・グロヴナーからの求婚も断っている。
「ウェストミンスター公爵夫人は何人もいた。シャネルはひとりしかいない」と返したとされる。
生涯、結婚しなかった。
晩年はパリのリッツ・ホテルの一室に暮らした。1937年から1971年まで。カンボン通り31番地のアトリエまでは徒歩数分。毎日、鏡張りの階段を上ってアトリエに通った。友人のクロード・ドレは証言している。
「彼女に私生活はなかった。彼女の人生は仕事そのものだった」
1954年、71歳でコレクションを再開した。クリスチャン・ディオールの「ニュールック」──コルセット的なウエスト強調のシルエットに反発してのカムバックだった。
パリの反応は冷淡で、「1920年代の亡霊」と酷評された。
けれどアメリカのバイヤーたちが支持し、シャネルスーツは再びモードの中心に戻った。
ツイード素材のジャケットにAラインスカート。動きやすさと品格の両立という思想は、20代の頃と何も変わっていなかった。
私生活を持たないまま、シャネルは死ぬ日までアトリエに通い続けた。
"Fashion fades, only style remains."
「流行は色あせる。残るのはスタイルだけ」
"I don't care what you think about me. I don't think about you at all."
「あなたが私をどう思おうと構わない。私はあなたのことなど考えていない」
71歳のカムバック時、シャネルは「流行遅れ」と酷評された。
けれど彼女が貫いた「動きやすさと品格の両立」は、批判の後も残った。
流行は消えても、思想は残る。
シャネル自身がその証明になっている。
"My life didn't please me, so I created my life."
「私の人生は気に入らなかった。だから自分の人生を作った。」
孤児院で育ち、父に捨てられた過去を、シャネルは繰り返し物語として書き換えた。嘘と呼ぶこともできる。
けれどこの言葉を聞くと、書き換えること自体が彼女の生存戦略だったのだと分かる。
"In order to be irreplaceable, one must always be different."
「かけがえのない存在であるためには、常に人と違っていなければならない。」
ジャージー素材の採用も、黒の日常化も、フェイクパールの肯定も。
シャネルのデザインは常に、既存の常識を裏切ることで成立していた。
1971年1月10日(日曜日)、シャネルは翌日のコレクションのフィッティングを終えてリッツの部屋に戻った。メイドのセリーヌに「これでいいわ」と言い、ベッドに横になった。
そのまま目を覚まさなかった。87歳。仕事を終えてから死んだ。
マドレーヌ寺院で行われた葬儀には白いカメリアと白い花が並んだ。棺の上にはシャネルスーツを着たマネキンのような装花はなく、花だけが静かに置かれた。参列者にはサルバドール・ダリ、イヴ・サンローランらがいた。
筆者考察
1971年1月10日、日曜日。シャネルは翌日のコレクションのフィッティングを終えてリッツの部屋に戻った。メイドのセリーヌに「これでいいわ」と言い、ベッドに横になった。そのまま目を覚まさなかった。87歳。
この最後の場面が、シャネルという人間をすべて語っていると思う。仕事を終えてから死んだ。休日でさえアトリエにいた。それを「仕事に生きた格好いい女性」と要約するのは簡単だけれど、12歳で始まった孤独を知ってからこの場面を見ると、少し違うものが見える。止まったら自分が壊れることを、この人は知っていたのだと思う。
結び
偉人たちの代償シリーズ、ココ・シャネル編でした。
次回もまた、教科書では見えない偉人の横顔を書きます。
偉人たちの代償 / note: https://note.com/world_person
