【短編小説】ひとりごとの部屋
ひとりごと、だったのだと思う。
「この部屋、こんなに広かったっけ」
声に出してから、ああ、と僕は思った。
今のはちゃんとしたひとりごとだった。ひとりごとというのは、ひとりで言うからそうなのか、返事の来ない相手に向かって言うからそうなのか、いまだによくわからない。ただ、今朝のそれはずいぶん正確だった。
目が覚めて最初に出てきた感想がそれだったので、我ながら朝に弱いなと思う。普通こういうときって、遅刻とか、寒いとか、せめて今日が何曜日かとか、そういう社会性のあることを考えるべきだ。
部屋の広さに違和感を覚えるのは、もうちょっと人生に余裕のある人間の役目である。少なくとも、家賃とコンビニのおにぎりの値段に毎月じわじわ傷ついている僕の担当ではない。
だからたぶん、気のせいだと思った。
思ったのだけれど、気のせいにしては、キッチンまでが遠い。
ベッドから降りて、いつものように流しまで歩く。三歩のはずが、四歩かかった。
一歩。たった一歩。
でも一歩って、ばかにできない。人類はその偉大な一歩で月まで行ったらしいし、恋愛はその半歩手前くらいでたいてい壊れる。
距離というのは数字じゃなくて意味だ。近いとか遠いとかはメートルの問題じゃなくて、心が勝手につける注釈みたいなものだから。
四歩かかった、という事実より、三歩のはずだった、という記憶のほうが気持ち悪かった。
僕は流し台に手をつき、しばらく黙っていた。沈黙に意味があるとしたら、たいていは言葉にする勇気がないだけだ。なので勇気のない僕は、まずマグカップを見た。
白地に青い線の入ったマグカップ。僕のだ。通い詰めたコーヒーチェーン店のポイントで交換したやつで、かわいくはないけれど、妙に丈夫で、落としても欠けない。
愛嬌はないが根性はある。そういう器だ。
その隣に、もうひとつマグカップがあった。
え、と思った。
いや、え、じゃない。もっとちゃんと驚け、僕。知らないカップがひとつ増えてるんだぞ。ホラーの初動としては百点の状況だろう。
なのに僕の脳は寝起きのせいか、ずいぶんのんきだった。へえ、とか、こんなの持ってたっけ、とか、その程度の反応しか出てこない。
増えていたのは、黄色いマグカップだった。丸みのあるかたちで、取っ手の内側に小さなひびが入っている。かわいい。かわいいけど、僕の趣味ではない。僕はこんなふうに、陽気にそこにいられる色を、あんまり持たない。
それなのに、そのカップには見覚えがあった。
見覚え、というか、既視感というか。知らないはずなのに、初対面の気がしない。知らない人に「前にも会いましたよね」と言われたときの、あの逃げたくなる感じに似ていた。
僕は黄色いカップを持ち上げた。軽い。洗ってある。底に少しだけ水滴が残っていて、昨日、誰かが使ったみたいだった。
誰かが。
その発想が出てきた瞬間、心臓が妙な跳ね方をした。
この部屋に、誰かなんているはずがない。
いない。いたことも、たぶん、ない。
たぶん、というのは便利な言葉だ。断言できないくせに、断言した顔ができる。人間関係と将来設計と自分探しのほとんどは、その曖昧さに支えられている。僕も例外じゃない。
部屋を見渡す。
こじんまりとしたワンルームマンション、の、はず。駅から徒歩十二分。築年数不詳。壁紙はところどころ日に焼けていて、備え付けの棚は寸法だけ立派で役に立たない。ひとりで生きるには十分で、ふたりで生きるには少しだけ窮屈な、そういう部屋だ。
その「少しだけ」が、今日はやけに目についた。
壁が遠い。
部屋の奥、昨日までたしかになかったはずの余白がある。何も置かれていない空間。空気だけがきれいに余っている。空白というのは、不思議だ。何もないだけなのに、なにかを奪った跡に見える。
僕は、余白が苦手だ。
ノートの一行目とか、会話の切れ目とか、スーパーの棚でひとつだけ残った総菜とか。空いている場所には、だいたい不在の気配がある。いなかったことと、いなくなったことは、似ているようでぜんぜん違う。前者はただのゼロだけど、後者はマイナスだ。人間はゼロには案外耐えられるが、マイナスにはめっぽう弱い。
だから僕は、狭い部屋が好きだったはずだ。
余らないから。考えなくて済むから。
なのに、今朝の部屋は、少しだけ広い。
少しだけ、というのが性質が悪い。二倍なら笑えるし、半分なら警察を呼べる。けれど一歩ぶんだけ広い世界は、笑うにも騒ぐにも中途半端で、ただ日常にじわっと染み込んでくる。
僕は会社を休むべきか五秒だけ考えて、やめた。こういうときに会社を休んでも、劇的な真相はだいたい出ない。出るのは自己嫌悪と、平日の昼間のワイドショーだけだ。
顔を洗って、歯を磨いて、適当な服を着る。机の端に置いた社員証に目が留まる。佐倉ユウジ、とだけ印字された自分の名字が、朝の光の中だと妙に他人行儀に見えた。出勤の支度はいつも通りのはずなのに、部屋のあちこちに、いつも通りじゃないものが混じっていた。
食卓代わりのローテーブルの端に、木の箸が二膳置いてある。
玄関の脇に、見覚えのないスリッパが一足ある。
本棚の隙間に、しおりの挟まった文庫本がある。僕の本じゃない。僕は帯は捨てられないくせに、しおりはすぐなくすタイプだ。几帳面なのか雑なのか自分でも判断に困るが、とにかくこの丁寧な挟み方は僕ではない。
怖い、と思うより先に、申し訳ない、と思った。
なにに対してかはわからない。
わからないのに、謝りたくなることがある。人はたぶん、ほんとうに大事なものをなくしたとき、理由より先に謝罪を覚える。理屈は後から追いついてくるが、後悔はだいたいフライング気味だ。
文庫本を抜き取る。
表紙は少しくたびれていて、角が丸くなっている。繰り返し読まれた本の傷み方だった。間に挟まっていたのは、レシートだった。スーパーのレシート。牛乳、食パン、卵、ヨーグルト。きれいなくらい生活の中身ばかり並んでいる。日付は八か月前だった。
八か月前。
僕は息を止めた。
八か月前、この部屋で、僕は何をしていたっけ。
仕事をしていた。たぶん。
疲れていた。きっと。
ちゃんと眠れていなかった気がする。いや、ちゃんと眠れていた時期なんて、そもそも人生にあっただろうか。
でも、そのくらいしか出てこない。
八か月前の僕は確かにいたはずなのに、中身がぼんやりしている。写真のピントが、僕の顔だけ外れているみたいだった。
不意に、視界の端に、冷蔵庫の扉が映った。
メモが貼ってある。
さっきまで、あれはなかった。はず。
白いメモ用紙に、黒いペンで一行だけ。
『牛乳買ってくる』
それだけ。
主語も目的語も愛想もない。短くて、雑で、でも妙に親しい文だった。説明しないことを許されている相手にしか、こんな書き方はしない。
僕はその字を、知っていた。
知っている、と思った瞬間に、知らない、が追いかけてきた。
矛盾しているようで、記憶はわりといつもそうだ。思い出せないのに懐かしいとか、忘れたいのに細部だけ鮮やかだとか。脳は収納が下手なくせに、捨て方だけ妙に悪趣味である。
その字を見ていると、胸の奥の、名前のない場所がじくじく痛んだ。
僕は椅子に座った。座らないと立っていられなかった、というほうが正確かもしれない。正確な言葉は感じが悪いけれど、ときどき必要だ。
この部屋には、誰かがいた。
そう考えるのがいちばん自然だった。
問題は、その「誰か」を、僕が思い出せないことだった。
他人の痕跡なら、こんなふうには痛まない。前の住人の忘れ物なら、不動産屋に連絡すれば済む。けれどこの痛みは、そういう事務的な方向を向いていなかった。もっと個人的で、もっと勝手で、もっと手遅れな感じがした。
僕は部屋を見回した。
広くなった余白の先、壁際に、昨日はなかったはずの小さな傷がある。家具を引きずった跡みたいな、床の線。その前に立つと、なぜだか、そこに小さな丸テーブルが置いてあった気がした。向かい合う椅子が二脚。湯気の立つスープ。くだらない話。どちらかが先に笑って、どちらかがつられて笑う、あの意味のない平和。
像はぼやけているのに、温度だけがある。
記憶ってずるい。ほんとうに大事なものほど、輪郭じゃなくて体温だけを残して逃げる。
そのとき、思い出したわけではない。ただ、思い出さないようにしていたことの輪郭だけが、少しはっきりした。
この部屋には、前まで、もうひとりいた。
いなくなったのだ。
もっと正確に言えば、出ていった。
別れたのは、八か月前だった。
大げさな事件があったわけではない。怒鳴り合いも、皿を割る音も、ドラマみたいな決定打もなかったと思う。たぶんなかった。いや、あったのかもしれないけれど、少なくとも僕の記憶に残っているのは、もっと静かなことばかりだ。冷めた味噌汁とか、返事の遅さとか、言わなくてもわかるはず、と思ったことがひとつずつ外れていく感じとか。そういう、小さいのに後から効いてくる失敗ばかり。
僕は急に、自分がずっと、部屋を狭く使っていたことに気づいた。
物を減らしていたわけじゃない。家具を小さくしたわけでもない。ただ、これ以上なにも置けないと思い込んでいた。ひとりで生きるにはこのくらいでいい、と、自分に言い聞かせていた。余白があると、そこに何かを置きたくなるから。置けるはずの何かを想像してしまうから。
空いている場所は、希望に似ている。
そして希望は、ときどき過去にいちばん残酷だ。
だから僕は、あらかじめ狭くしていたのだ。
たぶん、心のほうを。
部屋が狭かったんじゃなくて、僕が、そこに置けるはずだった誰かのぶんを、ずっと立ち入り禁止にしていただけだった。
忘れたかったのではない。
忘れなければ、普通に朝を迎えられなかったのだ。
そういう忘却は卑怯だろうか、と一瞬思う。けれどすぐに、違う、とも思った。卑怯というのは、もっと元気な行為に対して使う言葉だ。これはたぶん、負けだ。別れに対する、静かで、みっともなくて、でも必要だった敗北。
負けたままでも、人は生きる。
生きるために、負けを数えないこともある。
ただ、そのかわり。
数えなかったぶんだけ、部屋は広くなるのかもしれない。
僕はメモに触れた。
紙の端が少しめくれていて、指先にやわらかく当たる。
「……名前、なんだっけ」
声にした途端、自分でぞっとした。
誰だったのかは、もうわかっている。
わかっているのに、名前だけが出てこない。
輪郭は戻ってきているのに、呼びかけるための一番細い糸だけが、まだどこかに引っかかっていた。
泣きそうだった。
でも、泣く資格があるのかはわからなかった。忘れていたくせに、と、どこかの僕が責める。忘れたくせに思い出すな、と、別の僕が責める。人間の内面というのは民主的ですらなく、だいたい野党が多すぎる。
それでも、僕はもう一度、部屋の奥を見る。
広がった先の余白は、もうただの空白には見えなかった。
誰かがいたぶんの場所だ。
僕が失くしたのではなく、僕が持ちきれなくて、いったん外に置いてしまったもののための場所だ。
思い出すことは、取り戻すことじゃない。
なくしたものが帰ってくる魔法でもない。
そこに誰かはいない。
でも、どこかにはいるのだろう。
僕のいない朝を、もう何度も迎えているのだろう。
それでも、いたという事実だけは、ようやくこの部屋に置いておける。
僕は黄色いマグカップを、自分の白いカップの隣に戻した。
それだけのことなのに、少しだけ、呼吸がしやすくなった。
部屋は相変わらず広いままだった。
でもたぶん、これが正しい広さなのだ。
ひとりで暮らすには少し広くて、
ふたりで暮らしていたことを忘れないためには、ちょうどいいくらいの。
(了)
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