死神インタビュー

あらすじ


週刊誌のライター・武田雄介は、人の本質を見抜く鋭すぎる才能を持ちながらも、その力に苦悩する青年。彼は、世に埋もれた人々の人生に光を当てる新企画『あの人の、もう一つの人生』を担当することになる。

しかし、彼のペンが紡ぎ出す感動的な記事は、なぜか取材対象者を次々と不幸のどん底へと突き落としていく。元天才ピアニストは再起不能に、老舗パン屋の女主人は全てを失い、過去を隠す写真家は忽然と姿を消す。

武田が罪悪感に苛まれる裏では、雑誌の売上のためなら人の人生を壊すことも厭わない編集長・田所が暗躍していた。武田は、正義感の強い同僚記者・相田蓮と、田所の暴走を止めることを決意する。やがて、一連の事件を追う女性刑事・長谷部涼子も現れ、真相解明へと物語は加速していく。

追い詰められた田所は自分の独白記事を書くように武田に指示する。すべては解決した……はずだった。

一連の悲劇は田所の狂気が生んだものではなかった。人の不幸を最高の「物語」として創作した真の怪物――「死神」の正体とは。

序章:代筆者の憂鬱

蛍光灯が、切れかけの心臓のように不規則なリズムで瞬いていた。その光が明滅するたび、武田雄介の足元に伸びる影は、まるで意志を持つ生き物のように蠢いて見える。三流週刊誌『週刊エール』編集部の空気は、いつだって淀んでいる。古紙と安煙草のヤニ、そして誰かの夢がゆっくりと腐っていくような、そんな諦観の匂いが飽和していた。

武田は、書き上げたばかりの記事のプレビュー画面を、無感情に見つめていた。人気アイドルの「熱愛疑惑」。もちろん、そんな事実はない。深夜のコンビニで、彼女が男物のスウェットを買っていた。ただそれだけの事実を、読者が求める下世話な好奇心という型枠に流し込み、刺激的な言葉で飾り立てただけだ。魂を切り売りするような作業だった。こんな記事が、明日には印刷され、駅の売店に並び、誰かの暇つぶしに消費され、そして忘れられていく。

「武田さん、お疲れ様です」

背後からかけられた声に、武田はゆっくりと振り返った。同僚の相田蓮が、爽やかな笑顔を浮かべて立っている。その整った顔立ちは、この淀んだ編集部の中では場違いなほど清潔に見えた。彼は、大手出版社の最終面接で武田と同じく涙を飲んだクチだが、腐ることなくジャーナリズムへの情熱を燃やし続けている、稀有な男だった。

「相田くん。お疲れ様」 「また、すごい記事ですね。武田さんの文章は、本当に人の心を掴む。たとえゴシップでも、単なる噂話じゃなくて、人間ドラマとして読ませてしまう」 「……ただの作文さ。人の心を、なぞるだけの」

武田は自嘲気味に呟き、目を伏せた。相田は、そんな武田の才能がゴシップ記事で消費されていることを、本気で惜しんでいるようだった。その純粋さが、武田には少しだけ眩しく、同時に苛立ちにも似た感情を呼び起こした。

「おい、武田!」

編集長の田所が、デスクの島を隔てた向こうから、獣のように吼えた。その濁った目は、いつも何か獲物を探している。武田が席を立つと、相田が「頑張ってください」と、その声に本心からの心配を滲ませて、小さくエールを送ってくれた。

「次の企画だ。『あの人の、もう一つの人生』」

田所は、武田の前に一枚の企画書を叩きつけた。その指先はヤニで黄色く染まっている。

「世間じゃ無名だが、昔はすごかった奴とか、面白い人生送ってる奴に光を当ててやろうってわけだ。お前の、そういう人間の本質を抉り出す、性格の悪い文章が活きるだろ」

ゲハハ、と下品な笑い声が、武田の耳にこびりつく。だが、くだらないゴシップよりはマシか。人の良い面に光を当てる企画。そう自分に言い聞かせ、武田は頷いた。

その夜、武田はアパートのドアを開けた。彼の帰りを待っていた恋人、宮下咲が「おかえりなさい」と柔らかく微笑む。図書館の司書をしている彼女は、この世界の汚濁とは無縁の場所にいる、武田にとって唯一の聖域だった。彼女の淹れるハーブティーの香りが、編集部の淀んだ匂いを洗い流してくれる。

「新しい企画、任されたんだ。少しは、やりがいのある仕事ができそうだよ」 武田がそう言うと、咲は心から嬉しそうな顔をした。 「よかった。あなたの文章は、人の心を温かくする力があるもの。私、信じてる。あなたなら、きっと誰かの人生を、素敵に描けるわ」

咲の言葉に、武田は疲れた顔で、それでも優しく微笑み返した。この聖域の中で、彼は完璧な「善人」を演じることができる。そのことに、武田は心の底で安堵していた。

第一章:不協和音

最初の取材対象者は、すぐに見つかった。 小林和真。三十年近く前、十代で数々のピアノコンクールを総なめにし、「神童」と呼ばれた男。将来を嘱望されていたが、ある国際コンクールの直前、交通事故で左手首に再起不能のけがを負い、表舞台から完全に姿を消した。そして現在、彼は故郷のこの街で、ピアノ調律師としてひっそりと暮らしているという。 完璧な「物語」の素材だった。武田は、すぐに小林のアポイントを取った。

小林和真の仕事場は、古い雑居ビルの二階にあった。木の匂いと、古い油の匂い、そして金属とフェルトが混じり合った、静謐な空間。部屋には調律に使うのであろう、様々な形状の工具が、まるで外科医の手術道具のように機能的に並べられている。部屋の中央に置かれた一台のグランドピアノが、主役の座を退いた王のように、静かに鎮座していた。

小林は、穏やかな笑みを浮かべて武田を迎えた。四十代半ばのその男は、かつての神童の面影はなく、職人らしい実直な空気をまとっていた。だが、その指だけが、長く、しなやかで、彼が特別な人間であったことの痕跡を留めていた。

「わざわざ、こんな所までありがとうございます。もう、昔の話なんですけどね」

小林は、ゆっくりとした口調で語り始めた。ピアニストとしての過去を、まるで他人事のように。けがをした時の絶望も、調律師に転身した経緯も、そこには感傷的な響きはなかった。あまりに完成されすぎた、手垢のついた物語のように聞こえた。

「今は、この仕事に満足しているんですよ。ピアノは、もう自分の手で弾くものじゃない。最高の音で鳴るように、支えてやるのが私の役目なんです。一台一台、性格が違ってね。面白いものですよ」

彼はそう言って、グランドピアノの鍵盤を、愛おしそうに布で拭った。完璧な受け答えだ。過去を受け入れ、現在の自分に折り合いをつけている。だが、武田の目は、その完璧さをこそ疑っていた。彼は、小林の些細な仕草を見逃さなかった。

インタビューの最中、小林の指先が、何度も、テーブルの上で虚空を彷徨う。それは、鍵盤の上を滑るピアニストの指の動きそのものだった。そして、彼がピアノについて語る時、その穏やかな目の奥に、一瞬だけ、飢えた獣のような昏い光が宿るのを、武田は見抜いていた。この男は、嘘をついている。いや、自分自身に、完璧な嘘をつき続けているのだ。その嘘で塗り固めた壁に、武田は小さなひび割れを見つけた。物語を動かすための、完璧な突破口を。

「最後に一つだけ。もし、その左手が治ったら……もう一度、ステージに立ちたいと思いますか?」

武田の質問に、小林は初めて、ほんの少しだけ言葉を詰らせた。彼の喉が、こくりと動く。完璧な仮面に、初めて動揺が走った。

「……さあ、どうでしょうね。もうすっかり指が忘れてしまいましたから」

彼はそう言って、力なく笑った。その笑顔が、彼の言葉がすべて嘘であることを、何よりも雄弁に物語っていた。

武田は、小林の才能がこのまま埋もれてしまうことを、純粋に惜しむかのような表情で、深く頷いた。この男の人生には、まだ語られるべき続きがある。自分のペンが、その失われた物語に、再び光を当てることができるかもしれない。

「あなたの音を、もう一度聴きたいと願っている人が、きっと大勢いますよ」

その言葉が、これから始まる悲劇の引き金になるなんて。

【週刊エール 10月5日号掲載記事】
【新連載】『あの人の、もう一つの人生』 Vol.1
『音を支える神の手。喝采を忘れた元天才ピアニストの「第二楽章」』
取材・文/武田雄介

この街に、ピアノの音と対話し、その魂を呼び覚ます男がいる。ピアノ調律師、小林和真(46)。柔和な笑顔と、職人らしい実直な指先を持つ彼が、かつて「神童」と呼ばれた天才ピアニストだったことを知る者は、今や少ない。

神童の墜落
彼の名は、三十年前のクラシック界において、一つの事件だった。十歳で国内の主要コンクールを総なめにし、十五歳でヨーロッパに渡ると、その圧倒的なテクニックと、老練な音楽家さえも嫉妬するほどの深い表現力で、居並ぶ審査員たちを沈黙させた。「百年の一度の才能」「鍵盤の申し子」。あらゆる賛辞が彼に贈られ、その輝かしい未来は誰の目にも約束されたかに見えた。

「あの頃は、自分が世界の中心だと思っていましたね」

取材中、小林は一度だけ、遠い目をしてそう呟いた。彼の指先が、テーブルの上で、まるで見えない鍵盤をなぞるように、かすかに動く。その指は、かつてリストの超絶技巧練習曲を、いとも容易く奏た指だ。

だが、運命は彼に過酷な試練を与える。世界最高峰のコンクール、その最終選考を目前に控えたある雨の日、彼は交通事故に遭った。数多の奇跡を生み出してきたその左手首は、粉々に砕かれた。ピアニストとしての道は、あまりにも突然、完全に断たれた。

「目が覚めたら、病院のベッドの上でした。左手には、分厚い包帯が巻かれていて……。医者の説明は、よく覚えていません。ただ、もう二度と、ピアノは弾けない、と。その言葉だけが、頭の中で何度も響いていました」

沈黙の十年
表舞台から姿を消した彼を、世間は少しずつ忘れていった。あれほどの才能が、一体どこで何をしているのか。噂はいくつも流れた。自暴気になって酒に溺れている。海外で全く別の仕事をしている。いや、もうこの世にいないのだ、と。

「十年ほど、ピアノには一切触れませんでした。見るのも、聴くのも、すべてが苦痛だった。自分の人生から、音楽というものを完全に消し去ろうとしていたんです」

彼は故郷に戻り、様々な職を転々とした。だが、どの仕事も長続きはしなかった。彼の魂は、音楽から離れては生きられなかったのだ。

第二楽章の始まり
転機が訪れたのは、三十歳を過ぎた頃だった。母校の小学校が、創立記念で古いピアノを寄贈された。だが、長年放置されていたそのピアノは、まともな音が出ない。誰もが諦めていた時、一人の男が名乗り出た。小林和真、その人だった。

「なぜだか、分かりません。ただ、あのピアノが『助けてくれ』と言っているように聞こえたんです」

彼は、独学で調律の技術を学び始めた。かつて鍵盤を支配したその指は、今度は音の構造を、一つ一つ解き明かしていく。それは、失われた過去を取り戻すための戦いであり、音楽と和解するための、長い道のりだった。数ヶ月後、彼は再びピアノの前に立った。彼が調律したピアノは、まるで生まれたての赤ん坊のような、澄み切った音を響かせたという。

「今は、この仕事が私のすべてです。ピアニストたちが最高の演奏をできるよう、裏方として支えることに、大きな喜びを感じています。彼らが奏でる音の中に、ほんの少しでも、私の魂が宿ってくれるのなら、それ以上の幸せはありません」

鳴り止まぬ喝采
小林はそう言って、穏やかに微笑んだ。その笑顔に、嘘はないのかもしれない。彼は確かに、過去を受け入れ、新たな人生を見つけたのだろう。

しかし、本当にそうだろうか。取材中、彼の指が、まるで見えない鍵盤を求めるように、何度も虚空を彷徨う瞬間があった。彼が愛おしそうにピアノの弦に触れる時、その瞳の奥で、満場の喝采を浴びたあの日の残像が、今も消えずに燃えているのを、筆者は確かに見た。

彼は、鍵盤に触れることをやめたのかもしれない。だが、その魂は、今もステージの上で、鳴り止まぬ拍手を求め続けている。この街の片隅で、神に愛された男が、今も静かに音を紡いでいる。その指が再び鍵盤の上を舞う日を、我々は待ってもいいのではないだろうか。彼の第二楽章は、まだ始まったばかりなのだから。

記事は、大きな反響を呼んだ。編集部には、小林の第二の人生を称賛する声や、彼の過去を惜しむ声が数多く寄せられた。田所は「見たか、武田。これが言葉の力だ。お前の文章は、読者の心を動かす」と上機嫌だった。

数日後、田所は興奮した様子で武田に話しかけた。 「おい、すごいことになったぞ。お前の記事を読んだ地元の名士が、小林の復活コンサートを企画したいと言ってきた。街中が、あいつの復活を望んでる。すばらしい話じゃないか!」

武田は、その言葉に青ざめた。「そんな、彼はもう弾けないと……プレッシャーになります」 「馬鹿野郎! これはチャンスだ! お前の記事が、眠れる才能を呼び覚ましたんだよ!後日談の記事を書いてくれ。復活コンサートにも触れてやってくれ」

田所は、武田の肩を強く叩いた。その目は、狂気じみた熱を帯びていた。

その夜、武田は咲にすべてを話した。自分の記事が、小林を追い詰めているかもしれない、と。 「私のせいなんだ。彼の心の蓋を、僕が開けてしまったんだ……」 「あなたのせいじゃないわ。あなたは、ただ彼の素晴らしい才能を伝えただけ。悪いのは、それを面白がっている人たちよ」

咲は、震える武田の体を強く抱きしめた。 「もう、そんな辛い仕事はやめて……」

彼女の涙声を聞きながら、武田は、苦悩に満ちた表情で固く目を閉じた。物語は始まってしまった。もう、誰にも止められない。

一ヶ月後。地元の新聞の片隅に、小さな記事が載った。 『元ピアニストの小林和真氏(46)、自宅階段から転落し重傷』 記事によると、彼は復活コンサートのプレッシャーから酒に溺れ、泥酔状態だったという。複雑骨折した両腕は、もう二度と、繊細な動きを取り戻すことはない、と。 彼は、音を生み出すことも、支えることもできなくなった。 武田の書いた「第二楽章」は、あまりにも短い不協和音のまま、唐突に終わりを告げた。

第二章:灰燼のパン

小林和真の一件は、武田の心に深い傷跡を残したように見えた。編集部で、彼は以前にも増して口数が少なくなり、その目の下の隈は、まるでインクを滲ませたように濃くなっていた。

「武田さん、大丈夫ですか」

心配そうに声をかけてきたのは、相田だった。彼は、武田のデスクに缶コーヒーをそっと置いた。

「俺、田所編集長に言ったんです。小林さんの件は、盛り上げ過ぎたんじゃないかって。そしたら、何て言ったと思います?『結果的に雑誌は売れた。あいつも、一瞬でも夢を見られたんだから本望だろ』って。あの人、どうかしてますよ」 「……ありがとう、相田くん。でも、僕にも責任はあるんだ。僕の書いた記事が、結果的に彼を追い詰めたんだから」

武田は、力なく首を振った。相田は、罪悪感に苛まれている武田の姿に、ジャーナリストとしての矜持と、人間としての良心を見た。

「次、どうするんですか。まだ、あの企画続けるんですか」 「田所編集長に言われてる。それにインタビューして、人生を書くのは好きなんだ。……次は、もっと落ち着いたトーンの記事を書くよ。そうじゃなきゃ、誰かを不幸にしてしまうかもしれない」

武田の言葉には力がない。相田は、それ以上何も言えず、ただ固く拳を握りしめた。

数日後、武田は次の取材対象者を見つけてきた。 高村静子。七十歳を過ぎた今も、シャッター街の一角で、小さなパン屋を一人で切り盛りしている。彼女の焼くパンは、一日限定三十個。昔ながらの製法を守り、その素朴で優しい味は、地元の常連客に深く愛されていた。

「次は、こういう人がいい。静かに、自分の人生を全うしている人だ。僕の言葉で、彼女の人生を乱したくない」

武田は、自分に言い聞かせるように、相田にそう語った。

『ベーカリー・タカムラ』は、時間の流れから取り残されたような店だった。年季の入った木の扉を開けると、イースト菌の甘い香りと、小麦の焼ける香ばしい匂いが、武田の鼻腔をくすぐる。ショーケースに並べられたパンは、どれも不格好で、飾り気がない。だが、一つ一つが、丁寧に作られていることだけは、素人目にも分かった。

店主の高村静子は、武田の想像通りの人物だった。背中は少し曲がり、顔には深い皺が刻まれている。だが、その目は、少女のように澄んでいた。

「取材? なんだい、こんな婆さんのどこに、面白い話があるってんだい。それともあれかい?載せるから金をくれってか」

彼女は、ぶっきらぼうにそう言った。だが、その声には、人に対する警戒心よりも、戸惑いの色が濃かった。

武田は、小林の時のように、相手の心の奥底を探るような質問はしなかった。ただ、パン作りへのこだわりや、亡き夫との思い出話を、相槌を打ちながら、静かに聞いていた。事実を中心に聞いていくと、映像が浮かび上がってくる。行動。情景。五感。それを書けばいい。

「この店はね、あの人との約束なんだよ。体が弱かったあの人が、唯一『お前の焼いたパンだけは、毎日でも食いてえ』って言ってくれたからね。だから、あの人が死んでからも、ずっと同じ味を守ってる。それだけだよ」

彼女は夫の遺影が飾られた壁に体をむけ、目を細めた。あまりにも整った美談。だが彼は、それを許さなかった。

武田は、彼女の話の端々に、奇妙な棘があることに気づいていた。

「親戚とは、もう何年も会ってない」「新しい機械なんて、使い方が分からんからいらない」「この店から一歩も出なくたって、生きていけるさ」

それらの言葉は頑固さの裏に隠された彼女の変化への恐怖と、夫を失ってから世間との間に壁を作って生きるしかなかった深い孤独を、雄弁に物語っていた。

この孤独こそが、彼女の物語の核心だ。 武田は、またしても人の心の「ひび割れ」を見つけてしまった。そして、それを書かずにはいられない、という創作の衝動に抗うことができなかった。


取材を終え、編集部に戻った武田は、田所に報告した。

「いい話が聞けました。亡くなったご主人との約束を、今も一人で守り続けている、気高い人です」

彼は、そう言った後で心配そうな顔をして、こう付け加えた。

「店はかなり老朽化していて、火の元の管理が危ういですね。あと、ご親戚とは昔、お金のことで揉めて、それ以来疎遠になっている、と。お一人なので何かあった時に大丈夫なのかな、と」

田所は「そうか、分かった」とだけ言い、その濁った目を細めた。

【週刊エール 11月9日号掲載記事】
【あの人の、もう一つの人生 Vol.2】
『聖域を守る人。シャッター街で、愛と約束のパンを焼き続けて』


取材・文/武田雄介

時代の流れから取り残された、古いシャッター街。その一角に、今も小さな灯りをともす店がある。『ベーカリー・タカムラ』。店主の高村静子さん(72)が、亡き夫との約束を胸に、たった一人で守り続ける、小さな聖域だ。

一日三十個限定
店の扉を開けると、懐かしい小麦の香りに包まれる。ショーケースに並ぶのは、飾り気のない素朴なパン。クリームパン、あんパン、そして、少しだけ歪んだ食パン。どれも、彼女が夜明け前からたった一人で焼き上げる、一日限定三十個の奇跡だ。

「特別なことなんて、何もしてないよ。昔ながらのやり方で、一つひとつ、手でこねて焼くだけさ」

静子さんは、手を休めずにぶっきらぼうに言う。その手は、長年のパン作りで節くれ立ち、まるで年輪を刻んだ木のようだ。彼女にとって、パンを焼くことは仕事ではない。それは、亡き夫・正一さんとの対話であり、祈りそのものなのだ。

「あの人は、体が弱くてね。でも、私が焼いたパンだけは、『うまい、うまい』って、毎日食べてくれたんだよ」

十年前に正一さんが亡くなってからも、彼女は一日も休むことなく、パンを焼き続けてきた。それは、天国の夫に「今日も元気にやってるよ」と報告するための、彼女なりの儀式なのかもしれない。

閉ざされた聖域
この店が、彼女のすべてだ。常連客は、そのことをよく知っている。彼らはパンを買いに来るのではない。静子さんが守り続ける、その気高い孤独と、愛の物語に、そっと触れに来るのだ。

「親戚? ああ、もう何年も会ってないねえ。新しい機械? そんなもん、いらんよ」

彼女の言葉は、時に頑固に聞こえるかもしれない。だが、それは、夫との思い出が詰まったこの「聖域」を、何者にも穢されたくないという、強い意志の表れだ。彼女は、時代の変化や、他人の干渉を拒み、たった一人で、この城を守り続けている。その気高い孤独は、あまりにも脆く、危うい。老朽化した店、たった一人での過酷な労働。彼女が守る聖域は、いつ崩れてもおかしくない、砂上の楼閣のようにも見えた。

記事が出ると、店の前には、これまで見たこともないような長蛇の列ができた。テレビの情報番組も取材に訪れ、静子さんの静かな日常は、無遠慮な好奇の目に晒され、破壊された。 そして、悲劇は起こった。

「不審火……?」

新聞記事の見出しを見て、相田は絶句した。

「どういうことですか、これ……。不審者まで呼んじゃったってことですか」

「……わからない」

一人残された武田は、消灯したままのパソコンのモニターに映る、自分の顔をじっと見つめていた。苦悩に歪んだ顔。だが、その表情が、ふっと消えた。一瞬だけ、そこに映っていたのは、ガラスの向こうの標本を観察する研究者のような、冷たく、感情のない瞳だった。

第三章:刑事の視線

高村静子のパン屋が全焼してから、一週間が経った。警察の捜査は難航し、結局、事件は「原因不明の火災」として処理されることになった。だが、編集部の中に漂う空気は、以前とは明らかに違っていた。

誰もが口には出さないが、一連の悲劇が、この雑誌から始まっていることに、薄々気づき始めていたのだ。

「武田さん、見てください」

ある日の午後、相田が武田のデスクにやってきた。彼が差し出したのは、週刊エールのバックナンバーだった。田所が編集長に就任してからの、過去五年分。

「田所が編集長になってから、不自然な事故やトラブルで潰れた店や会社が、いくつもあるんです。そして、そのほとんどが、うちの雑誌で美談として取り上げられた直後です」

「……まさか」

武田は目を見開いた。相田は声を潜める。

「まだ確証はありません。でも、偶然にしては、出来すぎています。田所編集長は、俺たちが知らないところで、何かをやっているのかもしれません」

相田の目は、真実を追い求めるジャーナリストの目をしていた。

「……危険すぎるよ、相田くん。相手は編集長だ。もし、君の考えが本当なら、僕たちは消されるかもしれない」

「それでも、俺は引き下がれない。武田さんは、どうするんですか」

武田は、しばらくの間、苦悩するように押し黙った。そして、やがて、覚悟を決めたように顔を上げる。

「……僕も、付き合うよ。これ以上、僕の記事で不幸になる人を、見たくないから」

その日、編集部に背筋の伸びた一人の女性が現れた。歳は三十代半ばだろうか。黒いパンツスーツを着こなし、無駄のない、洗練された動きでフロアを見渡している。彼女が名乗る前に、その場にいた誰もが、彼女が一般人ではないことを察した。

「県警捜査一課の長谷部と申します。田所編集長に、少しお話を伺いたいのですが」

長谷部涼子。彼女の名前を聞いて、田所の顔が、あからさまに歪んだ。

編集長室で行われた事情聴取は一時間にも及んだ。ドアの向こうから、時折、田所の怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。やがて、長谷部が一人で部屋から出てきた。彼女の表情からは何も読み取れない。

彼女は、フロアを見渡すと、まっすぐに武田と相田のデスクへと向かってきた。

「武田雄介さんと、相田蓮さんですね。少しだけ、よろしいでしょうか」

長谷部の声は、穏やかだった。だが、その目は、獲物を見つけた猛禽類のように鋭い。彼女は、小林和真と高村静子の件について、当たり障りのない質問をいくつか投げかけた。

「僕の記事が、彼らの人生を狂わせてしまったのかもしれない……」

武田は俯いた。

一方、相田は自分の知っていること、田所への疑念を語った。

「編集長は、人の不幸を『面白い』としか思っていない節があります。今回の件も、絶対に何か裏があるはずです。編集長がエールに配属されてから、取材先が不幸になり始めているんです。それに武田さんに今回のシリーズをやらせたのも編集長ですし」

長谷部は二人の話をただ黙って聞いていた。そして最後に尋ねた。

「武田さん。あなたはご自分の書いた記事がこれほどの力を持つと思っていましたか?」

その質問には、奇妙な響きがあった。まるで、彼の才能そのものを、値踏みするかのような。

「いいえ。僕は、ただ、その人の人生に、光を当てたかっただけで……」

武田はか細い声で答えた。長谷部は「そうですか」とだけ言うと、軽く一礼して編集部を去っていった。

彼女が去った後、相田は興奮気味に武田に話しかけた。

「見ましたか、武田さん。警察も、ようやく動き出した。これで、田所編集長が何をしているのか分かるはずです」

「……だと、いいんだけど」

武田は、そう言って力なく笑った。彼の視線の先、窓の外の灰色の空を見つめる横顔はやつれている。パソコンのモニターに映る自分の顔を確認しながら、無精ひげをなでた。

第四章:消えた影

長谷部刑事の訪問は、編集部内に見えない波紋を広げた。田所は以前にも増して苛立ちを隠さず、些細なことで部下を怒鳴りつけるようになった。その一方で、彼は武田の企画『あの人の、もう一つの人生』に異様な執着を見せ続けた。

「武田さん、次の取材、どうしますか」

相田は声を潜めて武田に尋ねた。彼の顔には正義感だけでなく、スリルを求める若者らしい好奇の色も浮かんでいた。

「警察が動いている今、下手に動くのは危険だ。しばらく、この企画は休ませてもらえないだろうか……」

武田は疲弊した様子で答えた。だが、彼の言葉が相田の正義感に火をつけた。

「駄目ですよ! 今ここで俺たちが引いたら、田所編集長の思うつぼです。それに警察だって、新しい事件が起きないと本格的に動けないかもしれない。俺たちが、奴の尻尾を掴むしかないんです!」

「……でも、また誰かが不幸になったら」

「させませんよ。俺も、武田さんと一緒に行きます。二人で、取材対象者を守りましょう」

相田の力強い言葉に、武田はゆっくりと頷いた。

次の取材対象者は、相田が探してきた。 斉藤誠。数十年前、ある政治家の汚職事件の現場を偶然のタイミングでスクープ写真として撮影し、報道写真賞を受賞した元アマチュア写真家。しかし、彼は賞金を受け取ると、世間から完全に姿を消し、名前を変えて今は山奥でひっそりと暮らしているという。

「この人は田舎で静かに暮らしている。マスコミもそこまで追いかけないでしょう。それに、何かあっても俺がそばにいます」

相田は自信満々に言いきった。

斉藤誠の家は携帯電話の電波の届きにくい山深い場所にあった。古びた平屋の周りには、手入れの行き届いた畑が広がっている。武田と相田が訪ねると、初老の男が警戒心に満ちた目で二人を迎えた。彼が、斉藤誠だった。

「……何の用だ。もう、マスコミはこりごりだと言ったはずだ」

斉藤は痩せこけ、その目は常に何かに怯えているようだった。

「斉藤さん、ご安心ください。我々は、あなたの過去を蒸し返したいわけじゃないんです。ただ、あなたのその後の人生を、静かに描かせていただきたいだけなんです」

武田は、穏やかな口調で語りかけた。相田も、隣で必死に頭を下げる。 斉藤は、しばらく二人を疑いの目で見ていたが、やがて諦めたように重い口を開いた。

彼はあの一枚の写真が自分の人生をいかに狂わせたかを語った。賞金を手にしたが、脅迫や嫌がらせが相次ぎ、人間不信に陥ったこと。家族とも離れ、名前を変え、こうして山奥に逃げるように暮らしてきたこと。

「あの写真は、俺にとって栄光なんかじゃない。呪いだよ」

そう言って、彼は深くため息をついた。 武田は、彼の言葉に、ただ黙って耳を傾けていた。そして、取材の最後に、こう約束した。

「あなたの平和を乱すような記事は、絶対に書きません。ただ、あなたが静かに生きている。そのことだけを読者に伝えさせてください」

斉藤は安堵したような表情を浮かべた。

編集部に戻った武田は、約束通り、斉藤の過去の事件については具体的には触れず、彼が山奥で送る、自給自足の穏やかな生活だけを描いた原稿を書き上げた。これまでの記事とは違い、人の心の奥底を抉るような鋭さのない、当たり障りのない、ある意味退屈な記事だった。

「これでいい。これなら誰も傷つかない」

武田は完成した原稿を安堵のため息と共に見つめた。相田もその原稿を読み、「これなら大丈夫ですね」と頷いた。

武田は、その原稿を田所に提出した。数時間後、田所は武田を編集長室に呼びつけた。

「なんだ、この記事は。つまらん。これじゃ、読者は喜ばねえぞ」

田所は原稿を机に叩きつけた。

「ですが、彼と約束したんです。過去のことは書かない、と」

「バカ野郎! 約束なんか、どうでもいいんだよ! 面白いか、面白くないか、それがすべてだ!」

田所は、ペンを手に取ると、武田の原稿に、乱暴に赤字を入れ始めた。そして、記事の最後に、決定的な一文を書き加えた。

『――だが、彼が今も、あの事件の真相を写した「決定的なネガ」を、この山のどこかに隠し持っていることを、知る者はいない』

「田所編集長! やめてください!」

武田は、悲痛な声を上げた。だが、田所は、それをあざ笑うかのように、原稿を武田に突き返した。

「これでいい。これで、俺たちの読者が喜ぶ『物語』になった」

編集長室を出た武田は、その場で崩れ落ちそうになった。相田が、慌てて駆け寄ってくる。

「武田さん、大丈夫ですか! なんてひどいことを……!」 「……駄目だ。もう、駄目だ……」

武田は、力なく呟いた。その手には、赤字で穢された原稿が、くしゃくしゃに握られていた。

【週刊エール 12月14日号掲載記事】
【あの人の、もう一つの人生 Vol.3】
『栄光を捨てた男。山奥に消えた、伝説の写真家を追う』


取材・文/武田雄介

都心から車で三時間。携帯電話の電波も届かない山深い集落に斉藤誠さん(68)はたった一人で暮らしている。かつて、その名と一枚の写真が日本中を駆け巡ったことを、今では知る者も少ない。

彼の朝は、鳥の声と共に始まる。家の周りに広がる小さな畑で、彼は黙々と土を耕す。トマト、きゅうり、なす。季節の野菜を、彼はすべて自分の手で育てる。

「ここに来て、もう二十年になるかな。最初は、何をしていいか分からなかった。でも、土に触れていると、余計なことを考えなくて済むんだ。こいつらは、正直だからね。手をかければ、かけただけ、ちゃんと応えてくれる」

収穫した野菜は、週に一度、麓の小さな直売所に卸す。それが、彼の唯一の収入源であり、社会とのささやかな接点だ。

ファインダー越しの過去
かつて彼が手にしていたカメラの話を向けると、斉藤さんは、寂しそうに首を振った。

「もう、何年も触ってないよ。あの頃のことは、全部、あの山のふもとに置いてきたんだ」

彼が暮らす古びた平屋には、かつて彼が撮りためたであろう写真は、一枚も飾られていない。ただ、縁側の柱に、一台の古いフィルムカメラが、埃をかぶって置かれているだけだった。それは、まるで主を失った忠犬のように、静かに主人が再び自分を手に取ってくれる日を、待ち続けているように見えた。

沈黙の理由
なぜ、彼は栄光を捨て、世間から姿を消したのか。我々の問いに、彼は重い口を開いた。

「あの写真は、呪いだよ」

一枚の写真が、彼からすべてを奪った。名声と引き換えに、彼は平穏な日常を失い、人間不信に陥ったのだという。彼は今、この山奥で、過去の記憶から逃れるように息を潜めて生きている。誰かに脅されているのかもしれない。だが、本当にそれだけだろうか。彼は今も、あの事件の真相を写した「決定的なネガ」を、この山のどこかに隠し持っている。

雑誌が発売されてから、一週間後のことだった。 テレビのニュース速報が、衝撃的な事実を伝えた。

『元写真家の斉藤誠さん、自宅から行方不明。警察は、事件に巻き込まれた可能性もあると見て捜査』

編集部が、凍りついた。 相田は、顔面蒼白で立ち尽くしている。田所は、一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに口の端を歪め、不気味な笑みを浮かべた。武田は、その場にゆっくりと座り込んだ。彼の体は、小刻みに震えている。

「……ああ。また、僕のせいで……」

その時、編集部の入り口のドアが静かに開いた。 立っていたのは長谷部涼子だった。彼女の目は、これまでになく冷たく、そして鋭く光っていた。 彼女は、一直線に震える武田の前に立った。

「武田雄介さん。あなたに、もう一度、お話を伺います」

第五章:狭まる包囲網

県警本部の取調室は、無機質な灰色に塗り込められていた。長谷部は武田の正面に座り、感情の読めない目で彼をじっと見つめている。

「重要参考人として、お話を伺います。斉藤誠さんが行方不明になった件、あなたには、何か心当たりがあるんじゃないですか」

「……僕の、記事のせいです」

武田はか細い声で答えた。その姿は罪悪感に打ちひしがれているようだ。

「僕が、斉藤さんの静かな生活を乱してしまった。そして、田所編集長が、記事を……」

「編集長が記事に手をいれた?」

「はい。僕は、過去の事件には触れないと、固く約束したんです。でも、編集長は……『面白いか、面白くないか、それがすべてだ』と言って、あの、ネガについての文章を……」

武田は言葉を詰らせ、顔を覆った。

「分かりました。田所編集長からも、改めて話を伺います。ですが、武田さん、あなたにも聞きたいことがある」

長谷部は真っ直ぐに武田の目を見た。

「あなたの記事を読んだ人間が、次々と不幸に見舞われている。偶然にしては、できすぎているとは思いませんか。あなたは自分の言葉がこれほどの現実を動かす力を持っていることに、本当に気づいていなかったんですか?」

「……僕は、ただ、書いただけです。人の人生に、光を当てたいと、そう思っただけで……」

武田の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


武田が警察で事情聴取を受けている頃、田所は編集長室に相田を呼びつけていた。

「相田、お前に頼みたいことがある」

田所は、ヤニで黄ばんだ歯を見せて、不気味に笑った。

「武田のことだ。あいつ、最近少しおかしいと思わんか?」

相田は、警戒心を露わにして田所を睨みつけた。

「……どういう意味ですか」

「あのな、俺は、あいつの才能を一番買ってる。だが、その才能は、少し危うすぎる。あいつの記事が出ると、人が不幸になる。まるで、死神みてえじゃねえか」

田所は赤ペンを置いた。

「武田は精神的に不安定だ。自分の書いた記事が注目されるように、良からぬことをしでかしてるんじゃないか」

「武田さんは、そんな人じゃありません!」

「分かってる。だから、頼みたいんだよ。お前は、あいつの友達だろ? あいつが、これ以上道を踏み外さないように、そばで見ていてやってくれ。何か、おかしなことをしていないか、な」

「……分かりました」

相田は、怒りを押し殺し、静かにそう答えた。田所が悪事を働いているなら、一度懐に飛び込むしかない。

その日の夜、相田は武田の自宅を訪れた。警察から解放された武田は、抜け殻のようにソファに座り込んでいた。

「武田さん、大丈夫ですか」

「……ああ。なんとかね」

相田は、田所との会話を、一言一句違わぬように武田に伝えた。

「最低です、あの人。自分の罪を、全部武田さんに擦り付けようとしてる。俺、絶対に許さない」

武田は、相田の言葉を、ただ黙って聞いていた。そして、すべてを聞き終えると、力なく笑った。

「まだ編集長が何かをしていると決まったわけじゃない……でもありがとう、相田くん」


数日後、長谷部は武田のアパートからほど近い市立図書館を訪れていた。彼女の目的は、宮下咲だった。

「武田さんとお付き合いされていますね」

咲は突然の刑事の訪問に戸惑いながらも丁寧に応対した。長谷部は彼女に武田の普段の様子について尋ねた。

「彼は……とても、優しい人です。繊細で、自分のことよりも、いつも他人のことを心配しているような」

咲は武田との思い出を語った。彼が道端でうずくまっている猫を、何時間もかけて助けたこと。彼女が仕事で落ち込んでいる時、一晩中黙ってそばにいてくれたこと。

「でも最近はずっと苦しそうです。自分の書いた記事が人を不幸にしてしまうって。毎晩、悪夢にうなされているみたいで……。私、もう見ていられないんです」

咲の目には、涙が浮かんでいた。彼女が武田を心から愛し、信頼していることは疑いようもなかった。

「そうですか。ありがとうございました」

なぜ武田の記事は死神のように不幸を呼び寄せるのか。 長谷部は首を振った。考えすぎだ。何も証拠がない。

第六章:反撃の狼煙

斉藤誠の失踪事件は、週刊エールを巡る状況を一変させた。警察の捜査は、編集部全体に重苦しい空気をもたらし、編集部員たちは互いに疑心暗鬼になっていた。田所は長谷部から連日のように事情聴取を受け、その苛立ちは頂点に達していた。

そんな中、武田は燃え尽きたかのように静かだった。彼は田所から命じられていた企画の記事も書かず、ただデスクで窓の外を虚ろに眺めているだけの日々が続いた。

「武田さん、このままじゃダメです」

見かねた相田が、声をかけた。彼の目には焦りの色が浮かんでいた。

「警察は田所を疑っていますが、決定的な証拠がない。斉藤さんの件も、記事を改ざんしたという武田さんの証言だけでは、彼を追い詰められない。俺たちが、動かないと」

「……もう、疲れたよ、相田くん」

武田は、力なく呟いた。

「僕がペンをとれば、また誰かが不幸になる。もう、何も書きたくないんだ」

「武田さんのせいじゃないって、何度言ったら分かるんですか! 悪いのは、あなたの才能を悪用している田所ですよ! 俺たちの手で、奴を地獄に突き落とすんです。そのためなら、俺はなんだってします」

相田の言葉は、熱を帯びていた。その純粋な正義感が、武田の心の奥底に眠っていた何かを、ゆっくりと揺り動かした。

「……分かった」

武田は、長い沈黙の末に、顔を上げた。その目には、諦めではない、静かな決意の光が宿っていた。

「君がそこまで言うなら、やろう。だが、これは危険な賭けだ。僕たちは、ジャーナリストとして、一線を超えることになるかもしれない」

相田は力強く頷いた。二人の間に共犯者としての暗黙の盟約が結ばれた。


その日の夜、武田は自宅に相田を呼んだ。重苦しい雰囲気の中、武田は自らの計画を語り始めた。

「田所編集長を、罠にかける」

まず、田所が飛びつきたくなるような、スキャンダラスなネタを持つ取材対象者を見つけ出す。そして、その人物の「弱さ」や「秘密」を、徹底的に調べ上げる。だが、その決定的な証拠を、記事にはしない。

「記事にしない? どういうことですか」

相田が、訝しげに尋ねる。

「僕らは、その証拠を、田所の目に付く場所に放置するんだ。例えば、僕のデスクの引き出しとか、共有サーバーの、鍵のかかっていないフォルダとかにね」

「……何のために?」

「今の田所なら、必ずそのネタに食いつくはずだ。そして、僕が書かないと分かれば、自分でその情報を利用しようとするだろう」

「そんなこと、うまくいくんでしょうか」

「分からない。でも、もうこれしか彼を止める方法はないんだ。これは、僕が始めた物語なんだ。だから、僕が終わらせないと」


数日後、相田が完璧な「獲物」を見つけてきた。 森山史郎。地元では、人格者として知られる、高名な郷土史家だ。数多くの著作を持ち、テレビのコメンテーターとしても活躍している。

「この人、表向きは聖人君子みたいに言われていますけど、昔から裏では黒い噂が絶えないんです。特に、彼の代表作とされている郷土史の研究書は、無名の研究者が発表した論文からの、大規模な盗作じゃないかって、一部ではずっと囁かれていて」

相田は、興奮気味に資料を広げた。

「これは……」

武田は呟いた。 完璧だった。社会的な名声が高ければ高いほど、その人物が地に落ちた時の衝撃は大きい。田所が最も好みそうな獲物だ。

「よし、決まりだ。僕が彼に会ってくる」

「俺も行きます」

「いや、君は来ないでくれ」

武田は相田の申し出を、静かに、しかしきっぱりと断った。

「この件は、僕一人でやる。君は僕が手に入れた情報を田所編集長がどう扱うか、その証拠を掴むことに集中してくれ。これは、役割分担だ」

それは、理にかなった提案だった。相田は、少しだけ不満そうな顔をしたが、やがて頷いた。

「……分かりました。武田さん、絶対に無理はしないでくださいね」

「ああ。分かってる」

第七章:偽りの郷土史

森山史郎の自宅は、市街地を一望できる高台の住宅街にあった。磨き上げられた門扉、手入れの行き届いた庭。そのすべてが、彼の社会的成功を物語っていた。武田は、インターホンを押す指に、わずかな躊躇いを覚える演技をした。

「やあ、お待ちしていましたよ」

玄関に現れた森山はテレビで見るよりもずっと柔和な印象だった。白髪交じりの髪を上品に整え、高価そうなツイードのジャケットを羽織っている。書斎に通された武田は、壁一面を埋め尽くす蔵書に圧倒された。

「それで武田さん。こんな老いぼれの、どんな話が聞きたいのかな」

森山は、にこやかに尋ねた。その目は、孫をみる祖父のように細められている。 武田は森山の懐へと潜り込んでいった。彼の功績を称え、その知識の深さに感嘆の声を上げる。森山は、若いライターの純粋な尊敬の眼差しに、すっかり気を良くしたようだった。

数時間に及ぶインタビューの中で、武田は、核心に触れる質問は一切しなかった。盗作疑惑のことなど、おくびにも出さない。ただ、彼の研究の源泉について、繰り返し尋ねた。

「先生の、この膨大な知識は、一体どこから……。何か、参考にされた資料などは、おありなんですか」

その質問に、森山の目が、ほんの一瞬だけ、鋭く光ったのを、武田は見逃さなかった。

「ははは。長年の、地道な研究の賜物ですよ。それ以外に、ありませんな」

森山は、そう言って笑った。その笑い声が、空虚に書斎に響いた。


数日後、武田は国会図書館の薄暗い書庫にいた。相田が集めてくれた情報をもとに、彼は森山の代表作と、二十年以上前に発表された、今では忘れ去られた一人の研究者の博士論文を一文一文照らし合わせていた。

結果は予想以上だった。構成、言い回し、そして、独自の調査結果であるはずのデータ。そのあまりにも多くの部分が、酷似していた。これは偶然ではありえない。盗作だった。

武田は証拠となるページのコピーを取った。そして、論文の著者である遠藤という研究者の遺族の連絡先を突き止めた。

電話口に出たのは、遠藤の娘だった。彼女は、父の研究が、森山によって盗まれたものであることを、長年、訴え続けてきたのだという。

「父は、森山先生に裏切られ、失意のうちに亡くなりました。でも、誰も、私たちの言葉を信じてはくれなかった……」


編集部に戻った武田は、森山の盗作を証明する、決定的な証拠の数々を、一つのフォルダにまとめた。論文の比較対照データ、遺族の証言を録音した音声ファイル。それは、ジャーナリストなら誰もが喉から手が出るほど欲しがる、完璧なスクープだった。

彼は、そのフォルダを、わざと分かりやすい名前――『森山史郎・盗作疑惑調査資料』――を付けて、編集部の共有サーバーの、誰でもアクセスできる階層にアップロードした。そして、自分のデスクの、鍵のかかっていない一番上の引き出しに、証拠書類のコピーを無造備に放り込んだ。

「武田さん、大丈夫なんですか、そんなところに」

その様子を見ていた相田が、心配そうに声をかけた。

「ああ、いいんだ。どうせ、この記事は書かないから」

「……書かない?」

「そうだ。これを公にすれば、森山先生は、社会的に殺されることになる。僕にはもう、そんなことはできない。この証拠は、僕の心の中にだけ、しまっておくよ」

その日の深夜。編集部に、一人だけ、残っている男がいた。 田所だった。共有サーバーにアクセスし、武田が残したフォルダを、自分のパソコンにコピーした。 暗い編集部の中で、パソコンのモニターの光が、田所の、欲望に歪んだ顔を、不気味に照らし出していた。田所は武田のデスクの引き出しを開け、書類の束を抜き取った。


数日後、事件は起きた。。ライバル誌である大手出版社の週刊誌が森山史郎の盗作疑惑を大々的に報じたのだ。その記事は、武田がまとめた資料と酷似していた。

テレビのワイドショーは、一日中、このニュースで持ちきりだった。森山は、すべての役職を辞任し、表舞台から姿を消した。彼が長年かけて築き上げてきた名声は、一夜にして崩れ去った。

そして、その一週間後。 森山史郎は、自宅の書斎で薬を飲んでぐったりしているのが発見された。傍らには、遺書が残されていたという。

第八章:王手

森山史郎の死は、決定的な引き金となった。 テレビのニュースは、彼の死をトップニュースで報じ、その死がライバル誌のスクープ記事に起因するものであることを、繰り返し伝えた。世間の目は一斉に週刊誌の過激な報道姿勢へと向けられた。

「やりましたね、武田さん」

相田が声を潜めて武田に言った。

「田所編集長は、自分で自分の首を絞めたんだ。俺、奴がライバル誌に情報をリークした証拠、掴みました。奴のパソコンのメールの送信履歴を……長谷部さんに伝えてあります」

「でも人が死んだ。僕のせいだ」

「違います! 俺たちのせいじゃない! これは、田所が一人でやったことだ! 俺たちは、奴を止めるために、これしかなかったんですよ!」

その時だった。編集部の入り口のドアが、静かに、しかし、有無を言わせぬ圧力を持って開かれた。 長谷部涼子が、数人の捜査員を伴って、立っていた。彼女の目は、もはや何の感情も映さず、ただ、その奥に、冷徹な法の手続きだけを宿していた。

彼女は、武田と相田には目もくれず、まっすぐに編集長室へと向かった。

「田所さん、任意同行を求めます」

編集部内が、凍りついた。田所は一瞬、呆然とした顔をしたが、やがて、すべてを諦めたかのように、力なく椅子に座り込んだ。捜査員に両脇を固められ、連行されていく彼の姿は、あまりにも小さく、哀れに見えた。


その日の夜、武田は、咲のアパートを訪れた。 田所が連行されたことは、すでにニュースで報じられていた。咲は、心配そうな顔で武田を迎えた。

「雄介さん、大丈夫……?」

「……ああ。なんとかね」

武田は、力なく笑った。

「これで、すべてが終わるよ」

彼は、そう言って、咲を優しく抱きしめた。その体は、小刻みに震えている。

「でも、僕も、無傷ではいられないかもしれない。僕も、この狂った物語の、登場人物の一人だったんだから。もしかしたら、僕も、何かを失うことになるかもしれない」

「そんなこと言わないで!」

咲は、彼の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。

「あなたは、何も悪くない! あなたは、ずっと、苦しんできたじゃない! 私が、それを一番、知ってる……!」

「……ありがとう、咲」

武田は、彼女の髪を優しく撫でた。

「君がいてくれて、よかった。本当に」

第九章:狂気の祝杯

田所は証拠不十分で保釈された。だが、彼が戻る場所は、もはやどこにもなかった。編集長の座は解かれ、長年君臨してきた城は、一夜にして崩れ去ったのだ。

編集部は、後任の編集長代理が立てられ、表面上は平静を取り戻そうとしていた。だが、その空気は重く、よどんでいた。相田は、正義を果たしたという高揚感と、一人の人生を終わらせてしまったという罪悪感との間で、複雑な表情を浮かべていた。

武田は、相変わらず、抜け殻のようだった。彼は、誰とも口をきかず、ただデスクで、死んだように時間を過ごしていた。

そんなある日の深夜、武田のスマートフォンが鳴った。非通知の番号だった。

「俺だ。田所だ」

受話器の向こうから聞こえてきたのは、驚くほど落ち着いた声だった。

「武田。お前に、最後の仕事を頼みたい」

「……もう、あなたと話すことはありません」

『まあ、そう言うなよ。これは、お前にしかできない仕事だ。そして、この雑誌の、最高のフィナーレを飾る、最高の記事になる』

田所の声は、熱を帯び始めていた。

「俺の、独占インタビューを記事にしろ」

「……は?」

「すべてを話す。俺が、なぜ彼らを破滅させたのか。どんな手を使ったのか。そのすべてをお前の手で記事にするんだ。最高のスクープだろ?」

武田は絶句した。この男は自分の罪さえも物語として、消費しようとしているのだ。

「いいか、武田。俺は、お前の才能を認めている。お前の文章は、人の心を抉り、動かす力がある。俺という、最高の素材を、お前のそのペンで、最高の作品に仕上げてみせろ」

電話は、一方的に切れた。武田は、スマートホンを握りしめたまま、しばらく動けなかった。


翌日、武田は相田にすべてを話した。

「編集長から、連絡があった。自分の告白を記事にしろ、と」

相田は、信じられないという顔で、目を見開いた。

「……正気じゃない」

「ああ。彼は最後の花火にしようとしてるんだ。この雑誌を、前代未聞のスキャンダルで終わらせることで、歴史に名を刻もうと……」

武田は、そう言って、力なく笑った。

「どうすればいい、相田くん。僕は、もう、彼の狂気に付き合うのは、ごめんだ」

「……受けるべきです」

相田は、意外な言葉を口にした。

「これは、チャンスです。彼の口から、すべての罪を語らせる、またとない機会だ。それを、俺たちの手で記録し、世間に公表する。それこそが、俺たちジャーナリストの、最後の責任じゃないですか」

彼の目は、どこまでも真摯だった。

「……そうか。そう、なのかもしれないな。僕が始めた物語だ。僕が終わらせないと。分かった。受けるよ。彼の狂気のすべてを、この手で記録してやる」

その夜、武田は、田所に連絡を取った。 インタビューの場所は、田所の指定で編集長室に決まった。


深夜の編集部は静まり返っていた。編集長室のドアを開けると、田所が一人、デスクに座っていた。部屋の中はウイスキーの匂いが充満している。彼の顔は、アルコールで赤く火照り、その目は、異様な光で爛々と輝いていた。

「来たか、武田」

田所はグラスを掲げた。 武田は彼の正面に座ると、黙ってICレコーダーのスイッチを入れた。

そこから、田所の独白が始まった。それは、懺悔ではなかった。自らの功績を誇る演説だった。

「俺はな、ただの編集長じゃない。物語の作者だったんだよ」

彼は、楽しそうに語った。小林和真の心の奥に眠っていたピアニストへの渇望を武田の記事がいかに見事に抉り出したか。高村静子の孤独な聖域をいかに効率的に破壊したか。斉藤誠の恐怖をいかに巧みに煽ったか。そして、森山史郎の偽りの名声をいかに木っ端微塵に粉砕したか。

「お前の記事は、最高の脚本だった。俺はその脚本通りに役者を動かしただけだ。俺たちは最高のコンビだったんだよ、武田!」

田所は、高らかに笑った。その笑い声は、狂気に満ちていた。

武田はただ黙って、彼の言葉を記録し続けた。目の前の哀れな怪物の、最後の姿を、その目に焼き付けていた。

数時間に及んだインタビューの最後に、田所は、満足げに、こう言った。

「どうだ、武田。最高の、物語だろう? これを、お前の最高の文章で、歴史に残せ。俺たちの、最高傑作だ」

武田は、何も答えなかった。ただ、静かにICレコーダーのスイッチを切ると頭を下げた。

第十章:代筆者の祭典

田所の独白から数日後、『週刊エール』は、最後の号を発売した。 表紙には、黒い背景に、白い文字で、ただ一言、こう書かれていた。

『懺悔』

【週刊エール最終号特別企画】
怪物と、そのペンになった男の告白
取材・文/武田雄介


はじめに
この記事が読者の皆様の目に触れる頃、この『週刊エール』という雑誌は、その役目を終える。いや、終えなければならない。なぜなら、我々は、人の人生を弄び、不幸の物語を量産する、怪物そのものだったからだ。これから語られるのは、一連の悲劇の主犯である前編集長・田所の狂気に満ちた独白と、そして、その狂気に加担し、自らのペンを凶器としてしまった、私自身の懺悔の記録である。これは、我々が世に放った最後の「物語」であり、そして、断罪されるべき我々自身への、告発状だ。

第一部:怪物の祝杯
深夜の編集長室。保釈された田所は、高級なウイスキーを呷りながら、上機嫌で語り始めた。その目は、反省の色など微塵もなく、自らが作り上げた「作品」の成功を誇る、芸術家のように輝いていた。

「俺はな、ただの編集長じゃない。物語を書いたんだ。作家だったんだよ」

すべては、退屈しのぎだったのだ、と。人の人生が、自分の思い通りに壊れていく様を、神の視点から眺めることだけが、彼の唯一の愉悦だったのだ、と。

「小林和真。あの男は傑作だったな。お前の記事は、あいつが心の奥底に塗り込めていたピアニストへの未練を見事に暴き出した。俺は、その傷口に、少しだけ塩を塗ってやっただけだ。地元の名士を焚きつけ、あいつが断れない状況を作り、酒を飲ませてやった。プレッシャーに潰れていく元芸術家の姿は、実に美しかったよ」

彼は、まるで名画を鑑賞したかのように、うっとりと目を細めた。

「高村静子も良かったな。あの婆さん、夫との思い出という殻に閉じこもって、変化を拒んでいた。お前は、その殻の脆さを見抜いた。俺は、その殻を叩き割る手伝いをしただけだ。客を殺到させ、チンピラに嫌がらせをさせ、金の亡者みたいな親戚をけしかけた。自分の聖域が土足で踏み荒らされていく様に、あの婆さんはどんな顔をしていたかなあ。さすが放火はさせてない。チンピラがやったのか、親戚か。あの婆さんが自分で燃やしたのかもしれんしな」

彼は、心底楽しそうに笑った。人の絶望が、彼にとっては喜劇なのだ。

「斉藤誠は、臆病なだけだった。だから、少しだけ背中を押してやったのさ。お前が書いた生ぬるい原稿に、『決定的なネガを持っている』という一行を加えるだけで、物語は勝手に動き出した。俺は、あの写真に写っていた連中に、一本電話を入れただけだ。『斉藤が、警察と取引しようとしている』と。あとは、勝手に消えてくれた。連中が何をしたのか知らないが、実にあっけない幕切れだったな」

そして、彼は、森山史郎の死についても語った。

「あの郷土史家は、偽りの名声に守られた空っぽの男だった。お前が、そのメッキを剥がすための完璧な資料を用意してくれた。俺はそれをライバル誌にくれてやった。なぜかって? お前は書く気をなくしていたし、俺たちは警察が来るくらい目立ちすぎていた。外から爆弾を落としたんだ」

彼はグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干した。

「お前の記事は、最高の脚本だった。俺は監督として、その脚本通りに舞台を整え、役者を動かしただけだ。俺たちは、最高のコンビだったんだよ、武田! どうだ、最高の、物語だろう? これを、お前の最高の文章で、歴史に残せ。俺たちの、最高傑作だ」

第二部:代筆者の罪
私は、彼の言葉を、ただ記録し続けた。彼の狂気は、理解を超えていた。だが、私に、彼を断罪する資格はない。なぜなら、私こそが、その狂気を増長させ、数々の悲劇の引き金を引いてしまったのだから。

私は、人の心の「ひび割れ」を見つけることができた。その人の弱さ、脆さ、隠された欲望。それに気づきながら、私は、それを記事にした。最初は、人の心に光を当てたいという、純粋な善意からだった。だが、私のペンは、いつしか田所という怪物に握られ、その意のままに動く、凶器と化していた。私は、抵抗しようとした。

相田蓮という、正義感の強い同僚と共に、田所の暴走を止めようと、危険な罠を仕掛けた。だが、それさえも、結果的に森山史郎氏を死に追いやってしまった。私の正義は、独善に過ぎなかったのだ。私のペンは、呪われているのかもしれない。

いや、違う。私自身が、死神だったのだ。人の心の闇を覗き込み、それを美しい言葉で飾り立て、世間に晒す。その行為そのものが、罪だったのだ。

おわりに
この記事を書き終えた後、私は、ペンを置く。もう二度と、人の人生を物語ることはないだろう。田所が犯した罪は、法によって裁かれる。だが、私が犯した罪を裁ける人はいない。私は、この罪を一生背負って生きていく。被害者の方々、そして、我々の作り上げた「物語」によって、心を傷つけられたすべての読者の皆様に、心から、お詫びを申し上げたい。本当に、申し訳ありませんでした。

記事は空前のスキャンダルとなった。発売日、雑誌は全国の書店から姿を消し、インターネットでは、一日中、トレンドのトップを独占した。テレビのニュースは、この記事を引用し、メディアの倫理を問う特集を組んだ。

田所は自宅マンションで警察に身柄を確保された。今度は任意同行ではない。連行される彼の顔には満足げな笑みが浮かんでいた。


数週間後。『週刊エール』は正式に歴史の幕を下ろした。

相田は新しい職場を見つけた。小さな、しかし志の高い報道専門のYouTube番組だ。彼は一緒に来ないかと誘ったが、武田は首を振った。

「僕にはもう、何かを書く資格はないよ」

相田はそれ以上、強く誘ってはこなかった。

長谷部は一度だけ、武田に会いに来た。

「結局、私はあなたのことが、最後まで分かりませんでした」

彼女は、そう言って、意味ありげに微笑んだ。

「でも、一つだけ言えるのは、あなたは、最高の物語作家だということです」

咲はすべてが終わった後も、変わらず武田のそばにいた。

「もう、苦しまなくていいのよ。あなたは、最後まで、正しくあろうとした。私は、そんなあなたを、心から尊敬しているわ」 


【エピローグ】

全ての騒動が収まってから、一年が過ぎた。 かつて『週刊エール』の編集部があったフロア。今は書籍の編集部になっている。

武田はかつて田所が座っていた編集長の椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。軋む音だけが、静寂に響く。

「……ソックス、いたのか」

武田が声をかけた先。デスクの影から、一匹の猫が、するりと姿を現した。黒地に、白い靴下を履いたような模様の猫だ。廃刊のどさくさで、誰も引き取り手のいなかった、編集部の飼い猫だった。

ソックスは、武田の足元にすり寄り、喉を鳴らした。武田は、その背中を優しく撫でながら、誰に言うでもなく、静かに語り始めた。

「お前だけだな。最初から最後まで見ていたのは」

彼は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、一つの音声ファイルを開いた。一年前の、田所の独白だった。彼はまるでクラシック音楽でも聴くかのように、うっとりと目を閉じて聴いている。

「チンケな悪党だったな、田所は。だけど俺の物語の登場人物としては、実に優秀な道化だった。もうちょっとわきまえてくれたら、まだ一緒に遊べたのにな。また田所みたいな自分が主体的に行動していると思い込んでくれるバカを探さないと。まあでも、田所がいなくても物語が勝手に動くくらい書けるようにならないとな。ドミノを並べて、俺は押すだけ」

武田はデスクにのぼったソックスをなでながら微笑んだ。その笑顔は、咲や相田に見せていたものとは別人だ。

「”正義感の強い友人役”の相田も、”聡明な女性刑事役”の長谷部も、”純粋な恋人役”の咲も、演じきってくれたよ。田所には主演男優賞をあげないとな。差し入れにでも行くか。彼らのおかげで、読者は涙し、怒り、そして私に同情した。なんと愚かで、愛おしいことか」

ソックスは目を閉じている。

「俺は原作者で脚本家で監督、そして実は主人公だったってこと。ペン一本で踊らせてやったんだ。なあ、そう思うだろ。ソックスは特等席の観客だっただろ」

武田のスマホには新しい企画書のタイトルが映し出されている。

『続・あの人の、もう一つの人生』

次の「獲物」たちのリスト。人事担当者が履歴書を見るかのように一枚ずつめくっていく。一人目の名前は、もう決まっていた。 ――相田蓮。 純粋な正義感を持つ、あの元同僚の人生は、どんな「物語」になるだろうか。YouTubeに舞台を移すのも悪くない。

「早く書かないとな。まだこの世には、私が光を当てるべき不幸が、たくさん眠っているのだから」

デスクから飛び降りたソックスは尻尾をピンと立てた。

(了)

#創作大賞2025 #ホラー小説部門

いいなと思ったら応援しよう!