N1から......逃げちゃダメ!
日本語能力試験のN1の資格を取ったのは、実は割と最近のことでした。
でも日本語から台湾華語に訳す仕事を本格的に始めたのは、そのずっと前です。
当時はフリーランスで、ある台湾の出版社からライターや英語→台湾華語の翻訳の仕事をちょこちょこもらっていました。
きっかけはもうはっきり覚えていませんが、その出版社の編集者さんとも知り合いでした。当時の僕は、すぐ終わってしまった無名な雑誌で、一度だけ日本語の文章を翻訳した経験がありました。
それで、その出版社で仕事の打ち合わせが終わる頃、ちょっと調子に乗って半分冗談みたいな感じで、
「日本語できるよ。日本語翻訳の仕事があったら呼んでね」
みたいなことを言ったんです。
そしたら後日、その出版社からメールでトライアルが送られてきて、そのまま合格して、日本語の本を翻訳する仕事を始めることになりました。
言語学系の出身でもありませんし、日本語学校に通ったこともありません。語学関係の資格も何一つ持っていませんでした。
それでも出版社は僕を信用して翻訳の仕事を任せてくれました。
昔から試験が苦手で、プレッシャーに弱くて、緊張しすぎて失敗した経験もたくさんあります。
それに、「資格も学歴もないのに訳者になった自分のほうがかっこいい」なんて少し勘違いしていた時期もあったので、長い間、資格を取ることには全く興味が湧きませんでした。
でも、いろいろな事情で出版社とのつながりがほとんどなくなり、日本語関連の仕事もだんだん減っていきました。
もっと日本語を生かしてみたいな。知り合いの出版社以外の仕事も探してみよう。国際的なサイトで直接日本の仕事も探してみよう。
そう思って検索してみたら、自分の甘さに気付きました。
台湾でも日本でも、日本語関連の求人は、学歴不問と書いてあっても、N1の資格だけはほぼ必須条件だったんです。
「じゃあ、もう取るしかない」
そう思って、焦りながら受験の申し込みをしました。
事前にネットで過去問を解いてみたら正解率は80%くらい。
試験は50%ちょっと取れれば合格できますから、
「じゃあ、このまま受けても受かるだろう」
そう思ってしまって、試験までまだ二か月以上あったのに、ほとんど何も勉強しませんでした。
そして試験まであと二週間になって、やっと
「わかったわかった、勉強すればいいんだろ」
みたいな気持ちで動き出して、ネットで慣用句なんかを覚え始めたんです。
「えっ、こういう日本語あったの? なんで今まで知らなかった?」
と思うこともありましたが、それでもまだ、
「まあ、これくらいなら何とかなるだろう」
と思っていました。
そして試験当日。
自信があったのか、余裕があるふりをしていたのか、自分でもよく分かりませんが、受験票と鉛筆と消しゴムくらいしか持たず、そのまま試験会場へ向かいました。
むしろ焦らなさ過ぎて、普段かけている眼鏡まで家に忘れました。
会場に着くと、大学生くらいの人たちが教材を片手に最後の復習をしていました。
まるで大学受験の会場みたいな雰囲気です。
「うそ、僕N1なめてたの?」
その時になって初めて、本気で緊張しました。
試験が始まると、「本当にN1を受けてるんだ」という実感がだんだん湧いてきました。
それで読解では一瞬パニックになりました。しかも眼鏡を忘れていたので、文字も普段より読みづらくて、全然頭に入らなくなりました。
何とか落ち着きを取り戻して解き始めましたが、気付けばかなり時間をロスしていました。
最後は時間に追われながら、慌てて問題を解き切りました。
そして聴解ではさらに最悪でした。
家で過去問を解いていた時は、分からなければ音声を何回も聞き直していました。
でも本番では当然そんなことはできません。
「……あ、リピートないんだ。」
そこでまた頭が真っ白になりました。
試験が終わった直後は、
「まあ、予想通り順調ではなかったけど、一応合格は大丈夫だろう」
くらいに思っていました。
でも時間がたつにつれて、
「落ちるわけないだろう……いや、もしかして……」
と、だんだん不安になっていきました。
ネットで先に結果を確認できましたが、怖くて見ることができませんでした。
そして後日、やっと、そのホーリーグレイルが家に届きました、
N1の合格証明書です。
成績は本当にギリギリでしたが、まあ、合格は合格でした。
本当にほっとしました。
日本語はここ数年、自分にとって一番得意なことだと思っていましたし、すでに仕事にもしていました。
だから、ようやく自分でも納得できたんです。
過去の自分にも胸を張って、
「お前、間違いなくできるんだ。僕がそれを証明した。」
そう言えるようになりました。
N1を取ったことで自信もついて、国際的な求人サイトにも日本語のプロフィールを作りました。
「これからはもっと積極的に日本の仕事を取りに行こう。」
そう思っていたら、日本の会社二社からスカウトが来て、どちらもトライアルに合格し、採用予定だと伝えられました。
……でも、なぜかその後は二社とも連絡が来なくなりました。
理由は今でも分かりません。
それでも、せっかくN1を取ったんですから、どうしてもこれを生かしたい気持ちはまだあります。
いつかちゃんと日本の仕事につながればいいなと思っています。
親戚や友達から、
「独学で一発でN1取ったんだよね? すごい! 試験難しいだろう?どうやって勉強したの?」
と聞かれることがときどきあります。
そんな時、僕はいつもこう答えます。
「試験?
ただ手続きをして、自分の忘れ物を取り返しただけさ。」
