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博士課程で、恥を捨てて恥をかく

博士課程にいると、自分の実力のなさに情けなくなる瞬間がある。周りは賢い。発表はキレキレで、議論は深いし、英語も流暢で、論文もどんどん通していく。


自分だけが、いつも一歩も二歩も遅れているような感覚になる。自分の場合、学部や修士ではそれなりにうまくやれていたのに、博士課程に入った途端、急に「平均以下の人間」になった気がしたものである。


そこにSNSが追い打ちをかける。LinkedInを開けば、同期が大型奨学金を獲得したと報告している。Xを開けば、国際学会での発表やトップジャーナル掲載の知らせが流れてくる。心のどこかがじわっと削られていく。比較なんてしても意味がないと分かっていても、どうしても比べてしまう。


こういう環境にいると、自然と保身に走りたくなる。できることだけをやる。得意なテーマから出ない。失敗しそうな挑戦は避ける。自分の弱さや未熟さは隠す。恥をかかないように、なるべく安全なルートを選ぶ。それはある意味、とても人間らしい反応だと思う。


一方で、博士課程は短期決戦ではなく、持久戦である。しかもかなり長い。奨学金を一つ逃したからといって終わりではないし、論文がリジェクトされたからといって即退場でもない。極端な話、途中で何度負けてもいい。最後に博士号を取り切れば、それでゲームは終わる。博士課程の本質は、「最後まで立っていること」なのだと思う。


だからこそ、「恥を捨てて恥をかく」という態度が、意外と効いてくる。分からないことは分からないと言う。レベルが足りないなら、今は足りないと認める。論文が落ちたら、落ちたと書く。うまくいっていないなら、うまくいっていないとそのまま出す。優秀なふりをしない。取り繕わない。自分が負けている局面を隠さない。


不思議なことに、こういう人のほうが結果的に伸びる。なぜかというと、挑戦回数が増えるからだ。恥をかくことを前提にしている人は、とりあえず出すし、とりあえず聞くし、とりあえず見せる。


打率は低いかもしれない。でも打席数は圧倒的に多い。博士課程はホームラン競争ではなく、打席に立ち続けられるかどうかのゲームに近い。


よく、「ブルーオーシャンで戦え」と言われる。周りより優位に立てる環境で戦うのが合理的だ、というのは確かに正しい。でも一方で、周りに勝てない環境であえて揉まれるのも、悪くないと思う。常に自分より強い人がいる場所。毎週、自分の未熟さを突きつけられる場所。しんどいけれど、そのぶん密度が高い。


劣等感はつらい。でも、劣等感を感じられるということは、それだけレベルの高い環境にいるということでもある。傷つくたびに、「ああ、自分は今、本気でやっているんだな」と思える瞬間がある。ぬるま湯では味わえない種類の痛みがあるし、その痛みは意外と悪くないと思う。


博士課程で本当に怖いのは、奨学金に落ちることでも、論文が通らないことでもなく、静かに自分から降りてしまうことだと思う。少しずつ挑戦をやめて、少しずつ発言を減らして、少しずつ存在感を消していくことである。だからこそ、恥をかきながらでもいいから、居座り続ける。死ぬこと以外はかすり傷くらいの気持ちで原稿を一行でも書く。


博士号は、「一番すごい人」に与えられる称号というより、「最後までやり切った人」に与えられる資格に近い。だったら、多少負けていようが、みっともなかろうが、関係ない。恥を捨てて、恥をかいて、それでも立っている。博士課程は、その繰り返しで十分戦える。


傷つくことを恐れず、むしろ少しだけ楽しんでみる。「今日もボコボコにされた、でもまだここにいる」というくらいでいいのだと思う。肩の力を抜こう。

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