夏の音|風まかせ文芸部
あの頃の私にとって、夏の音とは湖畔に浮かぶボートを漕ぐ音だった。
まだ朝焼けの残る空の下。
薄い霧が漂う水面を滑るボート。
カタン、カタン、とオールを漕ぐリズムを聞きながら、父の鞄を守るように抱え直した。
父はよく写真を撮る人だった。
夏休みに祖父母の家に帰省すると、夜明けと共に起き出して湖畔の景色を撮っていた。
幼い自分にはその姿が何故だかとても羨ましくて、無理に早起きをして一緒に連れていってもらった記憶がある。
特にやることはない。ボートが停まるまでカメラが入った鞄を抱え、父が写真を撮る間は静かに景色を眺める。
青と橙の混ざる空と、鏡のような湖面。
その淡いにいる時間が好きだった。
あの頃は理由が分からなかったが、あれはきっと、美しいものに名状しがたい感銘を受けるという感覚だったのだと思う。
やがて祖父母が亡くなり、家は取り壊された。
それと同時に、あのボートも年季が入っているのでもうそろそろ、と処分したらしい。
定年退職を迎えた父は相変わらず写真を撮っていて、あの湖畔へ足を運ぶこともある。
この頃は写真撮影に着いていくこともなくなったが、父の写真を見せてもらうことは増えた。
確かめたことはないが、父もボートに乗ったときのことを覚えてくれているのかもしれない。
一枚、また一枚と眺めていく。
そこには変わってしまったものも、変わらないものも、分け隔てなくそこにある風景として写し出されていた。
祖父母の家の跡地。
桟橋だけが残る岸辺。
青と橙の混ざる空。
目を閉じれば、あの音が聞こえてくる。
薄い霧が漂う水面。カタン、カタン、とオールを漕ぐリズム。
空と湖面の淡いは、今も変わらずそこにある。
本記事は、こちらのお題に参加しています。
今回が初めての参加になります。
次のお題が発表されていますが、せっかく書いたのでこっそり置かせてもらおうと思います。
