極彩色のプラズマ

図工の成績は、あまり良くなかった。
絵や工作は好きだ。だけど自由課題で「自分の考えた世界を表現しなさい」といわれると、途端に困ってしまう。

図工の総合評価はいつも五段階中の三。
それ以上をとったことはない。
通知表によれば『知識・学習態度』に優れていても『思考・表現力』は平均かそれ以下。
真面目で知識はあるけれど表現力に乏しい。
それが小学生のときの私の評価。

おそらく当時の私は、自分の世界を表現することに対して強い苦手意識があったのだと思う。
それに加えて「こういうものを作りたい」という創作意欲もあまりなかった。
絵を描くときはお手本を見ながら描いていたし、塗り絵は「好きな色で塗っていい」と言われても実物の色を確認しながら塗っていた。
もしかしたら、誰かに「それ変だよ」と言われることが怖かったのかもしれない。

表現することが苦手な反面、アートや創作物に関しては拙いながらも興味をもっていた。
怖さはあったが、その先に楽しさがあることにも気付いていたのだと思う。
小説や漫画が好きで、暇さえあれば読んでいた。ふとしたときに一人でぼんやり考え事をすることも多く、空想だって好きだった。
それでもどうしてか、頭の中で題材を考えようとすると、何も浮かんでこなくなる。空想の輪郭は真っ白な霧に覆われて何も見えない。

私の中には何もないのだな。

そこに悲嘆はなかった。
何もないなら好きなものを入れよう。
私は自分がつくった世界ではなく、誰かが描いた物語の世界を楽しむことにしたのだ。

本はさまざまな景色を見せてくれた。
心おどる冒険譚、胸が締めつけられるような恋物語、たくさんの人の思惑が錯綜する群像劇。
世の中にはこんなに面白い話を考えられる人がたくさんいる。きっとこの人たちの頭の中は特別で、自分がどれだけ努力しても同じようにはできない。
だから私はこれからもずっと受け取る側の人間で、表現する側には立たないのだと、当たり前のように考えていた。
そんな人間が、今ではこうしてインターネットの片隅で文章を書いているのだから、人生というものは何があるのか分からない。

転機は突然訪れる。
井上直久さんが描いた『水を渡って見た店』に出会った日だ。
中学二年生の秋。イチョウが色づき、校庭のそこかしこに黄色い葉が舞う頃。
美術部に所属していた私は、風景画の題材を探していた。その年の文化祭に何を出展しようか悩んでいたのだ。
校舎の絵は昨年描いた。毎年同じものは顧問が許してくれないだろう。とはいえ、贅沢もいっていられないのが現実だ。

このあいだの美術の授業はさんざんだった。
『扉を開けた先の世界』なんて、想像が苦手な人間にとって何よりも苦手な課題じゃないか。
考えても浮かんでくるのは平凡な景色ばかり。
苦肉の策で、資料集からどこか外国の風景を選んで模写した。
「風景画もいいんだけどね」と何か言いたげな教師の顔を思い出し、また落ち込む。

私だって目の覚めるような絵を描いてみたい。でも、どうしても、自分だけの世界観というものが分からないのだ。今の自分には、個性とよべるものがどこを探しても見つからない。

このときの葛藤は、おそらく思春期特有の悩みにも通ずるものがあったのだと思う。
他者との違いを意識して、自分とは何なのかと自問自答を繰り返す。そんなことを繰り返していたら憂鬱にもなるだろう。
三十路を迎えた今でさえ、私は自分の表現というものに悩みつづけているというのに。

無意識に抱え込んだ澱みを押し込め、本屋をとぼとぼ歩いていた。暗い気分とは裏腹に、旅行雑誌やレシピ本のコーナーは行楽シーズンを謳歌するように賑わっている。
せめて何か参考になるものを見つけたい。
ふと前方の棚にある、一冊のイラスト雑誌が目を引いた。好きなイラストレーターの絵が表紙を飾っている。
吸い寄せられるように手に取った。
イラストの制作過程を解説した特集が組まれている。下書きや構図、色の塗り方。一筆ごとに感性が込められていて、眺めているだけでわくわくした。
先ほどまでの憂鬱を忘れて作品に見入る。
そして次のページをひらいたとき。
見開きいっぱいに広がる不思議な景色から目が離せなくなった。

『水を渡って見た店』

なんだこれ。どうやって描いてるんだ。
食い入るように制作過程を追った。
夕暮れの空。柔らかい光がもれる建造物。水辺に並んだ夜店を眺める少女。
見れば見るほど幻想的な描き方だ。
絵を描いたのは、画家の井上直久さん。
ジブリ映画『耳をすませば』で挿話美術を担当していた方だ。
雑誌に掲載されていた『水を渡って見た店』は、彼の心象風景画「イバラード」シリーズの一枚だと、後に知った。

色とりどりの商品が並ぶ店内には、不思議なものがたくさんある。
丸いガラスに覆われた鉢植えに見えるもの。
色とりどりの多肉植物のようなもの。
天井から吊り下げられた、飛行機模型と思われるもの。
朧気な輪郭の幻想が極彩色の羽衣をまとって、一枚の絵として調和していた。

絵ってこんなに自由でいいんだ。

バチン、と頭の中で火花が散るような感覚。
それは、まるで遥か彼方からやってきた交信を受け取ったかのように。
まばゆいプラズマに撃ち抜かれたかのように。
頭の中に沸きあがる色、色彩、光彩。
息をすることさえ忘れそうになる。

描きたい。
このイメージを。
いますぐに。
でもどうやって?
まだ輪郭も定まっていないのに。
どこにどう線を引けばいい?
この状態で何を描くというのか。

うるさい、描きながら考えるんだよ。

肩を掴んでくる声を振りきって手を伸ばす。
無我夢中だった。もう一瞬だって他のことは考えたくなかった。
早足で会計を済ませ、バスに飛び乗る。
びゅう、と落ち葉を散らす風の冷たさにも構っていられない。
最寄りの停留所に着くまでの間、穴が空くほど雑誌を見つめていた。何なら軽い乗り物酔いになってしまって少し気持ち悪い。
それでも雑誌は閉じられなかった。
頭の中でちかちかと明滅しては動き回る色彩から目を離してはいけないと、それだけを考えて空想のしっぽを追いつづけた。

やっとのことで自室の机の上。
待ってましたとばかりにノートを広げると、かつてないほどの速さで下絵を完成させた。
今まで書いたことがないような大胆な線。
瑠璃色の空に、でたらめな大きさの星が瞬く。
捻れた塔が聳え、色とりどりの花が光を放つ。
拙いながらも、眺めていると得も言われぬ達成感が満ちてくる。
それは私の中で塞き止められていた空想が一つの形になった、初めての心象風景画。架空の庭の絵だった。

今にして考えても、井上直久さんの絵は確かに転機をもたらした。
あの日から頭と心の回線がかちりと繋がったような感覚がある。ケーブルの接触がよくなって通信が途切れなくなったような。心に宿る空想を脳内に取り込んで出力するような感覚だ。
苦手だった自由課題を前にしても、自然に描きたいものが浮かんでくる。
以前とは比べ物にならないくらい美術の授業が楽しくなった。

極彩色のプラズマが与えた衝撃と影響は計り知れない。
私はあの日まで、絵はどこに何があるのかはっきり描くものだと思い込んでいた。
物がその場所にある理由付けをすることで、物語を感じる絵になると考えていたのだ。
要するに、私にとって絵は細かく書き込めば書き込むほどいいものだった。
確かにそうした手法もある。
ぎっしりと描き込まれた一枚絵を前に圧倒されたことは何度もあった。そうした絵の細部を観察して制作者の遊び心を見つけたときの高揚感もひとしおだ。

しかしながら、一つの技法がいつの時代のどんな人々にも「唯一絶対のもの」と考えられていたわけではない。
美術史を見れば、ロマン主義から写実主義へ。
やがて世を賑わしたモネやルノワールに代表される印象派。後の世で稀代の画家として名を残しているゴッホ。
その他にも表現方法は多岐にわたっている。

井上さんの描き方は、例えるなら印象派に近いように感じた。
制作者の心象風景を重ねて描くことで、その人物の価値観や物の見え方が浮き彫りになる。
創作に於いては、それが個性といわれるのかもしれない。
文章も同じだと思う。
私にとって、文章も絵もさほど違いはない。
どちらにも同じ性質があると考えるからだ。
たとえば絵を描くとき、構図を考えて色を決めるのは、それが描きたい世界を構成するものだからではないか。
一方で文章を書くとき、文体を整えて並べる言葉を選ぶのは、それらが揃うことで立ち上がる世界があるからではないか。
制作者が選んで積み上げたものが作品の世界観になる。それはどの表現も同じだ。

敢えて違うところをあげるなら、文章は読者ひとりひとりの心に、読んだ人だけの景色を映すことができる。
同じ文章を読んでいるのに、赤い夕日も青い海も、読む人の心象でまったく違う色合いの風景になる。
その文章がもつ余白の広さに気付いたとき、無限の遊び道具を手に入れたように感じて心が躍った。書くってこんな楽しみがあるのか、と。

絵と文章、どちらがより優れているとも思っていない。線や言葉を選ぶまでの過程には、同じだけの表現の重さが乗っている。
文章を選んだのは、余白の中で遊ぶことが楽しくて仕方なかったからだ。
得意科目は国語。本を読むことが好きだったので、自分でも書いてみよう、と考えるまでにあまり時間はかからなかった。
もちろん絵を描くための場所や道具の問題も、高校進学にともなって時間の制約が増えたことも理由の一つである。

それに先ほどから「自分はインスピレーションに溢れた人間だ」と誇張しているようで、どうにもむず痒い。
イメージを出力することに抵抗がなくなったとはいえ、書けないときは書けないし、アイデアがまるで浮かばない日も多い。
やっと浮かんできたアイデアにも「これはほんとうに面白いのか?」と手が止まる。
躓いてつっかえながら、何とか言葉を紡いでいるような人間なのだ。

だから立ち止まってしまったときは、えいやと日々の生活に身を委ねて、何かが心に留まるのを待つことにしている。
何日も書きたい文章が浮かばないと、じりじりとして落ち着かないけれど。
だけど焦りがあるのなら、まだ文章を書きつづけられるとも思うのだ。
どうして私は文章を書くのか。
どうして書けなくて焦るのか。
それは「文章を書けば楽しいことがある」と知っているからだ。書けなくて焦るのは、文章を書いたあとの「楽しいこと」に早く参加したいからではないかと思う。

自分の世界をつくること。
似た題材の作品に親近感をおぼえること。
偶然繋がった縁をきっかけに交流できること。
着地点は個々人によって違う。
仕事で書いているのか、趣味で書いているのか、事情も異なる。

あの極彩色のプラズマが焼きつけたのは、頭の中にある世界を表現する楽しさ。
それは技術の良し悪しに関わらず、もがきつづけた先に見つけた大切な道しるべだ。
書きかけの原稿用紙を照らす、茜色の夕日。
無情にも進みつづける時計の針。
胸の内にはまだ焦燥感がある。
私はこのざわめきの根っこにある、表現することへの期待や憧れを灯火にして、自分の言葉で世界をつくっていきたい。
どれだけ立ち止まっても転んでも、それは次の楽しさに続いているのだから。
私の道も、あなたの道も。



本記事はこちらの企画に参加しています。

初めて応募させていただきます。
自身の経験と照らし合わせて、私なりにアートと表現について考える機会となりました。
この文章が誰かの背中を押すエールになれていましたら幸いです。
企画いただきありがとうございました。

◇補足◇
X(旧Twitter)のフォローについてですが、私自身「さばく」名義のアカウントを持っておらず、また現在使っているアカウントは創作と関係のない繋がりが多いため、noteでの特定防止の観点からフォローを控えております。
そのため応募条件を満たしていないと判断された場合も、こちらから異議は申し立てません。
宜しくお願いいたします。


いいなと思ったら応援しよう!