街コンで出会った夫を最後まで信用できなかった話
なるほど、こいつは既婚者だ。
出会ってすぐに確信した。
既婚者でなければカノジョ持ち。こんなに明るくて話しやすいオタクがいるものか。
胸中で吐き捨てて、勢いよく目の前のコーヒーを飲み干した。よかろう、ならば手加減無用。対面に座る男性を見据え、口を開く。
「わたしの常駐ジャンル、これなんだけどさ」
自己紹介カードを掲げて笑ってみせた。
どうせ二度と会うこともないのだ。ここから先は好きにやらせてもらおう。
のちに夫となる人物との出会いは、強烈な不信感とともにやってきた。
「今後のことをお互いに考えたい」
元彼にそう切り出されたのが二年前。二十四歳の冬だった。
なにが『お互いに』だ。
わたしが考えることなど一つもない。そっちが悪者になりたくなくて、自然消滅させようとしているだけだろう。
案の定というのか、その半年後、音信不通になった元彼は他の女と結婚した。
それを知り合いづてに聞かされたとき、男の言うことなどサンタの存在より信用ならないと思った。
絶対にゆるさねえ。末代まで祟ってやる。
自尊心を八つ裂きにされたわたしは、呪詛を吐き続ける地縛霊のようだった。煮えたぎる黒い粘性の怒りがのたうつ。
こうなったら、おまえに使わなくてよくなったもの、全部わたしに使ってやる。
地を這う闘志で立ち上がった。もはや執念のようなものだった。
そうしてお洒落や美容に金と時間を費やし、ようやくその辺りをただよう幽霊ぐらいの存在になれたところへ、職場の先輩が声をかけてくれたのだ。
「さばくちゃん、オタク限定の街コンがあるんだよ」
「先輩、無茶を言わないでくださいよ。オタクが街コンで喋れるわけないじゃないですか」
ひどい言い掛かりである。
「いいから行ってみなよ。千円で結構いいランチが食べられると思ったら安いでしょ?」
先輩の言いぐさも大概なものだが、たしかに興味もあった。
わたしは生まれてこのかた、合コンというものに参加したことがない。ほぼ初対面の男女が会話を交わし、親しくなることを目的に連絡先を交換する。その取引で成立した関係とはどういうものなのだろう。
その感興に背中を押されるようにして、わたしはスマホの画面をタップした。
『参加希望の方はこちらのフォームをご利用ください』。
送信ボタンを押すと、申し込み完了のメールはすぐに来た。
そうして出会ったのが冒頭の男性であり、現在の夫だ。典型的な現代のオタクが集まる会場で、肩の力を抜いて朗らかに話す彼は異彩を放っていた。
だが関係ない。今しがた、この男とは二度と会わないのだと思ったばかりだろう。
気後れする心を奮い立たせ、丁々発止とやりとりをしてのけた。あの時ほど調子良く喋り続けられたことは、後にも先にも覚えがない。
思ったより盛り上がったなぁ。
帰宅したわたしは、意外な手応えに少々戸惑っていた。
二度と会わないつもりなのに。それなのに、楽しくお話をしてしまった。
二次会を断って帰ってきたので、時刻はまだ午後六時を過ぎたばかりだ。八月下旬の窓の外は、ぬるくて明るい薄闇に染まっていた。今頃、二次会組はカラオケに行っているはず。たしか彼も参加すると言っていた。
何だか落ち着かない。
ひとまず連絡先を交換した人に簡単なお礼を送った。あくまでも、立つ鳥跡を濁さず、の精神である。
いくつか返ってきたメッセージに既読をつけ、ぼけっと画面を眺める。その画面上部に新たなメッセージ通知が舞い込んで、わたしは思わず息を呑んだ。
送信者は彼だった。
また会えないか、とのことだった。
いや、どうせチョロそうだと思ったから声を掛けたんだろ? わかってるんだからな?
つま先立ちした心を押し戻す。ふざけるなよ、余裕ぶりやがって。内心で毒づいた。
言い掛かりもここまでくると滑稽である。
ふと、そこで考え直した。
そもそも街コンで連絡先を交換したのだ。同時進行でやりとりしている女性は他にもいるはず。
軽い気持ちで会うなら今だ。これは彼の人となりを探るチャンスなのかもしれない。
意気揚々とスマホをタップする。
いいよ、受けて立とうじゃないか。尻尾を出せばその場でさよならしてやろう。
メッセージに空いている日時を返す。気分はさながら、不義の証拠を掴もうとする探偵のようだった。
また盛り上がって帰ってきてしまった。
ベッドに腰掛け、スマホに届いたメッセージを呆然と読み返す。
『楽しかった! また遊ぼう!』
何なんだ。
何なんだ、あいつは。
本当にオタクだったぞ。
アニメやゲームの話はもちろん、深夜ラジオの話にもついてきた。認めざるをえない。
だがオタクだからといって、すべての疑いが晴れたわけでもない。まだコミュニケーション能力の高いオタク(既婚者)という可能性も捨てきれないのだ。
不信感を抱えたまま何度か会った。
でも会えば会うほど、強い気持ちで疑えなくなっていく。
店員への態度が柔らかい。
話し方がおっとりしている。
いくら話しても話題が尽きない。
工場勤めだという彼とは既に、仕事終わりに一通だけメッセージを送りあう仲になっていた。
会えば楽しい。でも気持ちを明け渡してまた裏切られたくない。あちらもデートに誘ってくるくせに一向に告白してこない。何かあるに決まっている。
一進一退の攻防が続いていた。
まだ彼への気持ちがわからないふりをしていたかった。
「付き合いたいんだけど」
告白されたのは、彼への猜疑心と親近感の間で頭がおかしくなりそうなときだった。
この時点で出会って三ヶ月ほど経過していたのだが、彼から他人の陰口を聞いたことは一度もなかった。のんびりした性格で、わたしを決して小馬鹿にしない。待ち合わせで会ったとき、嬉しそうに見える。
「さばくちゃん、最初に会ったときオタクなのか分かんなかったよ」
おまえは何を見ていたんだ。オタクじゃなければ、目を輝かせてアイドルマスターの話なんてしないだろ。
だが、それも演技だと一蹴してしまえばそれまでだと思っていた。
そんな状況で、とうとう告白された。
どうする? なんて返す?
彼から言ってきたということは、なかなか信用に足るものではないか?
いやいやまだ何があるかわからないだろう。
心の綱引きが永遠に終わらない。
「……よろしくお願いします」
さんざん考えた末にそう返した自分の顔は、さぞ間抜けだったことだろう。返事を聞いた彼は嬉しそうに笑っていた。
そうは言っても、わたしにだって一欠片くらいの乙女心は残っている。
告白されれば嬉しい。だがその反面、根強く疑いたい気持ちも否定しきれない。
自然消滅したうえに別の女と結婚しやがった元彼とは、四年も付き合った末に、そのような結果になった。
人の心なんて本当のところは本人にしかわからない。浜崎あゆみも『appears』でそのようなことを歌っていた。笑っていても、いつかは手のひらを返されるかもしれない。
付き合うことにしたというのに、まだこのざまだ。堂々巡りを続けたわたしは、ついに考えることをやめた。
もういいや。
だって自分はまだ二十六歳だ。自分を地縛霊からその辺の幽霊まで浄化させた実績もある。この際、既婚者でなければもう少し彼と遊んでもいいかもしれない。
スマホを放り、ベッドに大の字で寝転がった。吸い込んだ空気が清々しかった。
ここまで失礼極まりない恋人も珍しいものである。
付き合って半年ほど経った頃、わたしの中で風向きが変わった。
彼のご両親と会うことになったのだ。
「この子と付き合ってるって紹介したいだけだよ」
彼のその言葉通り、和やかな雰囲気で食事会は終わった。とても楽しい席だった。
結婚した今だからいえることでもあるのだが、このときの彼はしっかりと将来を見据えていたのだと思う。
一方で、わたしはまだ逃げ道を探していた。
既婚者である可能性はなくなった。カノジョ持ちである可能性もゼロに近い。
でもご両親に会ったからといって安心もできない。その気があるように見せておいて、結婚する気などさらさらないかもしれないじゃないか。
だけど、本当は気づいていた。
何かするとき、彼が必ずわたしの意思を確認してくれること。料理を作れば、美味しく出来た方を取り分けてくれること。世間ではおそらくそれを『大事にされている』というのであろうこと。
それでもなお、わたしにとって自分の気持ちを預けることは、実の親に昔描いたイラストを見せるより困難だった。
八つ裂きにされた自尊心は、そう簡単に縫い合わせられない。
付き合いはじめて一年が過ぎ、ついにその時はやってきた。
「大事な話があるんだけど」
ソファでくつろいでいたところにそう切り出され、思わず唾を飲み込んだ。
ほらきた。何か言わないといけないことができたんだろう。
同じようなノリで別れ話を切り出された経験が、瞬時にわたしを卑屈にさせた。
緊張した面持ちで彼が口を開く。
身を固くして衝撃に備える。
彼の声は少し震えていた。
「俺は結婚したいんだけど、さばくちゃんはどう思ってる?」
沈黙。瞬き。ぽかんと口を開けるわたし。
この人は何を言っているんだ?
咄嗟に理解できなかった。彼は黙って返事を待っている。
その真剣な目を見て、プロポーズされたのだとようやく理解した。
かつての思考が脳裏を駆け巡る。
「全部、演技かもしれない」
「いつか手のひらを返されるかもしれない」
「結婚する気などさらさらないかもしれない」
今まで延々と繰り返していたのは、自分が傷つかないための言い訳だ。
あっという間に毒気が抜けていく。
もう一度、彼の目を見た。
返事をしよう。
でも何を言えばいいのだろう。
嬉しい? 好き?
ちがう、そうじゃない。
わたしが言うべきなのは、ラベリングされた感情ではなくて、彼の言葉をどう思ったのか、だ。
脳を限界まで稼働させて考えた。何のために本を読んできたのだ。こんなときにかぎって何一つ捻り出せない。
やがて口から出てきたのは、プロポーズの返事にしては頼りないものだった。
「……わたしもそうなったらいいなって思ってる」
それを聞いて、彼はまた嬉しそうに笑った。
