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1972年の荒野と都市の記号化 — キャロル・キング、ソウル・ミュージック、そしてポール・オースターにおける「自我と身体性の喪失」に関する考察


■要旨(Abstract)

現代社会における「アバター(仮想の自我)」の暴走と、公共的空間における実体・身体性の希薄化を起点とし、ポール・オースターの都市文学が提示した不条理を検証する。
1972年ニューヨークという「整理された格子状の荒野」において、無機質な構造(システム)に対する唯一の抗いとなったのは、キャロル・キングの
私的告白とブラックミュージック(ソウル)の持つ「ブルーノートスケール」の融合であった。
人間が自らの歴史や体に刻まれた固有の感性を失ったとき、いかに容易に存在を消失させるかを、文化史・人間論の交差点から考察する。

■序論:現代の都市空間における「アバターの肥大」と身体の透明化

都市、あるいは無機質な共有空間において散見される現代人の振る舞いは、ある種の特異な相貌を呈している。
流行り廃りはあるのだろうが、昨今のファッションを見るに全身を無彩色である「黒」で覆い、個性を抹消しながら背景へと同化する一方で、スマートフォンをはじめとするデジタルデバイスの画面越し(SNSやライブ配信)では、極彩色のアバター(仮想の自我)として暴走を繰り広げる。
このような現代的現象は、単なるマナーやモラルの欠如にとどまらない。
かつて社会生活とは、実体としての「人間(プレイヤー)」が現実世界に足場を固めた上で、社会というゲーム盤へ役割としての「仮面(アバター)」を送り出す健全な構造を持っていた。
社会に出るという事は、外向けの”もう一人の自分”を作り育て構築するという事なのだ。
しかしインターネットが高度に発達した現代においては主客が完全に逆転している。
承認欲求やアルゴリズムに駆動された仮想空間のアバターを維持するため、生身の肉体とその存在感が「他者の視線」や「公共空間(公)」から遮断され、放置されているのである。
結果として、現実世界における自身の身体(ドアの前を塞ぐケツ、所かまわず自撮り棒を持ち歩く街中の立ち振る舞い)は死角となり、人間は実体を持たない漂流物へと化していく。

■本論1:ポール・オースターの予言 —「名前」と実体喪失のメカニズム

この「自己の記号化と消失」というテーマを、すでに1980年代の段階で鋭利に予言していたのが作家ポール・オースターである。
ニューヨーク・トリロジー』においてオースターが提示した真の恐怖と
は、単に他人の物語に巻き込まれることではなく、不意に出くわした「トピックス(偶発的な役割)」に没入するあまり、本来の生身の自分を見失い、最終的に自らの固有名詞(名前)すら失って暗闇へ消えていく不条理であった。現代におけるハンドルネームやキャラクター化もまた、一見すると自己表現の多様化に見えながら、その実態は「個の記号化」に過ぎない。
本名を覆い隠し、不特定多数の視線に合わせて自分を変形させていくプロセスは、現実の足場を摩滅させる。
画面を閉じ、アバターの皮を剥ぎ取ったときに残るのは、確固たる自分ではなく「何もない空っぽの肉体」である。
オースターの描いた「自分を見失う恐怖」は、いまや都市の路地裏でスマホを握りしめるすべての現代人に適用される日常の怪異となった。

■本論2:1972年ニューヨーク — 格子目(グリッド)という名の整理された荒野

オースターの舞台となったニューヨーク(N.Y.)という都市は、洗練された世界経済・カルチャーの頂点という華やかな「アバター」を掲げながら、その実態はクリント・イーストウッドの西部劇のごとき「法も秩序もない殺伐とした荒野」でもあった。
とりわけ1972年のニューヨークにおいて、この構造は頂点に達していた。
アメリカの新興都市固有の格子状(グリッド)の道路網は、一見すると極めて人工的かつ機能的に整理されている。
しかし、1st Avenueから2nd Avenueへというわずかワンブロックの境界線を越えた瞬間、安全な日常から犯罪と荒廃の異世界へと垂直に突き落とされる。
定規で引かれた無機質な数字の街区は、人間の温かみや歴史を一切寄せ付けない「記号の集合体」であり、その冷酷な構造は、摩天楼のガラスとコンクリートで築かれた「立体的な荒野」にほかならない。
大都会から南部の土埃舞う田舎まで、アメリカという風土の根底にはすべからく「身を守る術を失えば一瞬で飲み込まれる無情な荒野(ウェスタン)」が広がっているのである。

■本論3:血を通わせた響き — キャロル・キングとソウルの融合(1971–1972)

しかし、この無機質で冷酷な1972年のアメリカの荒野に、突如として「人間の血」と「生のぬくもり」を吹き込んだ奇跡の瞬間が存在した。
それこそが、キャロル・キングとブラックミュージック(ソウル)による、文化や人種を超えた音楽的共鳴である。
60年代のポップス工場(ブリル・ビルディング)でヒット曲を量産する「記号的ソングライター」であったキャロル・キングは、自身の波乱の人生(結婚、離婚、自己喪失)と向き合い、西海岸で自らのピアノと素朴な声でアルバム『Tapestry(つづれおり)』を紡ぎ出した。
彼女が自室のピアノで吐き出した私的なつぶやきや痛みの告白(『You've Got a Friend』『It's Too Late』等)は、大げさな政治スローガンではなく、「手のひらのぬくもり」というおとぎ話として荒野に放たれた。
そして驚くべきは、1972年前後において、アイズレイ・ブラザーズ、ダニー・ハサウェイ、ビリー・ポール、スタイリスティックスといった黒人アーティストたちが、こぞって彼女の楽曲を自らの血肉としてカバーした点である。

奴隷制の残酷な歴史と悲劇の中で、自由を奪われた人々が身体に刻み込んできた魂の叫び—「ブルーノートスケール」(短3度、減5度/増4度、短7度の音程である音楽ジャンルとしてのブルーノートではなく、歴史的背景を背負った表現様式としての身体に刻まれた「ブルースの感性」)。
白人女性の個人的な告白と、黒人たちの「ブルーノート」が、ジャンルや人種、DNAの壁を易々と飛び越えて深部で共鳴したのである。
クルセイダーズが“ジャズ”という冠(記号)を外し、クロスオーバーへと向かったように、1972年の音楽家たちは社会が勝手に設定した人間と音楽の「分類(記号)」を破り捨てた。無情な都市の冷たさに対して、彼らは「痛みを抱えて生きる裸の魂」という根本の体温を提示し、世界を覆う殺伐としたルール
を本当にひっくり返してみせたのである

■結論:魂に刻まれた感性(ブルーノート)という最後の命綱

結論として、人間が「生身の自分」として存在するための最後の根拠とは、自らの歴史や身体に刻み込まれた固有の感性、すなわち個々の「ブルーノート」にほかならない。
キャロル・キングの赤裸々な告白とソウル・ミュージックの共鳴が証明したのは、どれほど世界が無情で記号化されようとも、人間が自らの痛みを真摯に感じ取り、声や音として発するとき、そこに文化やDNAを超えた確固たる実体が蘇るという事実であった
翻って現代、自らの生の感性を放棄し、仮想空間のアバターや都市のノイズ(記号)に身を委ねてしまった人間は、自ら「名前」を失い、容易に透明な影となって消滅していく。
1972年の荒野で鳴り響いた温かい音の響きと、オースターが警告した自己消失の不条理は、今まさに私たちが生きる日常の足元において、鮮烈な問いとして生き続けているのである。

キングの歌う「カナーン」とは人間が人間として、生の感情や痛みを分かち合えていた原点である