短編小説|ほどける氷像
副都心から郊外へ向かう電車に私は乗っていた。四角く切り取られた黒は濡れたように車内の光を反射している。車窓に映る私は疲弊していた。
不快さを極限までそぎ落とした女性の声がターミナル駅の名を読み上げる。それを合図に、座席で小さく丸まっていた集団が一斉に立ち上がり、ホームに排出されていった。まるで椋鳥のようだった。私はすかさず緑の座席に腰を落ち着けて、膝の上で鞄を抱え込んだ。
定期の区間を往復するだけの人生だ。今日も無機質な都会で何かをすり減らし、郊外の寝床で何かを補充するだけの暮らしだった。
足元のヒーターから吹き付ける温風が眠気を誘う。鞄を抱えたままうつらうつらしていると、隣の座席に座った女がとがった肘で私の二の腕を突き刺した。姿勢を正すが、やはり眠気には抗えない。女はハイヒールのかかとで私のつま先を踏みつけると、車両を移動してしまった。
車掌の声が最寄り駅を読み上げる。不明瞭な発音で。しかし私の身体は即座に反応し、ほとんど自動的に椅子から立ち上がった。柔らかな座面には私の存在がまだ残っていた。
改札を出ると、空気がいやに軽かった。湿度のない、とげとげしい寒気が粘膜を刺激した。
私は深く息を吸った。駅前のラーメン屋や、脇を掠める女のパーマ材の香りに混じってくすんだ匂いがした。深い冬の匂いだ。きっと雪が降る。
空は灰色に濁っている。その巨大なわたぼこりに埋め尽くされた空からはらはらと落ちてくる白は、雪だった。
アスファルトに振り落ちる白はあっという間にとけ消えた。無機質な黒が濡れひかっている。私は折り畳みの傘を差そうか迷って、結局差さなかった。
私は住宅街へ向かう生活道路をゆっくりと歩いた。
はじめは粉糖のような細かい粒子が紗幕のように視界をさえぎる程度だったのに、雪はあっという間に勢いを増して、雪の粒が風にあおられるのがはっきり見えるくらいになっていた。
私は歩いた。街灯の下に放置された自転車は白い彫刻に変わっていた。真上からそそぐ光を独り占めして、まるで美術品のようなたたずまいをしていた。
ふと振り向く。道は白く覆われていた。その上に私の足跡が波打っていた。指先が寒さで痺れているせいだと納得した。
踏みつけられた痛みはとうに上書きされてしまっていた。
家にたどり着くころには、私も一体の氷像になっていた。
玄関先で雪を払い、靴を脱ぐ。革靴に丸めた新聞紙を詰めて壁に立てかける。明日までに乾いていますように、と念を送ったが、きっと届かないことは知っていた。
スイッチを押し込むと、暖色の明りが視界を満たした。
私は靴下を脱いで洗濯機に放り込んだ。キッチンの横を抜けて居室に入る。エアコンから噴き出した温風がピンチハンガーに吊り下げられた下着を揺らしていた。うなだれた部屋用の裏起毛靴下を収穫して履くと、足先に残った他人事の温度が少し薄れたような気がした。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、カーテンを開ける。普段はいくらか人通りがあるはずだが、今日はしんと静まり返っていた。
側溝の上に薄く残った小さな足跡が、各駅停車の犬のぬくもりを感じさせる。ただそれだけだった。
私は窓を開けて、ベランダの手すりに積もった雪を指先ですくった。それは体温であっという間にほどけた。いくらか掴んで握りしめると、圧縮した分だけかたくこごって、それがなぜだか面白かった。
私はカーテンを開けたまま、ソファに横になった。
雪はまだ止む気配はない。 生活に飽和したこの街も、人生をすり減らすだけの都会にも、この雪は降っている。
それはまるで、生活を覆うための、清潔なシーツのようだった。
花澤薫様の文学賞「第二回すべて失われる者たち文芸賞」応募作品です。
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