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あの頃の「あの町」の駅前商店街

あの頃のわが町の存在感の軽さ

大阪の「JR環状線」は、大阪の都心エリアをぐるぐると循環する鉄道で、大阪の「山手線」といったところだ。大阪の環状線の「天王寺駅」は、近鉄南大阪線の「阿部野橋駅」と基本的に同じ場所にあるのだが、JRでは「天王寺駅」と呼ばれ、近鉄では「阿部野橋駅」と呼ばれている。西日本最高の高さのビルである「あべのハルカス」は、「阿部野橋駅」と「近鉄百貨店」などが一体になった複合施設ということになるのだろう。確かこの「天王寺駅」が環状線の駅で最も南に位置しているのだと思うが、「天王寺駅」をターミナルに、南へと奈良方面に延びるている郊外電車が近鉄電車で、この沿線は「近鉄南大阪線」という。
さらにこの「阿部野橋駅」から近鉄電車で数駅南の方面に行くと、「針中野」という駅がある。この駅の周辺には昔から針治療で有名な施術所があって、駅名はそうしたことに由来しているのだろう。
私の一家がこの駅前に引っ越してきたのは、私が小学校四年生の時なのだが、私が幼いこともあって、この町の特質を人に説明する言葉も見つからないほど普通の町だった。大人になってやや解説者風にいうと、大阪市内にあるが、大阪市の郊外地域といった風情の地域で、沿線から二〇〇メートルほど離れると一面の畑や田圃(たんぼ)が広がっているという感じになる。ただ子供のセンサーにはつかまりにくいが、この町の駅前には蜘蛛(くも)の巣のように地域を網羅する商店街があって、定期券を購入してまで沿線の各駅から買い物のためにこの町を訪れる主婦たちは多かった。

農村地帯が大都市に近い大きなベッドタウンに

もう少し文化論的に解説すると、農家が圧倒的に多い地域だったが、戦後一二年と落ち着いてくると、大阪都心の拠点の一つである「阿部野橋(天王寺)」から普通電車で数駅とベッドタウンとしての潜在的な価値が評価され、分かりやすく言うと農家が占めるパーセントが次第に少なくなり、都心部からサラリーマン家庭が多く移り住んできた。それに伴って、まだ高層ビルとまでは言えないが、畑の中に中層、三、四階の集合住宅があちこちに建ち始めたのだった。この町は、確かにこれといった特徴はないが、私にとっては懐かしいいくつかの思い出がある。
手駒の少ない将棋みたいなものだが、その中のひとつは、私の家の近くに、「イーデス・ハンソン」という女性の外国人タレントが住んでいたことだ。テレビにもよく出ていたが、ある程度年齢を得てから文化人として確たる存在となり、確か政治的迫害を防ぐための国際組織「アムネスティ‣インターナショナル」の日本の代表になっていたような気がする。彼女が近所に住んでいたというだけではなく、私とは生活上の多少の接点があった。といってもとても些細な話だが、私たちが住んでいる地域の商店街には、ユニークな天婦羅屋があり、私とイーデス・ハンソンは、その店の共通の客だった。およそ考えられる限りの多様な天婦羅のネタを並べて、即座に希望のネタで天婦羅を揚げてくれる店だった。長谷川町子が描く「サザエさん」の漫画によく出てくる少し歯の出たオヤジそっくりな人で、最高にハイパーな天ぷら屋の主人だった。天婦羅のネタと言えば、エビとかキスとか、アジ、イカ、赤く染めたショウガがよく知られているが、この店にはこの店のオヤジの想像力に捉えたあらゆるネタが揃えられていた。昔のことで詳しくは覚えていないが、スルメ、牡蠣(かき)、稚アユのかき揚げなどがあったような微かな記憶がある。イーデス・ハンソンとは三日にあげず天婦羅屋で顔を合わせたので、勝手に親しかったと思っていたが、いま思えば何のかかわりもない客同士にすぎない。

イーデス・ハンソンと野村克也選手がわが町のシンボル

商店街でよく顔を合わせて、世間で名を知られていた人としては、野球の南海フォークスの野村克也選手がいる。「針中野」の駅から一キロほど離れたところ、詳しく言うと、西の川という場所の近くに、中層だが大きな新しいマンションが建設され、そこに野村克也選手が入居したので、当時私たちの町ではかなり話題になった。その野村克也選手は「豆腐」がよほどの好物と見えて、駅前の商店街の入り口を入って一〇〇メートルほどのところにある豆腐屋に毎日のように「豆腐」を買いに来ていた。もちろん私も何度か目にしたことがあった。

私の家に来客があったり、どこかでわが町のことを話題にする必要が生じたときは、私はいつも、「うちの町には外人のイーデス・ハンソンがおるねん。南海の野村克也選手もおるねん!」と話していたような気がする。昔の私たちにとって、わが町とは、イーデス・ハンソンや野村選手がおることであって、私たちの意識の中に、それ以上の町のイメージが育たなかったことを不思議に思うのだ。


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