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エッセイを読まずにエッセイを書いている。

小説が好きだ。
本が好き。

子供時代本ばかりを読み続けていたのは、
他にすることがなかったから。

ゲームはするけどすぐに飽きる。先が読める。
同じ作業の繰り返しが嫌。

ストーリーさえわかってしまえば、そのあとは興味ない。
やりこみもしない。

テレビはそもそも好きじゃない。
嘘か本当かわからないことが混じっているし、
怖いものやうるさいものが多い。
黙って、テレビを見るのも退屈。

小説は異空間旅行だ。

外国にも行くし日本の知らない土地にも行くし、
異世界にも行く。

男にもなれるし
女にも少年にも少女にも
おじいちゃんにも、おばあちゃんにも、
ねこにも犬にもなれる。

旅をするために小説を読む。
生きるために本を食べている。

でも、覚えている限り
エッセイの本を買ったことがない気がする。

読むのは好きなはずだけれど、
買ってまで読みたい!という激しい情動には
未だ巡り会えていないんだろう。

子供時代のわたし、わたしではなくぼく、とした方が
しっくり来る存在は
空っぽだったのかと思うことがある。

空っぽでなにもない。

だから、その空っぽの体に

誰かの視点
誰かの感情
誰かの気持ち
誰かの見たもの
誰かが得たもの
誰かが失ったもの
誰かの大切なもの
誰かの世界

これをとにかくたくさん詰め込みたかった。

たくさん詰め込んでいけば、
自分ではないなにかになれる気がした。

これはたぶんエッセイだ。

小説を書くためには
小説という世界に触れた方が良い。

持ち合わせの言葉だけで
世界を構築するのは難しい。

でもエッセイを読まないまま、
書くことはできる。

エッセイに必要なものは正しさではないから。

寧ろ日常を見つめる視点のズレや、
ちょっとした勘違い、普段の生活では言えないこと。

それがエッセイの味になる。熱になる。

小説に求めるものと、
エッセイに求めるものは違うのかも知れない。

誰かの世界を知りたくて、
旅行がしたくて小説を開く。

誰かの温度が知りたくて、
言葉に触れたくてエッセイを読む。

どちらにしても、
今も空っぽである自覚のあるわたしの中を満たしているのは、
誰かの紡いだ物語と、
誰かの何気なく発した言葉たちだ。

人の求めるものを差し出せるものは、
たぶん、人で、これからもわたしは手探りなまま、
誰かの言葉を求め、本を開き続けるのだろう。

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ちるみる | 心と言葉を繋ぐライター いつも見てくださってありがとうございます。チップ代は書籍購入代に当てさせていただきます。