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史跡散歩|38代 天智天皇陵|京都・山科区|沓を残していずこへ...陵墓を歩く(16)

天智か天武か?と聞かれたら(誰にも聞かれないけれど)、だんぜん天智天皇派のxicano(しかの)です。こんにちは!
今回は天智天皇と大友皇子親子をめぐる散歩に出かけました。


御廟野ごびょうの古墳 / 天智天皇 山科陵やましなのみささぎ

京都市山科区御陵上御廟野町みささぎかみごびょうのちょう
八角墳(方形壇の上に八角形の墳丘)
 方形壇(2段) 東西51m、南北53m
 八角形部 一辺7m、全体の高さ7m

天智天皇 山科陵
拝所まで続く長い(約400m)参道
門が見えてきました
さらに続く清々しい参道に
「もうすぐ天智天皇に謁見できる!」
という期待感が....(妄想しすぎ😍)
拝所

天智天皇は『日本書紀』によると病に倒れたのち、天智天皇10年(672)近江大津宮で崩御したと記されていますが、『扶桑略記』には山科の森へ狩猟に出かけたまま消息不明となり、沓(靴)が見つかった場所を陵墓としたと記されているようです。

だとしたら..
天智天皇はどこに消えたのでしょ?(暗殺っ!?)
沓しか見つからなかったとしたら御遺体はどこに?
山科陵の石室や石棺の詳細がわからないのでますます気になります!!

第38代 天智天皇
葛城かづらぎ皇子(中大兄皇子なかのおおえのおうじ) 天命開別天皇あめみことひらかすわけのすめらみこと
生没 626〜672年(在位668〜672年)
父:第34代 舒明天皇
母:宝皇女(第35第 皇極・第37代 斉明天皇)
皇后:倭姫王やまとひめのおおきみ(古人大兄皇子の娘)
皇居:近江大津宮

中臣鎌足とともに乙己の変(645年)を遂行した中大兄皇子。孝徳天皇、斉明天皇崩御の後もすぐには即位せず皇太子のまま称制します。
白村江の大敗(663年)を機に国防強化、飛鳥から近江大津宮へ遷都(667年)した翌年に即位しました。

参道入口は交通量が多い三条通沿いにありますが
駐車スペースはないので近隣のタイムズを利用しました
参道入口の脇、三条通沿いにある石碑
日時計碑『天恩無窮てんおんむきゅう
天候が穏やかで人々が困窮しない平和な状態が続くことを願う..という意味だそうです

『日本書紀』によると、斉明天皇6年(660)皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻ろうこく(水時計)を作って、民に時を知らせたことが記されています。

又皇太子、初造漏剋。使民知時。

『日本書紀』斉明天皇6年(660)5月条

そして、天智天皇10年の記事は、漏刻を新しい台に設置し、時刻を鐘や鼓を打ち鳴らして時を知らせたこと、その漏刻は天智天皇が皇太子時代に初めて自ら作られたものだということが記されています。

夏四月丁卯朔辛卯、置漏剋於新台。始打候時。動鐘鼓。始用漏剋。此漏剋者、天皇為皇太子時、始親所製造也、云々。

『日本書紀』天智天皇10年(671)4月条

天智天皇が皇太子時代に初めて作ったという漏刻ろうこくの原寸大復元模型を飛鳥資料館で見ました。最初に設置したといわれる飛鳥の水落遺跡にはまだ訪れていないので次の機会にはぜひ訪れてみたいと思います。

天智天皇 山科陵
最後までご覧いただきありがとうございました。
探訪日 2025年7月30日(水)

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