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【つの版】度量衡比較・貨幣251

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は近江国・彦根藩の続きです。

滋賀県

◆彦◆

◆根◆


井伊直興

 彦根藩第5代藩主・井伊直興なおおきは、井伊直政の次男直孝なおたかの四男であった直縄なおつなの子にあたります。伯父直滋なおしげが出奔して廃嫡され、世継ぎとなった父も早世し、直興(幼名吉十郎)は4歳の幼児でしかなかったため、叔父の直澄なおすみが家督を継ぎました。しかし直孝の遺言により直澄の養嗣子とされ、延宝4年(1676年)直澄が没すると21歳で家督を相続します。

井伊直政―直継/直勝
     直孝―直滋
        直縄―直興
        直澄

 延宝5年(1677年)、直興は彦根城内下屋敷を整備して広大な庭園を築造し、領内の港を改築するなど、土木事業に莫大な資金を投じました。延宝6年(1678年)には藩士76人が困窮と拝借金の支給を訴えますが、直興は彼らを追放し、翌年には家中法度を定めて厳しい統制を行います。翌年将軍家綱が没して綱吉が将軍となると、朝廷への返礼の使者をつとめ、その翌年には改易された松平光長、酒井忠能らを江戸屋敷で預かっています。

 貞享2年(1685年)には一転して藩士に対する融資制度を開始しますが、翌年には能好きの将軍綱吉に媚びへつらうため55人もの能役者を召し抱え、元禄元年(1688年)11月には日光東照宮の改修総奉行に任じられます。翌元禄2年7月から元禄3年(1690年)7月にかけ、直興は仙台藩主の伊達綱村と協力して東照宮の改修に尽力しました。当然財政は悪化し、元禄6年(1693年)には藩士に対し上米(石高に応じて米を上納させること)を命じますが、元禄8年(1695年)11月には老中待遇となり、元禄10年(1697年)6月には大老(執事職)に任じられています。なお同年正月には19年前に追放した藩士76名に帰参を命じ、元禄12年(1699年)に領内で飢饉が発生すると救米を出しています。

 この頃の彦根藩士は江戸詰5000名、彦根在城1万9000名、領内人口20万、城下町人口は3万7000人に及びました。領地は近江国12郡のうち7郡にまたがり、愛知郡以南の南筋、坂田郡天野川以南の中筋、天野川以北の北筋に分けられており、各筋には筋奉行を置き、その下に12人の代官を置いて各村の庄屋・横目を支配させました。また松原、長浜、米原の湊を整備して城付の用船120艘を配し、年貢の輸送や湖上の警備などに用いていました。

 元禄13年(1700年)3月、45歳の直興は病気を理由に辞任して帰国し、翌年には八男の直通に家督を譲って隠居、直治と改名します。また剃髪して覚翁と号しましたが、直通はまだ12歳でしかなく、実権は握り続けます。ところが宝永7年(1710年)7月、直通は22歳の若さで病没し、その弟の直恒が養嗣子となり跡を継ぎますが、同年10月に18歳で病没します。彼らの弟のうち直矩は分家を継いでおり、金蔵と又五郎は元服前でした。幕府は彦根藩に幼い藩主が立つのは危ういとして覚翁に藩主復帰を命じ、55歳の覚翁は金蔵が元服するまで藩政を取り仕切ることとなります。

 直通・直恒が没する前年には将軍綱吉が薨去し、甥の家宣が48歳で将軍に就任したばかりでした。家宣は間部詮房・新井白石を登用して政務を司らせましたが、幕臣筆頭の井伊家を幕政に加えることで安定化をはかろうとし、正徳元年(1711年)2月には覚翁を大老に再任します。同年5月に覚翁は還俗して直該と改名、10月に朝廷より正四位・左近衛権中将に叙任されました。

 正徳2年(1712年)10月に家宣が薨去し、子の鍋松が数え4歳で跡を継いで家継と名乗ります。翌正徳3年(1713年)3月に家継が元服すると、井伊直該はその烏帽子親をつとめました。正徳4年(1714年)2月、子の金蔵が元服して直惟なおのぶと名乗ると大老を辞任し、直惟に家督を譲って隠居、直興の名に戻ります。翌年には再び出家して全翁と号し、家継が薨去して吉宗が将軍に就任した翌年、享保2年(1717年)4月に62歳で没しました。

直惟以後

井伊直惟

 井伊直惟は直興の十三男にあたり、直興が45歳で隠居した元禄13年の5月に生まれました。上述の経緯によって15歳で家督を継承し、第9代彦根藩主となります。彼は質素倹約を推進し、武芸奨励と市井への視察を兼ねて大規模な鷹狩りを好んで行いました。また文化にも造詣が深く、絵画や詩文を残し、寺社への寄進も行っています。享保12年(1727年)には将軍吉宗の世子家重の元服に際し加冠役(烏帽子親)をつとめますが、享保20年(1735年)5月に病気を理由として家督を弟の直定に譲り、翌年37歳で没しました。

井伊直定・直禔

 直定は直惟の2歳下の異母弟で、正徳3年(1713年)に1万石を分与されて彦根新田藩の藩主となっていましたが、兄の養子となって彦根藩主を継いだため、この所領を本家に戻します。彼も質素倹約を旨とし、江戸城中でも弁当の握り飯を持参するほどでした。宝暦4年(1754年)6月に兄直惟の子で養嗣子の直禔なおよしに家督を譲って隠居しますが、同年8月に直禔が28歳で急逝しました。直定は幕命により藩主に復帰し、直禔の弟直英を養子として再び隠居したのち、宝暦10年(1760年)61歳で没しています。

井伊直幸

 直英は享保16年(1731年)の生まれで、宝暦5年(1755年)に25歳で家督を継ぎ、宝暦10年(1760年)に直幸と改名しました。彼は名門井伊家の当主として徳川家治への将軍宣下の際に朝廷への使者をつとめ、明和2年(1765年)には徳川家康の150回忌に際して将軍名代として日光東照宮へ参詣しています。翌年に家治の世子家基が元服する時は加冠役をつとめ、従四位上・左近衛中将に叙任されました。安永7年(1778年)2月には正四位上に昇進、天明4年(1784年)11月には54歳で大老に任じられます。

 この頃に天明の大飢饉が発生しましたが、直幸は蔵米を放出して飢えた領民に粥を施し、一人の餓死者も出しませんでした。また直幸の正室の弟である井伊直朗(越後与板藩主)は田沼意次の次女を娶り、西の丸の若年寄をつとめています。天明6年(1786年)将軍家治が薨去して田沼意次が失脚すると、直幸は直朗や大奥と結託して次の権力の座を狙いますが敗れ、翌年大老を辞職して国元に戻りました。長男直尚は夭折し、次男直富はこの天明7年(1787年)7月に24歳で病没したため、六男直中が跡継ぎとなります。

井伊直中

 寛政元年(1789年)直幸が没し、直中が33歳で家督を継承しました。彼は寛政の改革にならって積極的な藩政改革を行い、財政再建のために倹約令を発布するとともに、縮緬・蚊帳・天鵞絨・高宮布など特産品の保護育成と専売制を施行します。また町会所を設置して防火制度を整備し、寛政11年(1799年)には藩校の稽古館(弘道館、文武館)を創設、人材育成につとめています。さらに治水工事や干拓事業も行い、井伊神社を建立して直政以後の祖霊を祀り、佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成を慰霊しました。彼は大老とはなりませんでしたが、子の直亮直弼はともに大老に昇り、藩政改革を行って財政を再建し、幕府を支えることとなります。

井伊直政―直継/直勝     直通
     直孝―直滋    直恒
        直縄―直興―直惟―直禔 直富 直亮
        直澄    直定 直幸―直中―直弼

彦根牛肉

 諸記録によると、井伊直澄の頃ないし元禄年間(1688-1704年)に彦根藩士の花木伝右衛門が薬用牛肉反本丸へんぽんがん」を製造しました。彼は江戸在勤中『本草綱目』に「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を増し、脾胃を養い腰脚を補益す」と書いてあるのを読み、領内に流通していた牛肉を利用して薬にして売り出すことを思いついたといいます。

 日本では古来鹿や猪、鳥などを狩猟して食肉とし、古墳時代に牛馬が伝来すると、その肉も食用・薬用としました。天武天皇5年(675年)、農繁期である旧暦4月から9月末までは牛・馬・犬・猿・鳥の肉食を禁じる命令が発布されましたが、その後も貴族や庶民は普通に肉を食べていたようです。平安時代には牛馬などの肉を穢れたものとする風潮が広まりますが、鳥や兎は普通に食膳にのぼっており、武家は大いに狩猟肉を食べています。

 戦国時代には、宣教師の記録として「ヨーロッパ人は犬は食べず牛を食べるが、日本人は牛を食べず、犬を薬として食べる」「日本人は犬、鶴、猿、猫、生の海藻を食べる」とあり、牛肉はあまり一般的な食材ではなかったようです。小田原征伐の時にキリシタン大名の高山右近が蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振舞ったことが記録されていますが、日本人は牛の肉を食べるキリスト教徒を奇異の眼で見ており、秀吉もこれを叱責しています。

 では何故彦根藩領には牛肉が流通していたのでしょうか。実は彦根藩では斃死・屠殺した牛馬の皮を加工して鎧や鞍、太鼓などの革製品を作ることが公認されており、その肉が干肉や味噌漬けに加工されていました。牛馬の屠殺者や革職人は古来「穢多」「かわた」と呼ばれ、殺生を業とすることから賎業視されていましたが、同じく殺生を業とする武士にとっては防具や馬具を作成することから必要で、戦国時代には西国から東国へ職人集団として招聘されています。江戸時代に入ると海外からの皮革の輸入が途絶えたため、斃死牛馬の処理は厳重に管理され、各農村に穢多が配置されて原料獲得にあたりました。京都・西国を抑える要である彦根藩ではこの風習が強く残り、毎年陣太鼓を幕府に献上し、他藩にも皮革製品を販売していたのです。

 反本丸の形状や製法は定かでありませんが、生肉は腐敗しやすいので干し肉か味噌漬けでしょう。元禄年間には彦根藩が牛肉の味噌漬けを「薬喰い」として販売しており、赤穂浪士の大石内蔵助が堀部金丸に彦根牛の味噌漬けを贈った手紙も残っています。安永10年(1781年)からは彦根藩から味噌漬けの牛肉が「養生肉」の名で将軍家や親藩諸家に贈られました。現代まで続く近江牛のブランドは400年以上の歴史を持つのです。

◆彦◆

◆根◆

 江戸時代の近江国には他にも複数の藩が存在し、幕府直轄領や旗本領、諸国の飛び地藩領や公家領・寺社領がモザイク状に入り乱れていました。近江国内に拠点を置く藩では膳所藩(3万石→7万石)、三上藩(1万2000石)、水口藩(2万石→2万5000石)、仁正寺藩(2万石→1万7000石)、山上藩(1万3000石)、近江宮川藩(1万石→1万3000石)、大溝藩(2万石)、堅田藩(1万石)などが存在します。いずれも小藩で、藩政にも特筆すべき点は乏しく、いちいち取り上げません。次回は近江商人について見てみましょう。

【続く】

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