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【つの版】ウマと人類史:近世編22・清露紛争

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 内陸河川を伝ってシベリアを進み、半世紀あまりのうちにオホーツク海やアムール川まで到達したロシア人は、南の清朝と国境紛争を起こします。

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極北探検

 1639年にモスクヴィチンがオホーツク海に到達した後、この付近の海域の調査も進みます。ロシア人たちはヤクーツクからレナ川を下って北極海に出ており、クジラやセイウチなどを狩猟していましたが、1646年にはさらに東のコリマ川河口部に到達します。1647-48年、ポポフとデジニョフはその東へ探検を行い、アラスカとチュクチ半島の間のベーリング海峡(当時はアニアン海峡と呼ばれていました)を抜けアナディリ川の河口に到達しました。

 カムチャツカ半島はまだ「発見」されていませんが、ロシア人はヤクーツクから川沿いに進んで山を越え、オホータ川を下って海に出るルートを開拓し、1647年にその河口部に宿営地を建設しました。これがオホーツクで、オホーツク海の語源です。オホータとは現地のエヴェン語で「川」を意味するため、オホーツク海とは「川の海」ということになりますね。

 また1643年にはオランダ人のデ・フリースが蝦夷地・樺太・千島に到達し、得撫島と択捉島を勝手にオランダの領土と宣言しています。ただ濃霧のために蝦夷地と樺太の間の海峡を発見できず、樺太とアジア大陸の間の海峡も確認しなかったため、彼の報告では蝦夷地が大陸と繋がっています。

羅刹入寇

 モスクヴィチンとポヤルコフの探検の後、ハバロフがアムール川探検に乗り出します。彼はシベリア各地で交易商として活動していた人物でしたが、ポヤルコフが到達したダウリヤ(アムール川流域)の探索をヤクーツク総督に請願し、1649年春に隊員や武装を整えて出発しました。

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 彼はポヤルコフのルートは険路であるとし、レナ川の支流オリョークマ川を遡って南下し、船を担いで丘を越え、アムール川の支流シルカ川に到達しました。バイカル湖の南(ザバイカル)にあり、モンゴル高原の北麓です。

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 ハバロフはこの川を下ってダウリヤに入りましたが、すでに北方からの侵入者の噂はダウリヤに知れ渡っており、住民たちは逃げ去り、あるいは抵抗しました。彼は1650年5月にヤクーツクへ帰還すると、「ダウリヤは素晴らしい場所だが、『ボグドイ』という君主(クニャージ)に狙われており、次は軍隊が必要だ」と報告します。クニャージ・ボグドイとは、ポヤルコフがボルボイカンと報告したのと同じく、モンゴル語でボグド・ハーン(聖なる皇帝)と称した清朝の皇帝のことです。

 1650年、ハバロフは百数十名の兵隊を率い、大砲3門を運ばせてダウリヤ遠征に出発しました。ヤクーツク総督は彼に「ダウリヤの諸侯」に宛てたモスクワ・ロシアのツァーリからの書簡を持たせ、「従わなければ6000人の軍隊を派遣するぞ」と脅させたといいます。秋にシルカ川に到達したハバロフたちは、武装した現地住民に抵抗を受けつつアムール川に入り、エヴェンキ族のソロン部に属するダウール族やオロチョン族と戦います。

 ソロン部の族長アルバザを打ち破り、その拠点ヤクサ(ツングース諸語で「川の崩れた入り江」)を奪ったハバロフは、ここをアルバジン(アルバザの)と名付けて越冬用の要塞とします。大興安嶺の北をアムール川が回り込むあたりで、支流のエムール川との合流地点です。1651年6月にはヤクーツクからの援軍が到着し、ハバロフらはアムール川をさらに下って、9月には松花江との合流地点(現同江市付近)まで進みます。

 9月末にはウスリー川との合流地点に到達、現地のアチャン族にちなんでアチャンスクという要塞を建設します。19世紀末にロシアがこの地を再領有した時、ハバロフにちなんで「ハバロフスク」という都市を建設しました。ハバロフはアチャンスクを拠点として敵対部族の襲撃を撃退し、各地の部族を襲撃して貢納を取り立て、ロシアのツァーリへの臣従を誓わせました。

 1652年3月、地元民の訴えにより、清朝のニングタ(現黒龍江省牡丹江市海林・寧安)の総督であるハイセ(海西)が兵を率いてハバロフたちを討伐に向かいました。兵数は現地民をあわせて2000余でしたが、銃器で勝るハバロフ隊に撃退され、ハイセは責任を取らされ処刑されます。この時、ロシア人は「羅刹(ロチャ)」という名で清朝に伝えられました。羅刹とは仏典に見える悪鬼の名で、世界の果てには羅刹国があるといわれましたから、「ロシア」の語を音写してそう伝えたのでしょう。

清露紛争

 ハバロフたちはより多くの敵軍が来ることを恐れ、アチャンスクを放棄してアムール川上流へ撤退しました。途中でコサックの増援部隊と合流したものの、行方不明となった先遣部隊を探すか否かで口論となり、部隊内で諍いが起き始めます。8月にゼヤ川との合流地(現ブラゴヴェシチェンスク)まで来たところでついに反乱が起き、ハバロフはなんとか鎮圧しました。彼はここに越冬地を築き、ヤクーツクへ報告書をもたせた部下を派遣します。

 1653年春、ヤクーツクからジノヴィエフ率いる増援部隊が到着しますが、彼はハバロフと指揮権を巡って対立し、彼を逮捕してモスクワへ送り、ハバロフの部下ステパノフを後任に指名しました。ステパノフは引き続きアムール川流域で活動しましたが、清朝はサルフダをニングタ総督とし、朝鮮にも援軍を要請して、ロシア軍討伐に本腰を入れ始めます。

 1654-55年に両軍はアムール川流域で戦い、ステパノフはブラゴヴェシチェンスク北方のフマル(現黒龍江省大興安嶺地区呼瑪県)に籠もってこれを撃退しますが、サルフダは周辺住民を強制移住させて付近を無人化し、ステパノフの食糧補給を絶ちます。さらに各地で軍船を建造させ、1658年にステパノフらの艦隊を撃破し、アチャンスクなどの砦を破壊して、アムール川流域からロシア人を駆逐しました。諸部族は清朝への貢納と臣従を誓い、国境はようやく安定します。

 しかし、アムール川以北にはロシア人が次々と入植していきました。1652年にはバイカル湖付近、アンガラ川とイルクート川の合流地にイルクーツクが建設され、1653年にはヤクーツクの建設者ピョートル・ベケトフによりシルカ川の支流インゴダ川のほとりにチタが、翌年にはその東にネルチンスクが建設されます。1666年にはバイカル湖の南のウデ川のほとりにヴェルフネウジンスク(現ウラン・ウデ)が建設されました。

 この頃のモスクワ・ロシアのツァーリは、ミハイル・ロマノフの子アレクセイ(在位:1645-1676)です。彼は即位時にまだ16歳であったため、教育係であった貴族ボリス・モロゾフの影響下にあり、1648年には彼の妻の妹マリヤを娶っています。マリヤの父イリヤ・ミロスラフスキーは大貴族に叙せられ、モロゾフは1661年に没するまで権勢をふるいました。彼の時代に、ロシアはシベリアや極東地域へ進出し、ポーランドとの戦いで西へ大きく領土を広げ、東ヨーロッパにおいても覇権国へと成長することになります。

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【続く】

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