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【つの版】日本刀備忘録49:文正政変

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 鎌倉公方と関東管領の対立で関東が東西に分裂し、諸国が御家騒動や下剋上で混乱する中、長禄3年から寛正2年(1461年)にかけて全国的な大飢饉が発生します。幕府や諸大名は政争・戦争に明け暮れて民の救済どころではなく、怒り狂った庶民は土一揆を起こして掠奪による自力救済を行います。戦国時代の幕開けとなる「応仁の乱」の勃発は、もう間近に迫っていました。

◆末◆

◆法◆


足利義視

 寛正5年(1464年)、実子がない義政は庶弟で天台宗浄土寺の門跡の義尋を後継者に指名し、還俗させて「義視よしみ」と名乗らせました。彼は養父である正親町三条実雅の今出川の屋敷に住んで「今出川殿」と呼ばれ、翌年には日野重子の旧邸・高倉殿(烏丸邸)を「今出川殿」と改名して移り住み、日野富子の同母妹・良子を正室に迎えました。

 ところが寛正6年(1465年)11月、義政と富子の間に嫡男の義尚よしひさが誕生します。同年7月には側室が男子を産んでいますが(翌年出家)、現職の将軍と正室の子となると家督継承権の上では義教の庶子である義視より序列が高くなりかねず、問題となります。しかし義視はすでに27歳の成人で、順調に官位を昇格して義政の後継者とみなされており、義尚が無事に成長するまで義視が中継ぎとなれば済むことです。当時は幼児死亡率も高いですし、後継者のスペアが複数いなければ御家断絶もあり得ます。

 しかして翌文正元年(1466年)7月、義視と正室・日野良子の間に男子が誕生します(初名は義材よしき、のち義尹よしただ義稙よしたねと改名)。彼が無事に成長した場合、義尚と義材の間で家督継承争いが勃発することは目に見えています。義尚の養父とされていた伊勢貞親は、義視とその子が将軍になれば自分は失脚するのでは、と危惧しました。

武衛騒動

 これに加えて、守護大名の御家騒動が絡んできます。三管領家の一つ・斯波氏(武衛家)は越前・尾張・遠江の守護を兼ねていましたが、執事の甲斐常治は越前と遠江の守護代を兼ね、当主をないがしろにして領国を牛耳っていました。義政・貞親は守護大名の権力を制限するため常治を支援し、関東への出陣を拒んだ斯波義敏に対し息子の松王丸に家督を譲るよう命じます。義敏は大内教弘に身を寄せますが、間もなく常治も病没し、斯波氏の兵も関東へ行くことを拒みました。そこで義政と貞親は寛正2年(1461年)に松王丸を廃し、渋川義鏡の子・義廉に斯波氏の家督を譲らせます。

 斯波氏と渋川氏はともに足利氏の分家で、先祖が同母兄弟だったことからほぼ同格とみなされており、義鏡の祖母は初代管領・斯波義将の娘にあたります。また義鏡は義政公認の「鎌倉殿」である堀越公方・政知の補佐役として関東執事に任じられており、「斯波氏当主の実父」という名目で斯波氏の領国から兵を関東に動かせると見込まれたのです。

 ところが遠江守護代の今川氏をはじめ各地の斯波氏被官は従わず、義鏡は扇谷上杉家と対立して失脚し、義敏と松王丸も寛正4年(1463年)に恩赦を受けます。義敏は大内氏を後ろ盾にして義政・貞親に接近し、正当な斯波氏の当主として関東出兵を行うと持ちかけますが、廃嫡の危機に晒された義廉は細川勝元、山名宗全、畠山義就、足利義視ら有力者に助けを求めました。

 義敏が身を寄せた大内教弘は、周防・長門・豊前・筑前の守護職を兼ねる大大名で、細川勝元と同じく山名宗全の養女を正室としていました。また大内氏は博多を介して朝鮮や明国と貿易を行っており、摂津・堺を抑える細川氏とは商売敵でした。寛正2年に幕府は義敏を匿っていることを理由に教弘討伐を決め、安芸東部の東西条(東広島市)を安芸分郡守護の武田信賢に与えますが、怒った教弘は反撃して信賢を撃破し、安芸・石見・肥前に勢力を広げます。幕府は教弘への討伐命令を撤回し、義敏に恩赦を与えます。

 寛正6年(1465年)に教弘は東西条を正式に取り戻しますが、幕府に伊予の河野通春を討伐せよと命じられます。通春は伊予の支配権と海上交通権を巡って細川氏と対立しており、教弘の支援を受けていたため、教弘は幕命に背いて通春への支援を継続します。同年に教弘が没すると子の政弘が家督を継ぎ、勝元は安芸武田氏や毛利・小早川ら国人衆に政弘討伐を命じますが、義敏は周防から上洛を果たし、同年末に義政に拝謁し正式に赦免されます。焦った義廉は義政に迫り、斯波氏の家督と領国の統治権を保証させますが、勝元派を牽制したい義政・貞親はすでに義敏の復帰に傾いていました。

文正政変

 寛正7年改め文正元年(1466年)7月、義政は義廉との約束を反故にして斯波氏の家督を義敏に戻すことを命じ、政弘にも赦免を与えました。義政・貞親が義敏・政弘を自らの派閥に取り込むためでしたが、8月には山名宗全が義廉に自分の養女を娶らせて支援し、丹後・伊勢半国守護の一色義直、美濃守護の土岐成頼も味方に引き入れ、勝元とともに貞親派追放を目論みます。義政は諸大名に義廉討伐を命じ、両派閥の間に緊張が高まりました。

 同年9月、伊勢貞親は義政に対し「義視が反逆を企んでいる」と讒言、殺害を唆します。義視はこれを聞いて細川勝元の邸宅へ逃げ込み、翌日勝元は出仕して義政に「貞親が義視を讒訴した」と伝え、御所を包囲して脅迫し、決断を迫ります(87年ぶり3度目の御所巻)。やむなく義政は貞親の非を認め、貞親は近江を経て伊勢へ逃亡しました。貞親派の季瓊真蘂・斯波義敏・赤松政則らも京都から追放されますが、義政は貞親の嫡男・貞宗を政所執事に任命し、復権の可能性を確保しています。しかし義政は実権を勝元らに奪われ、斯波氏の家督と領国は義廉に戻されました。

御霊合戦

 ここまでは細川勝元と山名宗全は協力関係にありましたが、両者は畠山氏の家督相続を巡って対立します。勝元は管領に立てた政長を支持しますが、宗全は義就を支持し、彼を利用して勝元派を京都から駆逐し、義政を傀儡として実権を握ろうと目論んでいました。義就は寛正6年(1465年)8月には吉野で挙兵し、文正元年8月には奈良盆地を南から見下ろす壺阪寺に布陣しており、9月には河内に侵攻して政長方の軍を破ります。宗全は義就を上洛させ、勝元・政長に圧力をかけさせます。斯波義廉は宗全の娘婿ですから義就派で、勝元の派閥を排除したい義政も宗全・義廉・義就派につきました。

 翌文正2年(1467年)正月、義政は義就と対面して赦免し、宗全の邸宅で義就に饗応され、政長を管領から罷免して斯波義廉を後任に指名しました。政長は勝元に助けを求め、勝元と京極持清は再び兵を率いて御所巻を行い、政長の復権と義就の追討を要求せんと図ります。しかし宗全・義就・義廉は先手を打って御所巻を行い、政長の追放を義政に要求していました。勝元らは宗全らを外側から囲み、前代未聞の二重御所巻となります。

 義政は将軍として両者の調停を行い、「政長と義就の争いは両者だけでつけることとし、他の者は双方に支援せぬようにせよ」と持ちかけます。もとを正せば畠山氏の御家騒動に外部の者が介入しまくったのが悪いのですし、両者に大名たちが加勢すれば京都どころか天下を2つに割る大乱になりかねません。勝元はこれを呑み、後ろ盾を失った政長は屋敷に火を放つと相国寺北方の上御霊神社に陣を構え、兵を集めて抗戦の構えを見せます。

 ここは平安時代初期に桓武天皇が早良親王らの怨霊(御霊)を祀った社であり、周囲を川と相国寺の堀に囲まれていました。宗全は御花園上皇(1464年に息子へ譲位)と後土御門天皇らを内裏から花の御所へ避難させ、義政とともに彼らを庇護すると称して御所巻にし、義就は政長討伐に向かいます。勝元は義政との約束を守って政長を支援しませんでしたが、宗全らは上皇に政長治罰の院宣を出させて義就を支援し、政長は社殿に火をかけ自害を装い逃走しました。勝元は政長を自らの邸宅に庇護して京都にとどまり、政権を握った山名派に対して巻き返しを図ります。

大乱前夜

 山名宗全は管領・斯波義廉と畠山義就の後ろ盾となり、御花園上皇・後土御門天皇・足利義政を擁して幕府の実権を握りました。これに対し細川勝元は畠山政長・斯波義敏らの後ろ盾となり、細川京兆家の当主の立場で独自に書状を自派閥の大名や国人衆に送り、京都に兵力を集結させます。山名派が院・天子・将軍・管領を擁するといえど、義政の理不尽な政治介入に不満を持つ者は数多く、山名派の諸将に恨みを持つ者も数多くいたのです。山名派の諸将も諸国から兵力を集め、京都は一触即発の情勢となりました。

応仁の乱

 細川勝元は土佐・讃岐・伊予・丹波・摂津の守護で、同族の成之は三河・阿波の守護、成春は淡路守護、勝久は備中守護、持久・常有は和泉守護です。勝元の母方の叔父の京極持清は飛騨・出雲・隠岐の守護かつ近江に広い所領を持ち、近江守護の六角氏に強い影響力を持ちます。畠山政長は越中・河内・紀伊の前守護、斯波義敏は遠江・尾張・越前の前守護、赤松政則は加賀北半国守護、富樫政親は加賀南半国守護、武田信賢は若狭および安芸分郡守護、山名是豊は宗全の次男ですが家督を巡って対立しており、備後・安芸の守護職にありました。また土岐氏の世保政康は伊勢北半国守護で、南半国を巡り一色義直と対立していました。

 対する山名宗全は但馬・播磨の守護で、同族の教之は伯耆守護、豊氏(教之の次男)は因幡守護、成清は備前守護、政清は美作・石見守護です。大内政弘は周防・長門・豊前・筑前の守護で安芸南部に勢力を持ち、河野通春は政弘と結んで伊予に割拠しています。斯波義廉は管領かつ遠江・尾張・越前の守護で、畠山義就は大和・河内・伊賀・山城に勢力を持ち、能登守護の畠山義統と手を組んでいます。さらに一色義直は丹後・伊勢南半国、土岐成頼は美濃の守護です。各領国がやたら離れている者もいますが、守護大名は基本的に京都に駐在し、各領国には守護代を派遣して統治を委ねています。

 3月5日に文正から改元されて応仁となりますが、両者の緊張は高まる一方となり、4月には細川派の兵が山名派の年貢米を掠奪する事件が相次ぎ、足利義視が調停を試みています。また畠山義就の家臣が勝元の被官を襲撃してもいます。細川派は宇治や淀など各地の橋を焼いて京都の諸関門を封鎖し、5月には赤松政則の家臣・宇野政秀を宗全の領国たる播磨へ派遣しました。さらに武田信賢・細川成之は若狭の、世保政康は北伊勢の一色領へ侵攻し、斯波義敏は越前に侵攻して義廉派と戦い始めます。

 双方の総大将たる細川勝元と山名宗全の邸宅は、京都を南北に貫く堀川を挟んで東西に400mほどしか離れていません。ただ勝元邸の東には相国寺・花の御所・今出川殿・御所があり、細川派は山名派を西に駆逐して上皇・天皇・将軍の身柄を奪還、朝廷と幕府を制圧しました。ここに細川派は東軍、山名派は西軍と呼ばれることとなり、天下を二分する大乱が勃発します。

◆末◆

◆法◆

【続く】

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