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【つの版】度量衡比較・貨幣233

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は越前国の隣、若狭国です。

福井県

◆若◆

◆狭◆


若狭概略

 若狭国は北陸道に属し、現在の福井県南部にあたります。東は越前国敦賀郡、南東は近江国高島郡、南は丹波国、西は丹後国に接し、北は日本海(若狭湾)に面しています。敦賀郡は木ノ芽峠(木嶺)で越前国の他の領域(嶺北)と隔てられており、若狭国と合わせて「嶺南」と総称されます。

若狭湾

 若狭湾は福井県嶺北西端の越前岬と、丹後半島北端の経ヶ岬を結ぶ東西100㎞の直線以南の海域で、島は少ないですが複数の半島と支湾が入り組んだ複雑なリアス式海岸が発達しています。古来海産物が豊富に漁獲され、また製塩も盛んで、奈良や京都など大消費地へ商品や貢税として輸送されました。小浜・内浦・宮津など良港も多く、越前の敦賀、丹後の舞鶴とともに日本海交易の拠点として栄え、対馬暖流と季節風を利用して船が往来し、北は蝦夷地から南は琉球まで交易路が広がっていました。

古代若狭

『日本書紀』によると、垂仁天皇の在位第3年に播磨国宍粟邑(現兵庫県宍粟市)に新羅王子の天日槍あめのひぼこという人が渡来し、天皇に八種の神宝を献じて服属を誓い、諸国を遍歴して居住の適地を探すことを求めました。天皇がこれを許すと、彼は摂津国から宇治川(淀川)を遡り、山城国を経て近江国吾名村(坂田郡)に赴き、しばらくとどまります。次いで鏡村(蒲生郡)の陶工を伴い、琵琶湖を渡って若狭国に入り、丹後国を経て但馬国出石いずしに到達し、土豪の娘を娶って定着したといいます。『古事記』によれば神功皇后の母はこの人物の末裔です。

 神功皇后が産んだ応神天皇の孫・履中天皇の在位3年目の冬、天皇は磐余いわれ池(奈良県磐余市磯池)に船を浮かべて遊宴しました。この時、天皇の盃に季節外れのの花びらが舞い落ちたので、天皇は喜んで自らの宮を「磐余稚桜わかさくら」(現奈良県桜井市池之内の稚桜神社)と名付け、自分に酒を献じたかしわで(天皇の食膳を管掌する氏族)の余磯あれしに「稚桜部臣」、桜の花びらを落とした木を探し出した物部もののべの長真胆ながまいに「稚桜部造」のかばねを賜ったといいます。

 また『先代旧事本紀』によると、履中天皇の弟・允恭天皇の時、膳臣の祖佐白米さしろよね命の子荒礪あらと命を若狭国造に任じたといい、彼は余磯と同一視されています。とすると若狭国の名は履中天皇が彼に授けた「稚桜」の名から来たことになります。

 しかし神功皇后もこれと同名の宮に住んだと伝えられ、稚桜神社から3㎞ほど北東の桜井市谷の若櫻神社にあたるとされます。彼女は天日槍の末裔で敦賀とも縁が深いため、若狭国の名は彼女の方と関わりがありそうです。また若狭は敦賀ともども「御食みけつ国」と呼ばれ、都へ海産物や塩を輸出していましたから、天皇の御饌みけを司る膳氏が国造とされたのはふさわしいことです。

『若狭国風土記』逸文によると、海の彼方から若い男女がこの地に到来して住み着きましたが、年を取らず常に若々しかったのでそう呼ばれるようになったといいます。丹後には浦島伝説がありますし、徐福が漂着したとの伝説も伝わっていますから、後世に地名が神仙伝承と結びついたのでしょう。

 令制国として成立すると東部に三方みかた(現美浜町と若狭町)、中西部に遠敷おにゅうが置かれ、天長2年(825年)に遠敷郡の西部が大飯おおい(現高浜町・おおい町および小浜市の一部)として分割されました。残る遠敷郡はおおよそ現在の小浜市に相当し、国府・国分寺・国分尼寺が設置されています。

 小浜は西に若狭湾の支湾である小浜湾が開け、近江国今津方面から流れてくる北川、丹波方面から流れてくる南川が合流する地点で、海陸の交通の結節点にあたっています。特に北川沿いには古墳が点々と立ち並び、比較的道が平坦な近江との繋がりが古来密接であったことを物語ります。

鯖街道

 若狭と京都を結ぶ街道は多くあり、江戸時代中期以後には若狭湾で漁獲された鯖を塩漬けにして運んだことから、1970年代頃より「鯖街道」の名で呼ばれるようになりました。主要なものは近江国今津から琵琶湖西岸を陸路で進む西近江路、朽木・大原経由で京都へ直接向かう若狭街道、由良川沿いに丹波高地を抜ける小浜街道などがありますが、今津から琵琶湖の水運を利用すれば大量の物資を早く運ぶこともできます。

 神功皇后の父方の一族は丹波や山城、近江に勢力を持ってました。彼女の高祖父は丹波を平定した彦坐王で、曾祖父の山代之大筒木真若王と祖父の迦邇米雷王(稚筒城王)は山城国南部の綴喜郡(現京田辺市普賢寺付近)を治め、父の息長宿禰王は近江国坂田郡(米原市など)を治めたとされます。彼女が敦賀から筑紫へ向かったという伝承も、これらの氏族がヤマト王権において日本海交易を牛耳っていたことを示すものでしょう。

中世若狭

 京都の外港である若狭国には東大寺などの荘園が置かれました。平清盛の祖父正盛は白河院に仕え、康和3年(1101年)若狭守に任じられています。彼は隠岐・因幡・但馬・丹後・備前・讃岐の国司を歴任し、受領として各任地に勢力を築き上げ、伊勢平氏が台頭する基盤を作り上げました。

 保元・平治の乱の後に清盛が政権を掌握すると、清盛の異母弟経盛が応保元年(1161年)若狭守に任じられました。その後も彼の子の経光・敦盛・経俊、清盛の孫の師盛らが若狭守に任じられています。ただし彼らは官位を授かっただけで入国せず、在庁官人の稲庭時定らが実権を握りました。

 彼は大江広元らと同じく中級貴族の中原氏の末裔とされ、遠敷郡太良庄稲庭を本拠地として稲庭権守と称し、承安4年(1174年)には京都への公納物に津料(港湾使用税)を課したとして訴訟を起こされています。治承4年(1180年)11月に近江源氏の山本義経が反平家の兵を起こして琵琶湖を制圧すると、時定ら若狭の在庁官人らも呼応する動きを見せました。この時は平家に鎮圧されますが、寿永2年(1183年)木曽義仲の軍勢が北陸道から近江を経て上洛すると、山本義経は若狭守に叙任されています。

 翌年木曽義仲は源範頼・義経らに敗れて討死し、山本義経は行方不明となります。その後も稲庭時定は若狭を事実上支配下に置き、源頼朝にも所領を安堵されますが、建久7年(1196年)突如所領を没収され没落します。頼朝は薩摩守護の島津忠久の弟・忠季を若狭守護職に任じ、建仁3年(1203年)に比企の変に連座して解任されるまで7年間若狭を治めました。

 比企の変で政敵を倒した北条義時は自ら若狭守護となりますが、承久2年(1220年)忠季を若狭守護に再任します。しかし翌年の承久の乱で忠季が戦死したため、甥の島津忠時が7年間若狭守護をつとめました。その後は執権北条氏得宗家やその一族が若狭守護となり、代官を置いて統治しています。

税所今富

 この頃、若狭守護領の9割近くを占めていたのが今富いまとみという荘園(みょう)です。租税や官物の収納事務を司る役所や役人を税所さいしょといいますが、この役職を在庁官人が世襲し、土地を別名べちみょうとして開発・購入し、大土地所有者となっていたのです。

 鎌倉幕府と執権北条氏得宗家が滅んだ後、後醍醐天皇はこの今富名を側近の洞院家に与えますが、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻して光明天皇を擁立すると、足利(斯波)家兼や京極高氏(佐々木道誉)など重臣を若狭守護に任じました。しかし国人衆はこれに従わず、一揆を起こしています。

 尊氏と弟の直義が対立すると、山陰各地や若狭守護を歴任した山名時氏は所領を巡って佐々木道誉と対立していたため、尊氏から直義に寝返ります。直義の死後もその養子直冬を奉じて尊氏と争い続けますが、尊氏没後に帰順工作が行われ、伯耆・丹波守護に任じられました。また一族合わせて五ヵ国の守護となり、若狭守護の斯波義種から今富名の領主権を譲られたため、実質的に若狭守護職を兼ねることとなります。

 貞治5年(1366年)斯波義種が貞治の変で一時失脚すると、若狭守護職は一色範光に授けられ、小笠原長房が守護代に任じられます。しかし今富名は山名時氏が領有し続けたため、収入は守護領の1割程度しかなく、経営は困難を極めました。そのため寺社の所領の押領を行うなどして反発を招き、応安2年(1369年)には再び国人一揆が勃発し、長房らは鎮圧に手を焼きますが2年かけて平定に成功します。

 これにより国人衆のうち守護に逆らった者は国外に追放され、若狭国は守護派ないし親幕府派の国人が大勢を占めることとなりました。また応安4年(1371年)に山名時氏が没し、今富名は山名氏が相続しますが、範光は三河守護を兼任することで収入を確保します。

 明徳2年(1391年)時氏の子の氏清らが幕府に対して挙兵し、足利義満はこれを返り討ちにして山名氏の勢力を大幅に削減します。一色範光の子で家督を継いでいた詮範はこの戦いで武功をあげ、恩賞として今富名を授かり、ようやく名実ともに若狭一国の守護となります。また若狭・三河に加えて尾張国知多郡・海東郡の守護も兼ね、子の満範は丹後守護職を授かりました。

 応永4年(1397年)小笠原長房が没し、子の長春(明鎮)が若狭・三河・知多郡・海東郡の守護代職を引き継ぎます。しかし小笠原氏の勢力が強くなりすぎたため、詮範は長春を今富名の代官から解任します。応永13年(1406年)に詮範が没し満範が家督を相続すると、長春は守護代職を剥奪されて丹後国石河城に監禁されます。2年後には長春の一族が三河で反乱を起こしますが鎮圧され、応永16年(1409年)に満範が没すると、長春らは切腹を命じられました。一色家の家督は満範の子・義範が相続します。

 この前年の応永15年(1408年)6月、若狭国小浜に「南蕃船」が着岸しました。これは南蕃の帝王「亜烈進卿」が「日本国王」へ進物を贈るために派遣したもので、黒い象が一頭、山馬が一頭、孔雀と鸚鵡が各一対など珍しい動物を載せていました。この使節は象などを連れて京都に入り、将軍義持に献上しましたが、義持は3年後にこの象を朝鮮国王へ贈っています。この亜烈進卿とは、チャイナの史料においてスマトラ島パレンバンの華僑の頭目で鄭和から「旧港宣慰使」に任命された施進卿のことといいます(亜烈とはジャワ系の称号か)。ジャワのマジャパヒト王国はこの頃朝鮮や日本との交易を望んでしばしば使節を派遣しており、小浜に来たのもそのひとつと思われます。応永19年(1412年)にも小浜に南蕃船が到来しています。

一色義範

 家督を継いだ時の義範は元服前の10歳で、庶兄の次郎(持範)を奉じる派閥との間で跡目争いがあったようですが、応永18年(1411年)には和睦して元服し、将軍足利義持より将軍家通字の「義」の偏諱を授かりました。彼は丹後・若狭・三河・尾張2郡に加えて応永25年(1418年)には山城国の守護職を兼ね、左京大夫・侍所頭人となり、一色家の最盛期を築き上げます。また畠山家とともに伊勢国司北畠家の反乱を鎮圧するなど軍事面でも活躍し、室町幕府を支える重臣となっています。

 応永35年(1428年)に足利義持が没し、弟の義教が将軍になると、義範は彼と諱が同音であるのを避けて義貫よしつらと改名しました。しかし義教は義貫と対立し、永享12年(1440年)武田信栄のぶひで・細川持常に命じて義貫を誅殺させました。家督は義貫の子の教親が相続し、丹後・伊勢北半国・尾張2郡の守護を兼ねますが、山城守護職は山名持豊(宗全)、三河守護職は細川持常、若狭守護職は武田信栄が引き継ぎます。これより戦国時代後期に至るまで130年間、武田氏は若狭守護として存続しました。

◆超◆

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【続く】

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