【つの版】度量衡比較・貨幣203
ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。
江戸時代には地方に300近い大名がおり、徳川将軍家を宗主として一定の自治を行っていました。彼らの統治する領地と支配機構を、歴史上は「藩」と呼びます。幕府と同じく諸藩でも、時流に適応し財政危機を脱するため、藩政改革が盛んに行われました。今回は駿河の隣、伊豆編です。

◆北◆
◆条◆
伊豆略史
伊豆国は東海道に属し、相模国とは箱根峠を境とします。駿河国との境は、南は沼津市の内浦重寺、東は狩野川とその支流の境川で、北は三島市、北東は熱海市の大部分を含み、伊豆諸島も含まれます。
伊豆半島は静岡県の東端から太平洋に向かって南に突き出した南北50㎞ほどの半島で、東は相模灘、西は駿河湾に面しています。北部の田方平野を除き大部分が山地で、多くの火山が連なり、温泉や鉱山に恵まれています。かつては伊豆諸島と同じく日本列島から離れた火山島でしたが、フィリピン海プレートに乗って本州(北アメリカプレート)に衝突し、その圧力によって箱根山や丹沢山地、富士山が誕生したと推測されています。
伊豆諸島は、伊豆半島南東から南へ連なる多数の火山島の総称です(現在は東京都に属す)。最北端にあり最大の伊豆大島は伊豆半島から25㎞沖合にあり、その南には利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島・青ヶ島と有人島が連なっています。縄文時代以前から八丈島までは人間が渡航していた形跡があり、神津島産の黒曜石は紀元前2万年の南関東の遺跡から出土しています。
『先代旧事本紀』国造本紀によると、神功皇后の時に物部氏の一族が伊豆国造に任命され、孝徳天皇の大化の改新で駿河国に併合された後、天武天皇9年(680年)に2郡が分けられて伊豆国として設置されました。古くは北部を田方郡、南部を賀茂郡と分けていましたが、奈良時代に南西部が仲郡(那賀郡)とされ、文禄年間(1592-96年)から江戸時代にかけて田方郡の西部が君沢郡として分けられました。国府は田方郡に置かれ、三島市泉町には伊豆国分寺とその史跡が現存します。
伊豆諸島や周辺の火山はしばしば噴火したため、朝廷からは神のしわざとして祀られました。三嶋大社は現在は旧田方郡小河郷にありますが、『延喜式』には賀茂郡三島郷に鎮座するとあり、伊豆諸島(三島)に祀られていたものと思われます。奈良時代から平安時代にかけて「伊豆三島(三嶋)神」やその妃神に対して所領や位階が授けられ、名神大社として幣帛を賜っています。やがて本土側の賀茂郡大社郷白浜(現下田市白浜の伊古奈比咩命神社)に遷座し、最終的に伊豆国府のあった現社地へ遷座したようです。
畿内からは遠く、伊豆諸島も含むため、伊豆は古くから流刑地のひとつでした。『続日本紀』によると文武天皇3年(699年)、葛木山の呪術師である役君小角を伊豆島(大島)に流したといいます。保元の乱で大暴れした源為朝も伊豆大島に流されていますし、平治の乱の後には源頼朝が伊豆へ配流されましたが、彼はここを拠点として挙兵し平家を倒すに至っています。
頼朝は鎌倉に幕府を開きますが、挙兵の地である伊豆も重視し、三嶋大社と熱海の走湯権現(伊豆山神社)を鶴岡八幡宮や箱根権現と並んで篤く敬いました。このため幕府の守護神として武門の崇敬を集め、東海道を通る武家は足柄峠ではなく箱根峠を多く利用するようになったといいます。
伊豆北条
頼朝を支援した北条氏は、田方郡北条(現伊豆の国市寺家付近)を本貫地とする在地豪族です。狩野川が田方平野へ流れ出るあたりで、箱根や伊豆国府/三嶋大社、駿河国の沼津や大岡牧とも比較的近い交通の要衝でした。頼朝が配流された「蛭ヶ小島」とはこの北条の地の北東、韮山の麓にあった沼沢地の中の島ともされます。当主の時政は東の伊東氏の娘を娶って儲けた娘を頼朝に娶せ、後には大岡牧を司る牧氏の娘を後妻に迎えています。この姻戚関係により北条氏は御家人たちの間で台頭し、頼朝が薨去すると外戚として権勢を振るい、ついには執権として鎌倉幕府の実権を握るに至りました。以後歴代の伊豆守護は、全て北条氏が占めています。
最後の得宗・北条高時の母である覚海円成(山内禅尼)は、鎌倉幕府滅亡後に伊豆北条の地を安堵されて一族の女性たちとともに移住し、尼寺の円成寺を建立して一門を供養しました。足利尊氏の弟・直義は鎌倉に派遣されて東国の鎮定にあたっており、その一環として行われたものです。足利氏は北条氏とも姻戚関係にあり、尊氏の正室も北条分家の赤橋氏でした。
高時の子・時行は幕府滅亡時に諏訪へ逃れ、信濃・関東の諸勢力を糾合して直義を駆逐し、一時鎌倉を奪還しました(中先代の乱)。しかし尊氏に敗れて鎌倉を追われ、祖母の覚海円成に匿われたようです。奥州から南朝の北畠顕家が南下して坂東に攻め寄せると、時行は伊豆で挙兵して足柄・箱根に兵を進め、顕家に服属して再び鎌倉を攻め落としています。
堀越公方
のち足利尊氏は子の基氏を鎌倉に置いて自らの名代たる「鎌倉殿(鎌倉公方)」とし、母方の従兄弟の上杉憲顕を補佐役(関東執事/管領)に任じて、関八州と甲斐・伊豆を管轄させました。しかし鎌倉公方と関東管領は次第に対立するようになり、室町幕府は関東管領を支援して鎌倉公方を抑え込みます。これに対し、鎌倉公方の成氏は享徳3年(1455年)関東管領を謀殺し、下総国古河に移って周辺の武家を集め、関東は東西に分裂します。
そこで幕府は足利政知を新たな鎌倉公方として京都から送り込みますが、彼は政治的理由から鎌倉に入ることができず、手前の伊豆にとどまりました。初めは韮山の北東にある奈古谷の国清寺を陣所としますが、長禄4年(1460年)4月に成氏方によって焼き討ちされたため、北条氏の拠点であった円成寺付近に移って堀越御所を構えました。これが堀越公方です。
堀越公方は室町幕府の支援と関東探題の輔佐のもと、関東の秩序を回復すべく派遣されましたが、在地勢力との連携が弱いうえ幕府自体も応仁の乱で大混乱しており、思うように機能しませんでした。それでも政知は関東の諸将と協力して成氏と戦い、一時は古河から駆逐しています。また駿河今川氏で御家騒動が起きるとこれに介入しますが、幕府は伊勢盛時を派遣して仲裁させました。また幕府は成氏と和睦して正式な鎌倉公方と認めたため、政知は伊豆一国のみを領有するにとどまります。
代償として、幕府管領・細川政元は政知の子の清晃を将軍候補者に擁立します。伊勢盛時もこの計画に加わり、政知の奉公衆となって伊豆国田方郡の田中郷と桑原郷を所領として与えられ、今川氏親の後見人として駿河平定に尽力しました。しかし延徳3年(1491年)に政知が逝去すると、その後継者を巡って御家騒動が勃発します。
政知の嫡男・茶々丸は素行不良により元服以前に廃嫡されて土牢に幽閉され、異母弟の潤童子が跡継ぎに指名されていました。しかし茶々丸は父の死を知ると牢番を殺して脱獄し、潤童子とその母を殺害して公方の位を簒奪しました。潤童子の同母兄にあたる清晃は次の将軍候補であるため京都を離れられず、やむなく承認されたものの、2年後に清晃が将軍(還俗して足利義遐、改名して義高)になると茶々丸討伐が命じられます。
大義名分を得た伊勢盛時は、居城としていた駿東郡の興国寺城(沼津市根古屋)から伊豆へ侵攻します。政知に授かっていた所領も茶々丸に没収されていたため、これは自己の権益を奪還するためもありました。茶々丸は自派の武家や周辺勢力の支援を受けて頑強に抵抗し、明応4年(1495年)には伊豆大島へ逃れますが、翌年には武蔵を経て甲斐・駿河に侵攻し、明応7年(1498年)までしぶとく戦い続けています。
この年には南海トラフ沿いを震源とする巨大地震が発生し、紀伊から房総にかけて津波が押し寄せ、駿河や甲斐でも山崩れが起きています。茶々丸が南伊豆へ逃げ込んだとする説では、盛時がこの混乱に乗じて一気に攻め寄せたとしますが、実際は甲斐武田氏から盛時に引き渡され自害したようです。
後北条氏
茶々丸を駆逐した盛時は、出家して早雲庵宗瑞と称し、堀越御所の東の韮山城に入って居城としました。彼は堀越公方を復活させることなく、今川氏の武将として伊豆の統治を開始し、相模・武蔵・甲斐・遠江・三河まで遠征して勢力を広げています。永正13年(1516年)には相模を平定して房総半島まで遠征しますが、2年後に嫡男氏綱に家督を譲り、翌年没しました。
氏綱は相模の小田原城に本拠を移し、大永年間(1521-27年)には勝手に「相州太守」を名乗ったうえ、大永3年(1523年)9月頃から「北条」の名字を名乗り始めています。彼の正室(養珠院殿)は「横江北条相模守女」とする記録があり、横江/横井氏は北条時行の末裔を称していたため、妻の実家を継ぐ形で改姓したことになります。伊勢氏は西国から新たに来た余所者として在地勢力からは疎んじられていましたが、韮山は執権北条氏の本貫地でしたから、伊豆や相模、東国一帯に勢力を広げるには、かつて東国の天下人であった「北条」のネームバリューが必要になったのでしょう。
氏綱の父・伊勢盛時の母方の伯父にあたる貞藤(幕府政所執事・貞親の弟)は「横井掃部助時永の娘」を娶ったとも伝えられ、横井/横江氏が京都の伊勢氏とも通婚していた可能性はあります。後世の系譜では甥の新九郎盛時と混同され、「相模の北条氏に養われて北条氏を称した」と誤記されたため、長らく彼の生年が「北条早雲」のものだと誤解されていました。
鎌倉幕府執権であった北条氏に対して、氏綱からの北条氏を「後北条氏」ないし「小田原北条氏」と呼びます。当初は自称でしたが、のち朝廷に願い出て正式に認められ、執権北条氏の古例に倣って左京太夫・従五位下の官位を授かりました。駿河の今川氏は足利氏の分家、関東管領の上杉氏は尊氏の母方の実家、甲斐の武田氏は清和源氏の名門ですから、後付けとはいえ彼らに匹敵する家格になったわけです。家紋も伊勢氏の「対い蝶」から、北条氏の「三つ鱗」に変えました(ちょっと横長にしていますが)。
しかし相模・武蔵を領国としていた扇谷上杉家はこれを認めず、伊勢氏と呼び続けました。彼らは関東管領の山内上杉家と対立関係にあり、相模にある山内上杉家側の勢力を駆逐させるため伊豆から盛時を攻め込ませたのですが、盛時・氏綱はそのまま相模にとどまり、扇谷上杉家の領地も脅かし始めました。氏綱が「北条」を称したのは、扇谷上杉家との同盟を断ち切り、関東に勢力を拡大するためであったようです。
本拠地を小田原城に移した後も、韮山城は伊豆統治の拠点として重要視されました。駿河の今川氏は盛時以来の同盟者ですし、甲斐の武田氏も伊豆まで攻め込むには駿河を越える必要があるため、今川氏が健在なら安心です。氏綱と養珠院殿の子・氏康は今川氏親の娘を正室とし、氏親・氏政・氏照・氏規ら多くの子を儲け、天文13年(1544年)には甲斐武田氏とも同盟を結んでいます(甲相同盟)。これは10年後に甲斐・相模・駿河の三国同盟に発展し、北条氏は関東への進出を強めました。
氏親は16歳の若さで没し、次男氏政が嫡男となります。氏照は武蔵の大石氏の養子となり、氏規は駿府の今川義元のもとで元服しました。ところが義元は桶狭間の戦いで討ち取られ、同年に小田原城には長尾景虎(上杉謙信)が攻め寄せ、東国には戦乱の嵐が吹き荒れることとなります。
◆北◆
◆条◆
【続く】
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