【つの版】倭の五王への道07・東国遠征03
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
『日本書紀』によれば、日本武尊は東海、関東を通って陸奥に至り、武力を用いずして蝦夷を平定しました。ここから帰路です。
◆God of◆
◆War◆
陸奥から甲斐まで
蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、「珥比麼利、菟玖波塢須擬氐、異玖用伽禰菟流」。諸侍者不能答言。時有秉燭者、續王歌之末而歌曰、「伽餓奈倍氐、用珥波虛々能用、比珥波苔塢伽塢」。卽美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部賜大伴連之遠祖武日也。(日本書紀)
日高見国(北上盆地か)より引き返して西南の常陸国(茨城県)を経巡り、甲斐国の酒折宮(山梨県甲府市酒折)に至ります。海路で戻ったようでもありますが、福島市に伝承地があるので仙台から中通り(中山道、東山道)を南下し、那須高原を経て常陸国新治郡に到達したようです。配志和神社からは370kmほどで12日はかかるでしょう。上総上陸が10月末として毎日進軍したとしても、3+5+4+12=24日、もう旧暦の11月末(新暦12月末)です。雪の進軍となったでしょうか。あるいは各地でとどまっており、春や夏に移動したのでしょうか。記紀はこの間の日程について何も記しません。
ただ、酒折宮で尊が「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」と歌で問うと、灯火を司る人が「日々(かが)なべて、夜は九夜、日は十日を」と歌を返したといいます。茨城県筑西市新治から筑波山西麓を南下し、つくば市を経て東京から甲州街道を西へ向かって甲府市まで200kmほど。10日あれば着きます。『常陸国風土記』では常陸各地での「倭武天皇」の活動を記しますが、記紀ではあっさり通り過ぎてしまいます。

あづまはや
於是日本武尊曰「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。
尊は「蝦夷は服属したが、信濃と越国は従っていない」といい、甲斐から北へ向かいます。武蔵・上野を転歴して碓日坂(碓氷峠)に来たといいますから、秩父山地を越えて秩父盆地に入り、埼玉県北部から群馬県へ抜けて西へ向かい、碓氷川を遡って軽井沢あたりまで来たわけです。そこに立って東南の関東平野を見下ろすと、亡き妻(弟橘媛)を偲んで「あづまはや(ああ我が妻よ)」と嘆き、この地を「あづま」と呼ぶようになりました。また上野国のこのあたりを吾妻郡といい、嬬恋(つまごい)村があります。

秩父山地越えはかなりの難事ですが、秩父盆地は早くから拓けていました。甲斐から北へ向かって武蔵に出るとなると、これしかルートがありません。
還上幸時。到足柄之坂本。於食御粮處。其坂神化白鹿而來立。爾即以其咋遺之蒜片端待打者。中其目。乃打殺也。故登立其坂。三歎。詔云。阿豆麻波夜。故號其國謂阿豆麻也。即自其國越。出甲斐坐酒折宮之時。歌曰。 邇比婆理。都久波袁須疑弖。伊久用加泥都流。爾其御火燒之老人。續御歌以歌曰。 迦賀那倍弖。用邇波許許能用。比邇波登袁加袁。是以譽其老人。即給東國造也。(古事記)
古事記では蝦夷や東国を平定した後、足柄坂(神奈川県と静岡県の境の足柄峠)で白い鹿の姿をした山の神を退治し、「あづまはや」と嘆いてから酒折宮に来ています。弟橘媛が入水したのは相模の海ですから、碓氷峠よりは近そうです。甲府までは御殿場から富士吉田を経由するか、富士宮から身延町を経由して鰍沢口に出ることになりますが、いずれもかなりの難所です。
碓氷山は東山道から、足柄坂は東海道から関東平野に入る要所で、これらの地から東を「山東」「坂東」と呼びました。古くは東海道の鈴鹿、東山道の不破、北陸道の愛発(あらち)の関から東を「関東」「東国」と呼び、また「あづま」とも呼んだようです。要は、関東平野を指すのは新しい話です。なお東山道が拓けたのは記紀編纂頃の大宝年間で、武蔵国は771年まで東山道諸国に属していました。
あづまの語源は諸説ありますが、「鶏の鳴くあづま」という掛詞もあり、東を指す言葉には違いありません。ひがしは「日向かし(日の出の方向)」ですが、あづまは「当てつ日見居む間(日が見えるであろう方向)」を指すとも言われます。安曇(あずみ)族が語源なら安曇族の本拠地たる筑紫がそう呼ばれたでしょうし、薩摩や出雲と同じく「つま(端)」からというなら他の国土の端もそう呼ばれたはずです。
信濃から美濃へ
於是、分道、遣吉備武彥於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。則日本武尊、進入信濃。是國也、山高谷幽、翠嶺萬重、人倚杖難升、巖嶮磴紆、長峯數千、馬頓轡而不進。然日本武尊、披烟凌霧、遙俓大山。既逮于峯而飢之、食於山中。山神、令苦王、以化白鹿、立於王前。王異之、以一箇蒜彈白鹿、則中眼而殺之。爰王忽失道、不知所出。時白狗自來、有導王之狀、隨狗而行之、得出美濃。吉備武彥、自越出而遇之。先是、度信濃坂者、多得神氣、以瘼臥。但從殺白鹿之後、踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神氣也。(日本書紀)
還上幸時。到足柄之坂本。於食御粮處。其坂神化白鹿而來立。爾即以其咋遺之蒜片端待打者。中其目。乃打殺也。(古事記)
自其國越科野國乃言向科野之坂神而。還來尾張國。(古事記)
尊はここから吉備武彦を越国(新潟)へと派遣し、自らは信濃(長野)へ向かいました。軽井沢を経て佐久盆地へ出たわけです。信濃は山が深く道に迷いましたが、尊は白い鹿の姿で現れた山の神(古事記では足柄坂の神)をかじりかけの蒜(ひる、ノビル)の根で撃ち殺し、白い犬に導かれて美濃(岐阜県南部)へ抜けました。千曲市上山田の波閇科(はべしな)峠を通ったと社伝がありますから、安曇野へ抜け、南下して諏訪を通り、伊那盆地を南下して恵那へ向かったのです。

古事記では甲斐から北上して科野(信濃)に入り、科野の坂神を平定して尾張へ帰ったとされ、北杜市から茅野市、諏訪市へ抜け、伊那盆地へと向かうルートです。つまり古事記では佐久盆地や安曇野は通っていません。
信濃国伊那郡と美濃国恵那郡の境を神坂峠といい、古くから東山道の難所でした。尊が神を退治したのはこことされ、麓の昼神(ひるがみ)温泉は蒜を噛んだことに由来します。後世には比較的ラクな北側の馬籠峠越えルートに変更されています。
これ以来、山を越える者は蒜の根を生で噛んで人や牛馬に塗り、山の神の気にあたらぬようにしたといいます。ネギ属の植物の根は生で食べると口がヒリヒリして強い臭いを放つため、古来魔除けとされました。アイヌではギョウジャニンニクを病魔除けとする風習がありますし、欧州でも護符として用いられました。吸血鬼がニンニクを嫌うというのはここから来ています。
吉備武彦は恵那市の手前、岐阜県中津川市津戸で尊と合流したと伝えられます。ということは、前橋から北上して沼田を通り、魚沼や長岡、柏崎あたりへ抜けた後、上越・糸魚川・富山と進み、神通川を遡って飛騨地方を南下し下呂から中津川へ下ったことになります。これもかなりの大冒険です。距離的には碓氷峠から中津川までの倍以上ありますが、よく合流できましたね。

伊吹山の神
日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒神、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。至膽吹山、山神、化大蛇當道。爰日本武尊、不知主神化蛇之謂「是大蛇必荒神之使也。既得殺主神、其使者豈足求乎。」因跨蛇猶行。時山神之興雲零氷、峯霧谷曀、無復可行之路、乃捷遑不知其所跋渉。然凌霧强行、方僅得出、猶失意如醉。因居山下之泉側、乃飲其水而醒之、故號其泉、曰居醒泉也。(日本書紀)
還來尾張國、入坐先日所期美夜受比賣之許。於是、獻大御食之時、其美夜受比賣、捧大御酒盞以獻。(略)故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。於是詔「茲山神者、徒手直取。」而、騰其山之時、白猪、逢于山邊、其大如牛。爾爲言擧而詔「是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺。」而騰坐。於是、零大氷雨打惑倭建命。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身。因言擧、見惑也。故還下坐之、到玉倉部之淸泉、以息坐之時、御心稍寤、故號其淸泉、謂居寤淸泉也。(古事記)
尊は美濃から南下して尾張に戻ると、宮簀媛を娶って数ヶ月を過ごします。やがて近江の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、草薙剣を宮簀媛に預けて素手で退治に行きます。すると山神が化身した大蛇(古事記では白い猪)が現れましたが、「神の使いだろう」と言い放ったところ、神は怒って吹雪を起こし、尊は道に迷ってフラフラになります。ようやく下山して泉の水を飲むと正気づいたので、ここを居醒泉(滋賀県米原市醒井)と名付けました。どうも彼は神をナメてかかる悪癖があるようです。美濃側から登って近江側に降りたのでしょうか。
伊吹山とは美濃と近江の境に聳え立つ名峰です。標高は1377mと富士山や日本アルプスの山々には及びませんが、冬の季節風が濃尾平野へ強く吹き下ろす(伊吹おろし)ことから神の住む山として畏怖されました。また美濃側の南麓には東山道の不破関、関ヶ原があり、ここから東を関東と呼んだように日本の東西を分ける要衝でもあります。

醒井はもはや琵琶湖の目の前ですから、ヤマトへ帰るのなら船に乗って大津へ渡り、後は道なりに南下すれば済みます。しかし日本武尊は先へ進まず、なぜか美濃へ戻り、伊勢を経てヤマトへ戻ろうとします。従者たちは文句も言わず、彼に従って移動します。
美濃から能褒野へ
日本武尊於是、始有痛身、然稍起之、還於尾張。爰不入宮簀媛之家、便移伊勢而到尾津。昔日本武尊向東之歲、停尾津濱而進食。是時、解一劒置於松下、遂忘而去。今至於此、是劒猶存、故歌曰、「烏波利珥、多陀珥霧伽幣流、比苔菟麻菟阿波例、比等菟麻菟、比苔珥阿利勢麼、岐農岐勢摩之塢、多知波開摩之塢」(日本書紀)
自其處發、到當藝野上之時、詔者「吾心恒念、自虛翔行。然今吾足不得步、成當藝當藝斯玖。」故號其地謂當藝也。自其地、差少幸行、因甚疲衝、御杖稍步、故號其地謂杖衝坂也。到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀不失猶有、爾御歌曰、「袁波理邇、多陀邇牟迦幣流、袁都能佐岐那流、比登都麻都、阿勢袁、比登都麻都、比登邇阿理勢婆、多知波氣麻斯袁、岐奴岐勢麻斯袁、比登都麻都、阿勢袁」(古事記)
尊は醒井から東へ向かい、関ヶ原を抜け、牧田川を渡って右岸沿いに下り、当芸野(たぎの、美濃国多芸郡、現養老町の多岐神社付近)に至りました。そこで「故郷まで飛んで行きたいのに、私の歩みは覚束ない(たぎたぎし)」と言い、ここを当芸と名付けました。そこから少し進みましたが、疲労困憊で杖にすがって歩いたため、そこを杖衝坂(つえつきさか)といいます。場所は四日市市と言われますが、その先では尾津(桑名市多度町尾津神社)へ立ち寄っているため海津市のどこかでしょうか。歩みが覚束ないなら揖斐川を船で下れば早そうなものですし、日本書紀では「尾張に還ったが宮簀媛の家には寄らず、尾津へ渡った」としています。
ともあれ尾津に着くと、そこの松の木の下には東征出発前に置き忘れた剣が残っていました(草薙剣とは別)。尊は松を讃えて「尾張にまっすぐ面する尾津の崎の一本松よ、ああ。お前が人であったなら、衣を着せて、太刀を佩かせてやるのだがなあ」と歌ったといいます(この地にそういう歌があったのを、草薙剣を置き忘れた日本武尊の伝説に結びつけただけです)。
自其地幸、到三重村之時、亦詔之「吾足、如三重勾而甚疲。」故、號其地謂三重。(古事記)
多度を過ぎてさらに南下し、三重村(三重県四日市市三重、伊勢国三重郡三重郷)に来た時、「私の足は疲労の余り三重に曲がったようだ」と尊が言ったので、ここを三重といいます。三重県の名は、明治5年に三重郡四日市市に県庁が安濃津(津市)から移転して安濃津県が三重県と改称されたためです。翌年には安濃津に県庁が戻っていますが、県名は残りました。
逮于能褒野、而痛甚之。則以所俘蝦夷等、獻於神宮。因遣吉備武彥、奏之於天皇曰「臣受命天朝、遠征東夷、則被神恩・頼皇威而叛者伏罪・荒神自調。是以、卷甲戢戈、愷悌還之。冀曷日曷時、復命天朝。然、天命忽至、隙駟難停、是以、獨臥曠野、無誰語之。豈惜身亡、唯愁不面。」既而崩于能褒野、時年卅。(日本書紀)
自其幸行而、到能煩野之時、思國以歌曰、「夜麻登波、久爾能麻本呂婆、多多那豆久、阿袁加岐、夜麻碁母禮流、夜麻登志宇流波斯」(略)歌竟卽崩。爾貢上驛使。(古事記)

そこから20kmほど南西へ進み、能褒野(三重県亀山市)に来たところで動けなくなりました。古事記ではやたらと和歌が挿入されていますが、日本書紀では捕虜にした蝦夷を伊勢神宮へ献上し、吉備武彦をヤマトへ遣わして報告させてから亡くなっています。
天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。(略)卽詔群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。(日本書紀)
於是、坐倭后等及御子等、諸下到而作御陵(略)於是化八尋白智鳥、翔天而向濱飛行。爾其后及御子等、於其小竹之苅杙、雖足䠊破、忘其痛以哭追。(略)故自其國飛翔行、留河內國之志幾、故於其地作御陵鎭坐也、卽號其御陵、謂白鳥御陵也。然亦自其地更翔天以飛行。凡此倭建命、平國廻行之時、久米直之祖・名七拳脛、恒爲膳夫、以從仕奉也。(古事記)
尊は能褒野に葬られましたが、その霊魂は白鳥(八尋白智鳥)となり、西へ飛び去りました。日本書紀では倭(ヤマト)の琴弾原(御所市富田白鳥陵)に一度、河内の古市(大阪府羽曳野市)に一度降り立ったのち、天に昇って行きました。それで降り立った地に陵を作り、白鳥陵と呼んだといいます。時に景行天皇43年といいますから、3年間の大遠征だったようです。あるいは白鳥出現のあと陵が作られた時期をいうのでしょうか。古事記ではヤマトに降り立たず、河内の志幾にだけ降り立っています。
それぞれの陵墓の位置には諸説ありますが、能褒野王塚古墳は4世紀後半の前方後円墳で、墳丘長90mとさほど大きくはありません。もう一つの候補である鈴鹿市白鳥塚古墳も墳丘長80mの帆立貝型古墳で、築造は5世紀前半です。御所市の白鳥陵は28×45mの長方形墳墓、羽曳野市の軽里大塚古墳は墳丘長190mとそこそこ大きいものの5世紀後半の築造です。要はもとの被葬者が忘れられた後、日本武尊の陵墓として適当に決めたものに過ぎません。
長旅お疲れさまでした。ヤマトタケルは実在したでしょうか。小碓命という王子はいたかも知れませんが、神話伝説が山程盛られて実在も定かでなくなり、7世紀から8世紀初頭当時の政治的状況から新たに創り出された存在だろうと、つのは思います。アーサー王もそんな感じで作られました。国の歴史にはこうした英雄譚も必要なのだなあ、という程度の感慨はあります。
◆Swan◆
◆Song◆
ともあれヤマトタケルの魂は白鳥と化して西へ飛び去り、河内に陵があると語られています。4世紀後半、倭国にはその西方から使者が訪れ、河内から西の海の彼方への大遠征が始まるのです。
【続く】
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