私のエデン(第2話)
気がつけば梅雨の時期が訪れようとしていた。ほ
高校生活最後の総体ということもあり、教室は妙に浮き足立った運動部の人達の姿が見られた。
一方私はやれテストだ、やれ委員会だと地味にバタバタしていた。
それもようやく落ち着き、あの日から3週間以上経った今日、再び研究所を訪れていた。
とはいえエデンはそう頻繁に行き来していいものではない。元々は死の淵にいる人のため──つまり、一往復して終わりというのを前提に考えて作られたものだ。私のような健常者が何回も足繁く通って利用するものではない。
「久しぶり」
「今日は1時間だけだ」
約1ヶ月ぶりだと言うのに相変わらずそっけない。
私の挨拶に返事も返さず要点だけを告げると、佐野は部屋から出て行った。
いくらなんでも不用心すぎる気がしたのだが、どうせ私には何も出来ないし、私以外の人間が来ることもない。軽く肩を竦め、私はカプセルのスイッチを押すと、エデンに向かうための準備をしたのだった。
強烈な熱気に包まれている体育館。ちょうど、ウチの学校がバスケの試合をしている最中だ。相手はかなりの強豪校だと聞いていたが、今のところ点差はそこまで開いていない。
「アオイくん、今日もかっこいいね!」
「去年の優勝校相手に戦えてるもんねー!」
知り合いの名前が聞こえコート内に目を向けると、見慣れた姿がそこにあった。
アオイくんことアオイカナタ。私の恋人である彼は、3年生ながら敵味方問わず女子の視線を独り占めしていた。
カナタはテレビの俳優さんのように目鼻立ちが整っている。さらに、バスケ部にはあまりいない黒髪短髪で、チャラチャラした雰囲気がないため、いつしか「王子様」と呼ばれる存在になっていた。
嘘か誠か、ファンクラブが存在し会員は100人を余裕で超えるらしい。さらに、女子高校生だけではなく、小中学生から大学生、選手たちのママさんたちまで虜にしている、なんて話まである。
そんなことを考えながらカナタを眺めていると、ちょうど点を入れたところだ。
観客席のあちこちから、黄色い悲鳴と、恍惚としたため息が聞こえてくる。
私はと言えば、カナタの騒がれっぷりも、活躍ぶりもすでに見慣れたもののため、特に何の感想も抱かなかった。
ほどなくして試合終了の音が鳴り、私は外に出ることにした。
室内にいたからか、外の光がずいぶんとまぶしく感じる。太陽はちょうど真上にあり、容赦なく私を炙る。
夏の代名詞、入道雲が遠くの空をもくもくと埋めつくしている。あの雲の上で寝たら気持ち良さそうだなどと子どもじみたことを考える。
こうしてみると、エデンも現実も区別がつかない。元々そういう目的だから構わないのかもしれないが、私のようなそこそこ健常者さえエデンがもたらす誘惑に完全に抗えているわけではない。
エデンの誘惑─ずっとこの世界で生きること。
出来なくはない。現実の私が死んだらそこで終わりという、ただそれだけの話だ。痛みも苦しみもなく、眠るようにこの平和で幸せで愛に満ち溢れたこの世界で命を終えられるのなら、喜んでエデンに残ることを選ぶだろう。
少なくとも、お金のために日々あくせく働き、好きだ愛してると言いながら平気で裏切ったり、夢も希望も断たれて絶望の中を死人同然で過ごしたりするより、よっぽどいい。
「おっ!来てくれたんだ!」
背中に投げかけられた声にくるりと振り向くと、カナタの姿があった。
「お疲れ。ここにいていいの?」
「ああ。試合には勝ったし、ミーティングも後でだから」
「そっか。…汗、ちゃんと拭きなよ?それに上着も羽織っていないし。身体冷えちゃうよ」
首に申し訳程度にかけられているタオルは使われた形跡がない。おまけにユニフォーム姿のままだ。いくら試合の後とはいえ、風邪を引かないか心配になってしまう。
「大丈夫!バカは風邪引かないって言うじゃん?」
「自分で言わないでよ…」
苦笑いしながら、タオルで顔周りを流れる汗を拭いてあげると、「もっと」と軽くかがんでねだってくる。
「自分で拭きなよ」
「気持ちいいんだよ、リカに拭いてもらうの」
水浴びしたワンコよろしく、髪から滴り落ちる汗をわしゃわしゃと拭いてあげれば、カナタはくすぐったそうに笑った。
「なぁリカ。今日はもう帰っちまうのか?」
「そうだね…時間はあんまりないかも」
「じゃあさ、ちょっとだけ喋ろう!」
皆に怒られないかな、とも思ったが、ここはエデン。私が望めば何でも叶う世界。そして、カナタが喋ろうと誘ってくれているのは、私の願望が反映されているから。
「うん、いいよ」
「やった!なあ、今日の俺、カッコよかった?」
「何なの、その話題」
ぷっと吹き出して笑えば、カナタも嬉しそうな顔をする。
「いや、惚れ直してくれたかなーって思ってさ」
「私の周りにいた女の子はカッコいいって言ってたよ」
「そうじゃなくて!俺はリカがどう思ったか聞いてんの!」
唇を尖らせて拗ねる彼の肩に、私は軽く頭を乗せた。
「…カッコよかったよ。もっと好きになった」
「そっか…。ありがとな、見に来てくれて」
カナタがそっと私の肩を抱き寄せてくれる。この温もりが、耳に感じる吐息が、現実となんら変わらないのだ。現実では私は一人ぼっちなのに、エデンには友人も恋人もいる。幸せなのだ。
「…帰りたくないな」
ぽつりと本音を漏らせば、カナタは小さくため息をつく。
「ここでそれは禁句だぞ、リカ。ちゃんと帰らないと」
カナタはちゃんと分かってる。私が今言った『帰りたくない』は、エデンから離れたくないという意味なのだと。
エデンの中の人は、自分がプログラムされた存在だと理解している。現実の使用者を守るために、帰ることを拒む人をきちんと現実に還す役割を担っているのだ。
もちろん、強制ログアウトもできる。しかし、それは使用者にとって非常に危険な行為で、自分の意志で戻らないと脳と肉体の乖離──いわゆる脳死に近い状態になってしまう可能性が高まるのである。
「分かってるよ。ちょっと言ってみただけ」
冗談めかして答えれば、そんな私の心さえも見透かしたようにカナタはぽんぽんと頭を撫でてきた。
「現実の里香がいるからエデンのリカがいるんだ。それを忘れちゃダメだ。ここはリカにとっていい所なのは分かっている。でも、里香にとっては良くない場所なんだ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと話してくれる。こんなに心地いいのに、どうしてこんなにも悲しくなるんだろう。
リーン、リーン、リーン、リーン…
「カナタ」
「時間だな。また会いに来てくれよなっ!俺は、いつでもリカのことを待っているからさ」
明るく笑って手を振るカナタに、私も泣き笑いの表情で応えた。
「うん、またね」
エデンから戻ってみれば、佐野もまた研究室に戻ってきていた。エデンの中での会話を彼が知る由もないが、何となく佐野に顔を見られるのが怖くて、私は挨拶もそこそこに逃げるように部屋を後にした。
自宅に帰ったあと、カナタとの今日の会話に思いを馳せていた。
エデンは私が望んだ世界だ。カナタの存在も、今日大会が開かれていたのも、会話も全て、私が心のどこかで望み続けていたことなのだろう。
だが、どうにもやるせなくて、ずっとエデンにいられたらなとどうしても思ってしまう。この空虚な家にいると余計にそう感じるのだ。
「…ダメだよ、私。エデンは、現実じゃないんだから…」
口から零れた独り言は、どこへともなく消えていった。
長かった4時限目も終わった。私はいつも教室の隅で持参した弁当を食べている。たまにコンビニの物もあるが、基本は残り物を詰めることが多い。
学食もあるのは知っているが、混雑しているのが目に見えて分かるため、一度も足を運んだことはない。購買もまた同じで、名札や上靴を買うくらいしか行った試しがない。
(…人が多いところって、苦手)
弁当をつついていると、クラスの女子の話し声が聞こえてきた。
「ねーねー、隣のクラスにカッコイイ人がいるの知ってる?」
「あー、バスケ部のでしょ?」
「そうそう!爽やか系イケメンって感じの人!」
(……っ!)
会話の内容に思わず吹き出しそうになる。カナタの特徴と合致していたからだ。断っておくが、私は隣のクラスにいる爽やか系バスケ部男子の存在を知っていたわけではない。
「彼女とかいるのかなぁ?」
「んー、いそうじゃない?」
「黙ってても女の子の方から寄って来そうじゃん!」
「えー、そうかなぁ。ちょっと狙ってたのに」
「無理無理!理想高そうだし」
「あーそうだよね」
「もしかしたら、裏で女の子とっかえひっかえしてたりして!」
「そういえば、前2組の女の子泣かせてたって聞いたことある!」
「じゃあじゃあ、やっぱり遊んでる説アリ?」
「やっぱ外側だけだって。やめとこうよー」
(…散々な言われようだなぁ)
その男子のことを大して知りもしないが、さすがに気の毒になる。現実のイケメンというのは、良くも悪くも印象に残り、噂が一人歩きしてしまう存在なのだなとしみじみと思った。
そうしてカナタのことを考えるうちに、彼に会いたくなった。
「ねぇ、カナタは私のことが好き?」
久しぶりにエデンを訪れた私は、カナタと二人公園に来ていた。夕方の公園は親子連れや散歩中の人もたくさんいて、小さな遊園地みたいに賑やかだった。
こういう賑やかさは嫌いじゃない。
「どうしたんだよ、急に」
「いいから答えてよ。」
半分は冗談だが、半分は本気で聞いてみた。聞きながら、バカみたいだなとも思った。エデンは私が創った世界なのに。カナタは、私が創った存在なのに。
「…リカは、どう答えて欲しいの?」
困ったように笑う彼。西日が透けて、髪が金色に輝いて見える。そのまま陽の光に溶けて消えてしまいそうな儚さを感じ、私は彼の腕を掴んだ。
彼はまだ、ここにいる。
「私の言葉じゃなくて、カナタの気持ちが聞きたいの」
ねだるように言葉を返す。私だって、本当は気づいてる。カナタの言葉は、私の思考。彼が今そうたずねた理由は、心のどこかで私がそう思ったから。
証が欲しいだけなのだ。私は生きていると。カナタも生きていると。何でもいいからカナタ自身の言葉が欲しかったのだと。
例えそれが叶わないとしても。
カナタは、私が消えれば存在できない存在だ。いや、そもそもいないのだ。分かっている。分かっているのに、心のどこかでは彼もまた現実を生きていて、私のようにエデンを訪れる存在だと思い込みたい自分がいるのだ。
「…好きだよ。俺は、リカが好きだ」
絞り出すように小さく答えたカナタ。それが貴方の本心じゃないことを、私は知っている。私が聞きたい言葉を言っているだけなんだと。
その証拠に、彼の瞳はまるでガラス玉のように、何の感情も宿していなかった。
届かない想いが胸を打つ。苦しくて泣きたくなれば、カナタもまたそっと瞼を伏せる。私に胸の内を読まれるのを拒むように。
「…嬉しい、ありがとう。私もだよ」
まるで答え合わせのような返事だ。日差しは暖かいのに、私とカナタの周りだけがひんやりと冷たく感じる。
きっと、私の目もカナタと同じなんだろうな、と思った。
私の方が、よっぽど生きていないみたいだ。
カナタは私が願い生まれた存在。だから私が彼をいらないと思えば、彼の存在はなかったことになる。
現実は違う。生きたいと思えば生きていける。例え誰に必要とされていなくても。
願われなければ消えてしまうのと、願われなくても存在し続けられるのは、果たしてどちらがいいのだろうか。
エデンの存在は、空虚な世界だなと思った。
エデンから戻ってくれば、いつもと変わらぬ佐野の姿があった。そのことに安堵している自分がいて、そんな自分を不思議に思った。
私はエデンにいたいと思っているのに、どうして佐野の姿を見ると安心するのだろうか、と。
「…ただいま」
小さく呟くが、相変わらず返事はない。ため息をついてカバンを手に取ると、背中に人の気配を感じた。
「…っ!」
驚いて振り向けば、佐野が私のすぐ後ろに立っていた。
「な、何…?どうかした?」
「エデンに行くのはやめた方がいい」
「…は?」
突然告げられた言葉に呆然とする。そんな私にはお構い無しに、佐野は言葉を重ねた。
「エデンには、もう行くな。帰って来られなくなる」
「ど…いう意味?」
「そのままだ。お前、最近エデンから帰るのをためらうようになっただろう」
ギクリと身体を強ばらせれば、やっぱりとでも言いたげに佐野は鼻を鳴らした。
「エデンは、元々一度きりの使用に限っている。それは何故か?使用者のお前なら、身に染みて分かるだろう」
「…それは」
「エデンの存在は、ドラッグやアルコールとなんら変わらない。回を重ねる事に、それがもたらす依存性は高まっていく。偽りの幸せと分かっていても離れられなくなる。現実というものから目を背け続けてまでな」
佐野の一言一言がとてつもなく重い。
「このままいけば、お前はやがてエデンから戻るのを拒むだろう。家庭環境や学校生活云々の話は理解できるが、それはエデンに引きこもっていても変わるものではない」
「そんなこと、分かって…!」
「いや、分かっていない。分かっていないからここにいる。俺はいつも聞いているだろう?『高校生とは、そんなに暇なのか』と」
「…っ」
何も言い返せずに俯くと、肩をポンと叩かれた。
「…少し感情的になった。すまない。だが、このままではどの道お前にとって良くない方へ進んでしまう。今一度、よく考えるんだ」
「…じゃあ。じゃあ、何のために私を実験に引きずりこんだの!?」
「あの日のことは…」
「覚えているよ!自分で同意したのも!これがただの八つ当たりだってことも!でも…でもっ…」
目から熱いものが溢れる。佐野は悪くない。選んだのは私だ。なのにどうしてか、気持ちが収まらない。自分の弱さが許せなかった。
「…少し、話さないか」
「…話すって、何を?」
「…昔のことを、だ」
目を逸らして言いにくそうに口を動かしている。気を使ってくれているのだ、と分かったのは、目の前にハンカチを差し出された時だった。
「慰めるのヘタ」
「そんなつもりはない」
思わず笑って言えば、佐野はムスッとした顔でモニターの方に戻っていく。
「あっ、ちょっと待ってよ!話そう!」
佐野の背中に向かって声をかけると、くるりとこちらを向いた。
「コーヒーくらいしかないぞ」
奇妙なものだ。佐野とは2年くらいの付き合いだが、その間一度もこうして向かい合って彼が淹れてくれたコーヒーを飲んだことはなかった。温もりが手のひらから身体へと伝わっていき、強ばっていた心をもほぐしてくれた。
「こんな時間も、たまには悪くない」
佐野も同じことを思ったのか、目元がほんの僅かに緩んでいる。いつも眉間に皺を寄せ、人を寄せつけない冷たい目をしていた彼の表情に、私は釘付けになった。
「…何だ、その何か言いたげな顔は」
「いや…佐野も人の子なんだなって」
「は?何なんだ一体」
スラリとした細い指が華奢なカップの持ち手を掴む。まるで貴族のように優雅な所作だ。こうして見るのは初めてだが、実は佐野はいいとこの出なのかもしれない。
「…さて、何から話そうか」
「えっ?本当に話すの?」
「そのつもりだが」
「待って、心の準備が」
「いらないだろう?」
しれっと言い放つ佐野に対し、私は混乱するばかりだ。そもそも、こんなによく喋る佐野を私は知らない。
「お前と出会った時より遡るとなると…大分長くなるな」
「…それでも、私は聞きたい」
「…つまらん話だぞ」
「いいから、聞かせて?佐野のこと、エデンのこと…もっと知りたいなって思ったから」
意外そうに目を丸くする。固唾を飲んで成り行き待てば、佐野はやがて諦めたようにふぅと息を吐いた。
「俺がここを作る前は、別の研究所にいた。エデンと同じように、末期の患者に対して幸福な最期を与えるために始めた研究だった」
ぽつり、ぽつりと言葉が置かれる。私の知らない過去の佐野を思い浮かべながら、私は黙って続きを待った。
「昔は『孤独死』というものが多かった。最期の時、誰にも看取られずに死んでいく…そんな辛い終わりを迎えて欲しくない、人には誰しも幸せな瞬間があったはずだ、そう思い研究を始めたのがきっかけだ。
最初は失敗の連続だった。人体での臨床など、夢のまた夢だった。あまりにも難しく、あまりにも依存性が高く、そしてあまりにも危険だった。
だが、チームの皆と支え合い、臨床の一歩手前までたどり着いた時、事件が起きた」
佐野の表情が翳る。先程までの希望に満ちた顔とは一転して、重く暗いものが肩にのしかかっているかのような姿に、私は思わず息を飲む。
「私以外のチームメンバーが、研究を持ち逃げしたのだ。よりにもよってライバル会社にな。チームリーダーの私は責任をとって辞職を余儀なくされていた。…しかし、社長の鶴の一声により、私はこんな辺ぴな場所で一人研究を続けられることになった。なぜなら、アイツらが持ち逃げしたものはまだまだ試作段階。そしてエデンに関する機密は私の脳に入っている。彼らが持ち逃げした資料はほんの断片に過ぎない」
クックッと小さく声を上げて笑う佐野。何がおかしいのかと訝しめば、だんだんと佐野の笑い声は大きくなり、ついには研究室全体に響くくらいになった。
「ハハッ…すまない。いや、アイツらが持ち去ったのがゴミクズに等しいと思うと、笑いが止まらなくてな。結局、チームの誰もがエデンのことを真に理解していなかったのだ。笑わずにいられるわけがない」
「佐野を持ち出せば良かったのにね」
冗談めかして言えば、「まったくだ」と嘲笑う。
「この出来事の後に出会ったのが、君だ」
佐野との出会いは、今でも覚えている。
あれは高校1年生の夏のことだった。
道で落し物を探していたスーツ姿の男性を見つけ声をかけたのがきっかけだ。
「何かお探しですか?」
知らんぷりして通り過ぎることもできたが、道端にカバンの中身をぶちまけてまで必死に探し物をしている様子に、見かねて声をかけたのだ。
「……」
ジロリと睨みつけられ、やっぱり声をかけなきゃ良かったかなと思っていると、
「…すまない。手伝ってもらえるだろうか」
次の瞬間には眉を八の字にした顔になったのだ。
最終的に探し物は見つかった。彼の内ポケットに入っていたのだった。愛用のボールペンだというそれは、男性の手には不釣り合いな華奢なデザインの物だったので、ちょっと意外に思ったことを今でも覚えている。
そのまま立ち去ろうとしたのだが、今度は彼から呼び止められたのだ。
「助けてくれた礼がしたい」
いらないと断ったのだが、彼もまた頑として引き下がらず、近所のカフェでケーキをごちそうになることで手を打ったのだ。
その時に色々話したのだ。学校のこと、両親のこと、進路や未来のこと…。見ず知らずの人間に話す内容にしては幾分重い気もしたが、私ももういい加減誰かに喋ってしまいたかったのかもしれない。それに今までの自分と関わりがなかったからこそ、何も気にすることなく胸の内をさらけ出せたとも思う。
スーツ姿の彼──佐野は、特に肯定も否定もせず私の話を聞き続けてくれた。そして、ケーキと紅茶でお腹も満たされ、おいとましようとした時になって、ようやく口を開いたのだ。
「私の研究に協力してもらえないだろうか」
今度は、佐野が堰を切ったように語り始めた。自分は研究者だということ、エデンなるものを実用段階にするために被験者が必要なこと、お金はいらないし協力できる日だけで良いということ、その他諸々注意事項。
最初は胡散臭いなと思っていたのだが、佐野のクールな印象に似合わず熱く語られたことと、例え騙されていたとしてもこれ以上人生が悪くなることはないだろうと思い、佐野が説明を終える頃には、私はエデンの研究に協力する気持ちを固めていた。
「何だか懐かしいね」
「…まあ、そうだな。私もあの日のことは、今でもハッキリと思い出せる」
(えっ、佐野も?)
まさか彼が覚えているとは。その考えがどうやら顔に出ていたらしく、「ボールペンは私の大事なものだからな」と彼はそっぽを向いた。
(…照れ隠し、なのかな)
普段あまり表情を動かすことがない佐野の、レアな姿を見れたことを嬉しく思った。
退屈な校長の話が続く。長期休みの前はいつもこうだ。そんなにつらつらと喋られても、真夏の日差しに炙られた灼熱の体育館の中で真面目に聞けと言う方が無理だ。大事な話なのは分かっているが、正直なところ紙に書いて各自読みなさいの方がいい気もしてくる。
ようやく解放された時にはすでに11時を過ぎていた。ここから荷物を持って下校となる。
ピンポーン
静かな室内に響く玄関チャイムが来客の存在を告げた。年に数回しか鳴ることはない。何となく嫌なものを感じ、息を潜め気配を消す。
ピンポーン ピンポーン
執拗に鳴らされるチャイム。そっと壁のモニターに近づき、扉の向こうにいる人物を確認する。
「...っ!」
映し出されていたのは母の姿だった。もう二年近く会っていない。何故今更? 疑問符が脳内を掻き乱す。
ピンポーン ピンポーン
黙ってやりすごそうかとも思ったが、相手の用件が分からない以上、無視し続けることが最良とは言えない。それに母は確か合鍵を持っていたはずだ。もしかしたら、中に入って来るかもしれない。
一つ大きく深呼吸をしたあと、私はわざと足音を立てながら慌てたフリをして玄関へと向かった。
「はい...」
「ちょっと、遅いじゃない。鍵を出すのが面倒なんだから、さっさと開けてちょうだいよ」
「ご、ごめんなさい」
やはり、鍵を持っていた。
冷たい汗が私の背中を伝っていく。
「ま、いいわ。中に入れて」
「何のお構いもできませんが...」
「いいわよ別に。すぐ帰るから」
そう言って玄関で雑に靴を脱ぎ捨てた母は、ズカズカと部屋の中に入っていく。見栄っ張りな母の好みそうな真っ赤なハイヒールを綺麗に並べ直し、私は慌てて母の背中を追った。
「相変わらず小汚い部屋ね」
かたや生活感のある部屋。かたや真っ赤なワンピースに茶髪でロングパーマの女。恐ろしく不釣り合いな組み合わせに軽い目眩を覚える。いっそのこと倒れてしまった方が母は諦めて帰ってくれそうなのに、不似合いなコントラストに頭がクラりとしただけで、他は至って正常だ。
「えっと、何かご用ですか?」
「成績表」
ずいっと手を前に出し催促される。今まで気にしなかったのに…と思いつつカバンに入れっぱなしだった書類を出す。
「ふぅん…平凡ね」
チラッと中身を見ただけですぐに放り投げられた。
「ホント、あなたのような出来の悪い娘を持った私は可哀想だわ」
「……」
成績はオール5とまではいかないものの、4か5しか並んでいない。コメント欄に書かれた担任からのメッセージも褒められた内容である。なのに、何が気に食わないのか。
「もっと人に自慢できる成績を残しなさい。このままじゃ、大した人生にならないわよ」
この母親に言われたくない、という気持ちを出さぬようギリッと奥歯を噛み締めた。反抗すれば私の逃げ道を理不尽な言葉で塞ぎにかかる。余計なことを言わず、反省したふりをすればいい。
「すみませんでした。次の成績では、もっと人に誇れるものになるよう努力します」
自慢したいのは母だ。私じゃない。確かに100点をとれたら嬉しいし、通知表の評価が高いと努力を認められたような誇らしい気持ちになる。
だけど、それを人に自慢したりするつもりはない。
母は私の評価を周りに自慢して、自分の子育てや母親振りがいかに優れているかをアピールしたいだけなのだ。
娘すらも自己満足の踏み台にする母には、正直嫌悪感しかない。だが、母の不況を買うようなことさえしなければ、私は自由でいられる。
母に、母という役割を期待することは、とうの昔にやめたのだ。
「そうね。頑張りなさい。必要なら塾や家庭教師も視野に入れてね。お金はあるから」
「...はい」
「そういえばあなた、彼氏はいるの?」
「...いえ、いません」
カナタはエデンの中だけの存在だ。母は私が研究に協力していることを知らない。だから、嘘では無い。
「あらそうなの。可哀想に。まあ、あなたのような不細工な小娘を好きになる人なんていないものね。...でもまぁ、もし彼氏ができたら紹介してね」
母は、恋愛への執着心が異常に強い。依存と言ってもいいかもしれない。今も何人の男と関係を持っているか分からない。顔の良い人ばかりを選び、私と常に張り合おうとする。
自分の劣化版だと母は思っている。だから、私が自分より良い男性と付き合うのを牽制する。
(昔からよく言われたっけ...「あなたを愛してくれる人なんてどこにもいないのよ」って)
母は一度も私の顔を見ずにそう言い放った。
部屋に日差しは差し込んでいるのに、指先がどうしようもなく冷たい。ギュッと拳を握るが感覚がない。遠くで鳴く蝉の声も、どこか浮世離れに感じる。
私は、何のためにここで生きているのだろうか。
母が帰ったあと家にいるのが嫌になり、気づけば自然と足が研究所へと向かっていた。
ここはいつ来ても同じだ。建物の周りは四季折々の変化を見せるが、一歩中に入ってしまえば、いつも綺麗で、いつも無機質で、いつも冷たく感じる。そのよそよそしさが、私にはありがたい。狭山家の里香でも、サヤマリカでも、高校生の里香でもリカでもないこの場所が、一番私らしくいられる気がした。
多分、佐野が私をただの「人」としてしか見ていないからそう感じるのだろう。高校生だとか、女だとか、そんなものは佐野には関係ない。彼に必要なのは健康な被検体。つまり、私じゃなくてもいいのだ。だからなのか、私も佐野の前では取り繕わない。嫌われたいわけではないが、かといって好かれたいわけでもない。不思議な関係だな、と私は思う。
だって、自分らしくいられるのは、エデンの方だと思うのに。
『認証しました』
聞きなれた合成声音にハッと我に返った。ぼんやりしながら歩くうち、いつの間にか佐野のいる部屋にたどり着いていたらしい。
「......」
佐野は手元の書類に目を通していて、顔を上げようともしない。
「ちょっと、人が来たのに気づいていないの?」
「認証の声は聞こえた」
「私じゃなかったらどうするのよ!」
「有り得ない」
その根拠なき自信はどこからくるのだろうか。昨今では偽造が大流行しているというのに。
「エデンに行きたい」
「勝手にしろ」
いつになく冷たく突き放され、思わずムッとした。
話を聞いて欲しかったわけではないが、かと言って雑にあしらわれるのも癪に障る。
「はいはい、分かりましたよーだ!」
書類を見続けている佐野に背を向け、私はエデンへと向かった。
チリン チリン
目を開ければ、青空の下、私はベンチに座っていた。視界の先にはカラフルな公園の遊具が子どもたちが来るのを静かに待っている。
私以外誰も公園にいないらしく、木の葉の擦れる音と雀の鳴き声以外、耳に入る音はない。
自然のささやきが心地よく、ささくれだっていた気持ちを解してくれる。私はそっと目を閉じ、音に耳を傾けていた。
「悪い!遅くなった!」
突然の声に驚いて目を開けると、カナタがいた。走ってきたのか、息が上がっている。
「大丈夫?何も走らなくても...」
「だって、30分の遅刻だぜ!? ホント焦った」
「何かあったの?」
「普通に寝坊」
あっけらかんと答えるカナタ。私は、聞かなきゃ良かったと、思わず顔をしかめた。
「もう...」
「で、どうしたんだよ」
「んー。実はね...」
私は今日の出来事をカナタに話した。最初はぽつりぽつりと言葉を選びながら話していたが、一度口にしてしまえば感情と共に言葉が溢れて止まらない。私が話す間、カナタは一言も声を発することなく、静かに相づちをうってくれた。
すっかり喋り尽くした時には、私は泣いていた。苦しいもの全てを、洗い流すかのように。
「ごめん...急にこんな話...」
「謝ることはないさ。少なくとも俺は、リカから話を聞けて良かったと思っているよ」
頭をぽんぽんと撫でてくれる手が温かくて優しくて、私の涙は止まることを忘れてしまった。気づけばカナタの胸で泣き続けた。小さい子どものように人目もはばからずに。
「リカ...辛かったな。大丈夫だ。この中なら...エデンなら...誰もリカを傷つけたりしないからな」
背中を撫でる手の心地良さに、私は考えることを放棄した。
いつしか涙も止まり落ち着きを取り戻す。公園の中は相変わらず私たち二人しかいない。それ以前にここは空想の世界。どれだけ泣いて誰に見られても恥ずかしくなどない…はずなのだが、カナタにまっすぐ見つめられると、自然と目を逸らしてしまう。
「大丈夫か?」
「うん。もう大丈夫」
彼からゆっくりと離れれば、カナタは私の手を握った。
「なあ、リカ。一つだけ聞きたいことがあるんだ」
「…何?」
「どうしてリカは、『この世界』を選んだんだ?」
質問の意図が分からず沈黙する。『この世界』とは、エデンのことだろう。なぜエデンに来たかということだろうか?
「エデンは、自分の好きな世界に出来る。例えば、俺もリカも高校3年生じゃなくていい。大人にも、小学生にもなれる。もしくはゲームみたいに現実とは全然違う世界に作り変えることも可能だ。…なのに、どうしてリカはこの世界を望んだんだ?リカのいる現実とそう変わらない世界を」
私は、何も言えなかった。どうして突然そんな質問を?とか、私の想像力が乏しいからだよ。とか、いくらでも答えられたはずなのに。カナタの問いは、そんな簡単に、軽い言葉で片付けていいものではない気がする。
私は、この世界に何を望んだのだろうか。
「…ごめん。困らせるつもりじゃなかったんだ」
無言で考えていれば、カナタは眉をへの字にしている。私より、カナタの方がよっぽど困り顔をしていた。
進路のこと、家族のこと、エデンのこと。
考えなきゃいけないことが山のようにあるのは分かっていたが、せめて夏休みくらいは自由に過ごしたいと思っていた。
家の掃除をしたり、好きなものを買って食べたり、佐野とお喋りをしたりした。佐野は迷惑そうな顔をしていたが。
一度だけエデンに行くことも許してもらえた。いつもより短い時間だったが、カナタと一緒に海に行ったり、友人と夏祭りに行ったりした。
8月のカレンダーを半分すぎた頃には残っていた宿題も終わり、暇になった。
現実の友人がいれば…と虚しい気持ちを振り切るために、図書館に通い本をたくさん読んだ。
そうこうしているうちに、もうすぐ夏休みが終わろうとしていた。
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