フランシス・ベーコン Francis Bacon
*この記事は10年以上前に他のブログで発表していた記事で、2013年のフランシス・ベーコン展に関するものです。今回NOTEに転載することにしました。
もう終わってしまったが、近代美術館のベーコン展。
日本でまとまってベーコンの作品を見る事ができる機会は少ない。今回実物を見て改めて感じるのは、ベーコンに関しては実物と図版の印象が随分かけ離れるということだ。サイズ感が大変重要で、大きさがあってこそと感じた。
ベーコンの絵は大変特徴的であるために、図版で見て作家の個性を理解したと感じていた。ラフに言うと「あ〜、あ〜ゆう絵の人」という像を持っていたのだが、実物を見てそんなイメージを持っていたことが少し申し訳ない気になったというとご理解戴けるだろうか。実物はそのようなものだった。
以下、特に感じたポイントをまとめておく。
ベーコンの絵画では、人物が描かれる空間に線が引かれているのだが、その引かれた線は四次元を示唆している。縦横高さ+時間という四次元ではなく、それに+1次元ルディー・ラッカー(http://www.amazon.co.jp/四次元の冒険-第2版—幾何学・宇宙・想像力-ルディ・ラッカー/dp/4875024037/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1369449144&sr=1-2&keywords=四次元の冒険)的に言えば「カタ」方向に一次元加わるという四次元である。

この四次元に関して詳述すると長いので、簡単な例を以下。
平面に球体が通過するとき、3次元にいる我々は、点→円が大きくなり→円が小さくなり→点、という軌跡を平面上に見ることとなる。これは2次元平面にいる存在にとっては、点→線が長くなり→縮み→点、という現象となる。とはいっても二次元存在が平面を動く事ができるとすると、彼らもこれが、円的現象であることは理解する。
さて3次元を4次元球体が通過するとどうだろう?3次元存在であり、その空間を動く事ができる我々の眼には、点→球体がだんだん大きくなり→だんだん小さくなり→点、という現象として知覚される。

4次元存在を仮定すると、彼らには3次元を一つ高次の次元から見ることができるのだから、球体の軌跡を見るときに我々が円の内部をみることができるように、彼らは球の内部を見る事ができる....
簡単だがここで言う4次元はそのような次元の話である。
この4次元に関しては、特にアーティストの間で大きなブームがあった。キュビズムなどはこの影響下にあるし、ダリはしばしば4次元立方体の展開図を絵に書き込んでいる。
ベーコンの絵画も四次元のビジョンを平面に表現する事を指向している様に見える。画面に描かれる立方体的な線は、簡単に言うと、頂点が飛び出しているのか?引っ込んでいるのか?といった騙し絵的手法を用い、四次元を示唆している。
そこに対して主に人物を描くわけであるから、その空間との関係を十分頭において造形をしているのだと考えるのが妥当と思う。人物の4次元ヴィジョンを2次元に展開しようとしているわけである。
このあたり「戦前のムーブメントからベーコンが引き継いできたヴィジョンを彼なりにどう昇華したのか」ということが見所となるわけだが、キュビズムの様にイリュージョンとしてそのヴィジョンを表現する事を超えた表現をベーコンは指向していると思う。彼の画面から感じる、「何か存在の内側を覗くような感覚」はこのヴィジョンの彼なりの作品への昇華である。
彼は晩年に至までこのヴィジョンを捨てていない。後半戦の肉のかたまりがところどころ綻びをみせながら脊髄をあらわにのたうっているような人物は典型的にそのことを物語っていると思う。4次元からは肉体の内部が見えるのである。その肉体の内部が時間の中で現象するその姿が判るのである。説明できただろうか?

四次元の話は置いて、このあたりの晩年の絵を見ると、ベーコンがやはり生前に成功したアーティストであった事を感じる。年を取るに従って、それまで言葉の上であった事、例えば際限のない女性遍歴のような事を実際の行為としていく老人(結果逮捕されたりする)を何例か知っているが、ベーコンも晩年そういう意味でどんどん自由になっていったのではないだろうか?晩年のハード・ゲイ的作品群から、実生活でのエスカレーションを感じる。

さて、今回の展覧に2枚ゴッホを扱った絵画があった。
個人的に今回の展覧での収穫はこの2枚だった。ベーコンにゴッホというより「ヴィンセント」を紹介された気分である。

一つに冒頭で触れた画面の大きさからくる実在感がある。上の絵はその前に立つと、「影を連れて歩くヴィンセントに声をかけたところ、こちらを振り向いた」といった感じがあった。
"サバ〜"
といった具合だが、そのとたんにサイケな世界に引き込まれるのである。
もう一枚、ヴィンセントの後ろすがたを追った絵があった(下)のだが、これなどは、ヴィンセントの後ろについてアルルを一緒にトリップしている風情である。

決して愛想の良い人物ではないし、こちらは彼が少し精神をやんでいて、たまに人に危害を加えることも知っている。
心の隅になんとも言えない不安を持っているからこそ、グンニャリ曲がった風景、その中を進んで行くヴィンセントの後について行くトリップ感。それらを存分に堪能させてくれる一枚である。
これも、絵の中に入って行けそうなサイズで描かれていたことが大きかったのだと感じる。ブログ上で見るようなサイズでは、伝わってこない事ばかりである。
この「ヴィンセントとアルルを散策するモチーフ」の絵は随分点数がある様子だ。
ベーコンの作品群の中で異色ではあるが、ベーコンはこのモチーフが随分気に入っていたのだろう。彼がヴィンセントに感じていた親近感。精神を病んだヴィンセントとヴィジョンを共有することへの憧憬。できればヴィンセントとアルルの土地をヴィジョンを共有して散策してみたかった、というよりも、それを自分の創作として体験し、表現し、ヴィンセントと今ここでシンクロするのだという強い欲望をこの連作から感じる。
この絵を見て、ゴッホの作品が無性に見たくなったのは僕だけではないと思うがどうだろうか?
さて会場ではベーコンの絵からインスピレーションを得たという土方巽とウィリアム・フォーサイスのパフォーマンス映像が流れていた。どちらからも重力から逃れる事のできない肉体の無様さ、存在の哀れさを感じた。
以上遅まきながら。
