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ひと語り、ひと伝て、ひと尽くし 3

そのひとと見た景色 

その日から、その異国のひとは40歳の私の母になった。

ひとはいつかいなくなる。
そのひとと見た景色を見てそのひとを思い出すことがある。
そこにそのひとがいたというだけで
そのひとがいなくなった後でも
その景色を見るとそのひとを想う。
そしてそのひとのことを語りたくなる。

 幼い頃、「大きくなったら何になるの?」って聞かれた記憶はある。でも、何と答えたかは覚えていない…。その頃から計画性のない子だった。それが、そのまま大人になった。たぶん。
 ところで、計画性をもってきちんと生きている人ってどのくらいいるのだろうか?いや、もしかしたら私以外の人は皆、そうしているのかもしれない?計画性のない生き方しかできない奴だから、いつも予想外の展開になるのかもしれない。あっ「予想外」ってのは言葉のアヤです。もともと予想や計画そのものがないわけで。

 ともかく、私にはそういうことが多かった。そういうこととは昨日と同じように朝がはじまって、お昼頃には予想もつかない展開になっていたと、そういうことだ。思い出して見ると、突然の電話で次の年の仕事が降って湧いたというケースが2回。その2回目が、いまの仕事だ。もうひとつのパターンは、降ってきたわけではないが、人に声をかけられてとか、ひとの話に乗ったら予想外の日々が始まったということ。これは何回もあったような気がする。この異国の母の話はあとの方のパターンだ。

 ことの起こりは平成3年(1991年)だったと思う。当時、私は40歳一歩手前で高校教員だった。2年生の担任で担当教科は理科(生物)。「外国」はもちろん「国際協力」ということもどこか遠い世界のことだった。たまたま職員室内を歩いていた時、二十代の国語の先生が何やら見かけない冊子を開いて眺めていた。

「それ、なあに?」

「青年海外協力隊の募集要項。」

「ふーん?受けるの?」

「日本語教師という職種があるので、受けようかなと思って。」

「へー、そういう職種もあるの?」

「いろいろ、ありますよ。受けませんか?」

「えーっ、『青年』だろ。オレ、もう中年だよ。」

「39歳まで受けられますよ。」

 募集要項を見せてもらって、どんな職種があるかと探してみると「ケニア 生態学」というのがあった。

ちょっとドキドキした。

 ケニアについては、20代後半にオートバイで2000kmほどツーリングをしたことがあった。行く先々で親切にしてもらい、印象は良かった。生態学なら、理科(生物)とのマッチングも良い。もしかしたら2年間の経験は良い方向に生かせるかもしれない。そういえば、ツーリングの途中でケニア山に登って、標高4200m地点で高山病でダウンして、同行したアイルランド人に介抱されたということもあった。2年間のうちには、高山病対策をしてリベンジできるかもしれない。などと、だんだん、応募への気持ちが膨らんでいった。

なんだか、あとのことは考えず願書を出した。

 日本語教師を目指した彼はといえば、担当の部活動の地区大会と試験日がぶつかって、受けられなくなった。
 それで、計画性なく行動しはじめた私だけが受けた。神様はときどき(私にはやや頻回に)そんなイタズラをするようだ。

もちろん、落ちた。(神様はこれも予定折り込み済だった?)

 あとで分かったことだが、募集1名に64名応募だったそうだ。

「やっぱり、中年はいらなかったみたいだ。」と、きっかけをつくってくれた国語の先生には報告した。

 そして、「中年はいらないみたい。」という、ちょっぴりいじけた気持ちを残したまま(あとになって思い出すと、これも神様のしかけだったかも?)通常の日々に戻った。 

 ところが、翌年の春になると、青年海外協力隊事務局から頼んでもいない募集要項が送られてきた。当時は、不合格だった者にも次の隊次の「再挑戦への募集要項」が送られてくるというシステムだったらしい。最近は「青年」が取れて「JICA海外協力隊」となり、「青年」と「シニア」があり、さらに「日系社会」という区分も設けられ、4種類、20歳~69歳までとなっている。「再挑戦への募集要項」がいまでも送られて来るのかどうかはわからないが…。ぜひ続けておいてほしいと思う。

 計画性のない奴だから、気を取り直して再挑戦へと、すぐにそういう話には乗り易い。送られてきた募集要項の職種欄を見ると、もう生態学は無く、「動物学」と「植物学」。

 自分はどっち向きだろう?大学生の時に生物科の必修単位の「発生学」を踏み倒し?(大学時代、学業より、オートバイ整備にのめり込んでいたためか、2年生を2回やった。その2度目の2年生の時に、時間割見ながら化学科の必修科目『有機化学Ⅰ』を受けた。計画性のない奴なので、そういうこともフラッとやってしまう。化学科の教授が他学科から受けに来ている学生に手加減を加えてくれたのか?単位が取れた。その4単位が互換され、生物科の必修『発生学』を取らなくても卒業できることになった。その時に学生の間で通称『ピタゴラス通り』と呼ばれていた大学前の斜め小路で、発生学の助教授とばったり。『キミは僕の発生学落としてどうするんだ?』『あっ、有機化学Ⅰが取れましたので、大丈夫です。』と言った場面が懐かしい。助教授の学生を心配してくれる表情と『こいつ、やりやがったな。』という表情が入り混じった顔が妙に懐かしい。もちろん教える身になってから発生学の勉強をやりなおした。)て卒業してきた身なので、どちらかというと「動物学」のリングでは闘えないように思った。

 また、話が、横道にそれてしまったが、けっきょく「植物学」で受けた。一次も受かって、二次試験も受かって、職場の休職の件、2年間単身で行ったきりになることについて家族の了解と、想定されたハードルが次々とクリアされ、気がつくと植物学隊員としてスリランカに派遣されることになった。
 神様は適当に仕掛けをつくってイタズラをやってみたいものらしい。派遣先はBandaranaike Memorial Ayurvedic Research Institute(BMAR、バンダラナイケ記念伝統医学研究所)、植物学隊員の現地での職位呼称はResearch officer(研究員)。あーら、2年間の転職だ。実はこの転職2年間のツケをあとで払わされることになるのだが、想いたどってみると、このツケの軌跡が現在の仕事につながるので神様のワザは恐い…。

 2か月半の国内訓練を受けて派遣された職場はスリランカの旧首都コロンボ郊外のマハラガマという町のナーウインナというところにあった。
 敷地内には薬草となる樹木が植えられ、番号と名前の書かれたプレートが付けられ、敷地全体が薬草園のような研究所。通勤はバス。住居をどこにしようか困っていたら上司が「妹の家が空くのでどうだ?」と言ってくれた。そこは、コロンボと反対側に10数キロ進んだマッテーゴダというところだった。上司に連れられて行ってみるとhousing schemeという建物だった。政策として計画的に建設された住居。日本で言えば公営住宅のようなものらしく、1階キッチン付き1室、2階ベッドルーム2つというコンパクトなもの。閑静な住宅街で、ちょっと田舎で、暮らし易そうだった。結局ここには1年以上住むことになった。住環境としては95点。治安も良く、小さな飲食店や、雑貨屋、電気屋があり、夕方には屋台まで出る。郵便局などは日本への小荷物を送ろうとして行くと、お姉さんが3人いて、クッション材を入れて包み直しををやってくれたり、紅茶まで出してくれる。夜には星空を背景にヤシの木からヤシの木へと飛び交うホタルが見られ、それはまるで星と星の間をつなぐ宇宙船が飛行するかのような幻想光景。離れがたいところだった。

 しかし、最大の問題点があった。

 バスだ。

 行きはマッテーゴダ始発があって、異様な混み具合を別にすればまあまあだった。異様な混み具合というのは、時には(けっこう時々)車体外側にぶら下がらないといけないことだ。ある時、乗ろうとしたら開いたままのドア付近にすでに2人はみ出していた。

 まあ、ここの日常だと思うことにして二人の間に挟まった。バスは発車して、次の停留所まで3人はみ出しぶら下がりで走った。停留所に止まったが、誰も降りない。「じゃあ、なんで止まったの?」と思ったが、それはさらに乗せるためだった。気がつくと最初の3人の後ろにさらに3人乗って、はみ出しぶら下がり6人組が互いに組体操風に手足を絡ませてドア枠とステップにつかまっていた。

 こういう時でも車掌さんは集金に回ってくる。いまはどうかわからないが、当時のバスの車掌さんは、制服なんて無い。ふつうのお兄さんだ。おなかの前にカバンを吊り下げているので、車掌とわかる。時にはカバン無しで右ポケットからチケット出して左ポケットにおつりと集金という人もいた。

 胸ポケットから5ルピー出して支払おうと、もがいていると、後ろの人が落ちないようにからだを支えてくれる。「こんな状況だからおつりはいらない。」と言いたいところだが、車掌さんは律儀に1ルピー硬化3枚を渡してくれる。私の支払いが終わると、今度は私の脇の下をくぐって手が伸びて来て後ろの人の支払いだ。

 ビュンビュン迫る電信柱や街路樹をかわしながら6人はバスとともに6人制団体サーフィン競技(そんなのは実在しないとは思うが…)のように揺れる。すっかり、気分は「インディジョーンズ」の世界だ。楽しいが、たまには「インディごっこ」をお休みして、「明日に向かって撃て」にしてみたいと自転車通勤もしてみた。もちろんハンドルに腰かけて乗ってくれるお姉さんもいないし、バカラックの雨に濡れてもの調べが流れるわけでもない。

定番スリランカの二人乗りスタイル(妻子呼び寄せで来た長女と)

 それどころか、走り出すとディーゼルのトラックやバスのまき散らす黒煙との闘いが始まる。職場に着くとゴマ粒大の黒い乾燥目ヤニ(しっかり排ガスのススをもらっちゃいました)を水道で洗うことになった。

 それではと並行している裏道にトライしたら自転車の前に左のヤシの木からサルが降ってきた。

 オ ー ッ !

と声を上げるまもなく2のサル、3のサル、4のサルと自転車直前でジャンプして道路反対側のヤシの木に跳んで消えた。夢のようなできごとだった。そんなわけで自転車が辛くなったらバス。バスの混雑が嫌になったら、また自転車にということをくり返した。

 ある日、自転車で帰る途中で熱帯特有の突然の豪雨に遭った。しかたなく、近くの家の玄関先で雨宿りさせてもらった。中から、人が出てくると

「එන්න එන්න (エンナ、エンナ。おいでおいでの意味)」

と声をかけてくれた。遠慮なくお邪魔させていただくと、一家でクリケットの試合テレビ中継を観ていた。くたびれたソファーをすすめられ、知らない家族と雨が止むまで過ごした。

「බොහෝම ස්තූතියි(ボホーマ、ストゥティー。どうもありがとう)」

「ආහ්, කමක් නෑ. (アー、カマックネヘェー。あー、かまいませんよ。)」

 なんか、ひと昔前の日本の田舎のような人情?当時のスリランカの人たちの日常的な人あたりの良さだった。

 行きのバスはコロンボに出勤する人たちで混む。帰りはコロンボから校外の住居に向かう人たちで混む。コロンボに住めば職場への移動が混雑の逆向きになるに違いない。

 コロンボで借りられる住居があればと思っていると、うまい具合に任期が終わって帰国する隊員の住んでいたところが空いた。家主はගුණවර්ධන(グナワルダナ)さんという老婦人だった。他の隊員から聞かれる当地の慣習をまねて私もගුණවර්ධනさんをඅම්මා(アンマー。母さん)と呼ぶことにした。

 アンマーは1階に住んでおり、二階には外階段で上がる。二階フロア―の3室と台所、バスルーム2つが私の住まいになった。
 アンマーはたまにどこかから沢山もらった食材をおすそ分けしてくれたり、お茶に招いてくれた。

アンマーと

 なんと息子さんが日本に出稼ぎに行っているらしい。母だけではなく妻子まで日本に残して来ている私と、息子さんが日本に行っているアンマー。
 もしかしたら私がアンマーとティータイムの時に息子さんが日本で大家さんに食事の招待でもされているかもしれない。「なんだか、合わせ鏡のようだな。」と思った。

 4月、スリランカは新年を迎える。ホロスコープ(占星術)をもとに、年明けの時刻や年越し後にどちらの方角に向かって何を行うかなどが発表される。
 アンマーから「一緒に年越しを」と誘いを受けた。1度目の年越しはマッテーゴダで一人ぼっちで過ごした。願ってもないスリランカの一般家庭での年越しを体験できる機会と、アンマーの誘いを喜んで受けた。
 外階段を降りて、アンマーのところに行くと、甘いお菓子と紅茶と、初めて見る四角いものが用意されている。

「අම්මා、මේක මොකක් ද? (アンマー、メーカ モカッダ? アンマー、これ何?)」

「මේක කිරි බත්. (メーカ、キリ バットゥ これはミルクライスだよ。)」

 西洋ではミルクライスと呼んでいるようだ。日本ではキリバスと記載されているものもある。スリランカでは古典的な朝食メニューのひとつであるとともに、新年などの祝い事、特別な日のごちそうとされる。
 私が聞いた範囲ではスリランカのකිරි බත්に用いられるミルクはココナッツミルク。牛乳ではない。

 牛乳といえば、牛はහරකා(ハラカ)と言い、ヒンドゥー教では「神様の乗り物」とされていることもあり大切にされていた。道路にはみ出して寝っ転がっていても、追い払ったりしてはいけない。人も車も避けて通る。 

神様の乗りもの

だが、マッテーゴダに住んでいた頃には水牛を見る機会が多かった。水牛はමී හරකුන්(ミー ハラカ)と言い、水牛の乳でつくったヨーグルトは絶品だった。朝食は水牛ヨーグルトにクゥオリコット(品種名だろうか?)と呼ばれるとろけるような甘味風味のバナナ2本と1杯の紅茶という日もあった。あの日にかえりたい!といまでもときどき想い出す。

マッテーゴダで家の前を通る水牛たち

 話をアンマーに戻そう。最初の方にも書いたが、スリランカの年越しは ホロスコープ(占星術)をもとに、年明けの時刻や年越し後にどちらの方角に向かって何を行うかなどが発表される。

 アンマーがその説明をしてくれ、それじゃあと、二人でそちらの方角に向かってお祈りをすることにした。後日、この話を親しいスリランカ人にしたところ

えっ?今年の方角は違うよ。

おっと、どうやらアンマーと二人であらぬ方角に祈っていたらしい。まあ、私の方は日本にいる時にも方角気にせず恵方巻食べていた奴だから…。

アンマーとの思い出はもうひとつある。

 4月に新年を迎えた、すぐあとにウェサック祭というのがある。仏教徒にとって毎月満月の日はポヤデーと言ってお寺にお参りする特別な日なのだが、5月のポヤデーはさらに特別でウェサック祭と呼ばれる。釈迦が生誕したのも、菩提樹の下で悟りを開いたのも、沙羅双樹に囲まれて入滅したのも5月だったということから盛大な祭事となったと言われる。
 一般家庭でも多数のカラー電球を軒にぶら下げて派手に電飾が輝く夜となる。
 アンマーの家は私の住んでいた二階部分の床三分の1くらいに大きなバルコニーがあって、もちろん泥棒除けの「とげとげフェンス」を回しているのだが、熱帯特有の豪雨が降ると天空を走る稲光、1、2時間で雨が止むと満点の星、少し離れたヤシの木の林には星間を渡る宇宙船のように蛍、南の方地平線近くに南十字星(らしきものが見える?)という天空ショーを楽しむことができて私のお気に入りだった。

私のお気に入り とげとげフェンスのバルコニー

 アンマーは毎年、そのバルコニーのとげとげフェンスにカラー電球を這わせ、電飾満観にしているのだという。
 それならと私ものりのりで二人でカラー電球のいっぱい付いたタコ足配線の束電線をもってバルコニーに出た。
 二人は夕闇を待って嬉々としてとげとげフェンスに電線を這わせ、電球を引っかけ始めた。夕闇迫る中なので

もう、電球の端はコンセントにつないである!

どう考えても、二人とも何か大事なことが抜けていた。そうしているうちに熱帯特有の突然の雨が、

急げ、急げ

と二人で点灯している電球持ってバルコニーを走りまわっていると、

「ぎゃんっ!」私の声だ。

 電線の被覆の一部に亀裂でもあったのだろう?それに雨水が加わって感電条件見事に揃って、しっかりと当地の230Vの電気をいただいて、肘の尺骨神経に撃たれるような重い衝撃をくらって電球を落とした。

「හරි ද?(ハリダ? 大丈夫?)」
「electricity එනවා (エレクトリシティ、エナワ。 電気が来た)」「ප්රවේසම් වන්න(パリッサム ウェンナ。 気をつけなさい。)」
「ඔව්(オウ。 はい。)」

そんな、暮らしも、いよいよ派遣期間2年間の任期終了が近づいて、私は帰国の荷造りを始める。アンマーの家を去る日。

帰国準備でご飯つくっている時間もないだろう。

アンマーがカリーを差し入れしてくれた。

スリランカでの最後のカリー

私がスリランカで食べた最後のカリーになった。

【  余  話  】

 私の勤務する 学校法人ジオパワー 学園 掘削技術専門学校 には学生寮が併設されている。寮母さんが住み込みで、月曜日から金曜日まで3食つくってくれる。
 ちょっと今日の昼食を紹介 

韓国風あまから豚肉温玉のせ


 ところで、掘削技術専門学校が11月27日(木)STV(札幌テレビ)夕方のどさんこワイド生中継のされました。
 


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