土に還る
山の中に住むじいちゃんは病院で膀胱がんと言われた。
手術を勧められたが嫌だと言って私の診療所に逃げてきたの一昨年の2月。
やがて進行した癌は両側の尿管(腎臓から膀胱まで尿を運ぶ管)を巻き込み、両方の腎臓から尿がうまく流れなくなった。
腎後性腎不全という状態である。
尿を体外に排出できなくなれば、尿として捨てられるべきゴミが血液中に回り始める。
いわゆる尿毒症であり、間違いなく死に至る病だといえる。
排出されるべき水分も身体に溜まり始め、秋には腹水が、さらに足にも水が溜まりぱんぱんに腫れた。
腎後性腎不全に加えてがん性腹膜炎。
残念ですがもう長くはありません。お正月は迎えられないと思います。
嫌な言い方かもしれませんが、覚悟をしておいてください・・と言ったのが昨年の秋。
ところが、どれだけ遅くても年内にはやって来るだろうと思ったお迎えは年が開けても一向に来る気配はなく、そのうち何故か足の腫れは次第に改善してゆき、腹水さえも心なしか少なくなった。
何事もなく普通に春を迎え、それどころか夏までも続いてやってきた。
お~いお迎え、どこで迷子になってるんだぁ~?
正月は迎えられません、覚悟しておいてくださいなどと大見得を切った私のメンツはどうなるんだ。
そして8月、誰ひとり予想できなかったもう一回の誕生日を迎えた1週間後、夕食を普通に食べ、家にいた誰も気がつかないほどに静かに、その夜のうちに息を引き取った。
まるで回りを囲む山々の中に静かに溶け込んでしまったかのように。
補聴器の電池、どこかに行ってしまった・・それがじいちゃんの最期の言葉だったらしい。
病院での最期がどこか荒々しいように思えるのは、死ぬ準備に入った身体に対し、助けるための医療技術でもって戦いを挑んでしまうからではないのか。
戦いの場は間違いなく荒廃する。
病気と医療の戦場となる身体も同じだ。
自然にはあり得ないほど、ひどく傷めつけられてしまう。
勝ち目のない戦いを続け、結果として身体を傷つけ続けることが本当に医療の目指すところだと考えているのだろうか。
何もしないで見ていることに自分の中で答えを見いだせないから、無駄だと知りながら何となく自分の持っている技術で対抗しているだけではないのか?
すべてがじいちゃんのような穏やかな最期でないことは言うまでもないが、私は病院の医療者達に、このじいちゃんのように大した医療も受けないまま生活の中で静かに旅立っていく命があることを知ってほしいと切に願っている。
