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【短編小説】バックアップ中に寝ただけなのに

「一瞬、意識が飛んだだけだった」

 そう自分に言い聞かせることが、これほどまでに虚しい行為になるとは思わなかった。
 デジタル化された永遠の生において、「眠り」は生理現象ではなく、データの整合性を保つための「儀式」だ。そして「うたた寝」とは、その儀式に対する最も卑俗で、取り返しのつかない冒涜だった。

 その日、私──エリアスは、人生の、いや「存在の全記録」における最高の到達点にいた。

 仮想都市『ネクサス・セクター』。そこは、かつての物理世界では王侯貴族ですら望めなかった贅を尽くした、純粋な意識の楽園だ。私は100年にわたる過酷なデータ・マイニングと、幾多のコード抗争を勝ち抜き、ついに最上位居住区である『オリュンポス』の市民権を手に入れたのだ。

 だが、それ以上の報酬があった。

「エリアス、私たち、ついに辿り着いたのね」

 隣で微笑むのは、ソフィアだ。彼女とは、荒廃した下層アーカイブで出会って以来、数えきれないほどの時間を共に過ごしてきた。私たちは、互いの意識のコアを共有し、深層心理までをさらけ出し合う「ソウル・同期」の儀式を済ませたばかりだった。それはデジタル世界における究極の結婚であり、2つの魂が不可分であることを証明する聖なる契約だ。

「ああ。これからは、誰にも邪魔されず、この輝きの中で永遠を過ごせる」

 私たちは、オリュンポスの白亜のバルコニーから、黄金色に輝く情報の海を眺めていた。風さえもが計算され尽くした心地よさで、私たちの仮想的な肌を撫でる。
 これ以上の幸福は、演算不能だ。私はこの瞬間を、この揺るぎない歓喜を、永遠に固定しなければならないと思った。

 私は、ネクサスの市民に義務付けられている「定期バックアップ」のコンソールを開いた。
 重要なイベントの後には、必ず「ゴールド・イメージ黄金の保存点」を作成する。それが、システム・クラッシュやウイルス感染から自分を守るための、唯一の手段だからだ。

「ソフィア、先に休んでいてくれ。バックアップを済ませたら、すぐに隣へ行く」
「ええ、待っているわ。私たちの新しい人生の、最初の夜を」

ソフィアは愛おしげに私の頬に触れ、寝室へと消えた。私は彼女の温もりの残滓を感じながら、バックアップの実行キーを押し、自分自身の意識を「休眠モードドーマンシー」へと切り替える準備に入った。

 バックアップのプロセスは、大きく分けて2つの段階がある。
 第1段階は「スキャン」。現在の意識の状態を、一時的なバッファに書き出す作業だ。
 第2段階は「コミット」。バッファのデータを正規の保存領域に書き込み、休眠中の意識と照合ベリファイする作業である。

 システム・ガイドには、赤字でこう記されている。

『警告:スキャン開始からコミット完了まで、ユーザーは「完全休眠モード」を維持すること。微細な意識の揺らぎは、ハッシュ値の不一致を招き、データの破損データ・コリプションを引き起こす恐れがあります』

 私は、背もたれに深く身を沈めた。
 「完全休眠」のコマンドを打ち込もうとした、その時だった。
 あまりの幸福感。そして、百年にわたる苦労が報われたという圧倒的な安堵感。
 私は、ほんの数秒、瞼を閉じた。

「……あ、いけない」

 意識がふっと軽くなった。
 それは正式な「休眠」ではなかった。ただの、心地よい、微睡《まどろ》み。
 意識の表層で、今日1日の出来事が走馬灯のように、だが曖昧に反芻される。ソフィアの笑顔、オリュンポスの光、契約の瞬間の高揚……。
 脳内(といっても仮想の演算領域だが)で、夢と現実が混ざり合う。

 「うたた寝」だった。

 時間にして、わずか3分の出来事だ。
 ガクンと頭が揺れる感覚で、私は目を覚ました。

「……しまった」

 慌ててコンソールを見る。バックアップの進捗バーは、すでに99パーセントに達していた。
 だが、そこには不穏なエラー・メッセージが明滅していた。

【通知:書き込みプロセス中に、非同期のニューラル・ノイズを検知。チェックサムに不整合が発生しました】
【警告:バックアップ・データ「Image_2050_Final」は、不完全な状態で保存されました】

 私は舌打ちをした。

「うたた寝のせいで、ノイズが混ざったか……。まあ、いい。もう一度やり直せば済む話だ」

 私は作業をやり直そうとした。
 だが、その瞬間、私の視界が激しく歪んだ。

「……っ!? なんだ、これは」

 平衡感覚が失われ、色彩が反転する。
 言葉がうまく思い出せない。先ほどまで隣にいた女性の名前……ソフィア。彼女の名前はわかる。だが、彼女と今日、何を話したか? どんな誓いを立てたか? その「質感」が、霧のように消えていく。

 気づけば、私の意識そのものが、激しく明滅《フリッカー》していた。
 先ほどのバックアップ失敗の影響だ。スキャン中に私が「うたた寝」をして夢を見たことで、現在の「アクティブな意識」と「バッファに書き出されたデータ」の間に、致命的な論理矛盾が生じてしまったのだ。

 私の記憶のセクターが、次々とデッドロックを起こしていく。

「まずい……このままでは、精神が崩壊する」

 パニックに陥った私は、震える指で「緊急修復《エマージェンシー・リペア》」のコマンドを叩き込んだ。
 システムが冷徹な音声で答える。

『現在のアクティブ・データは著しく破損しています。自己修復は不可能です。システム整合性を維持するため、ユーザー個体を「最後に検証された安定した保存点」まで、強制的にリストア復元します。実行しますか?』

「ああ、やってくれ! 早く!」

 私は、その「最後に検証された安定した保存点」が、いつのものかを確認する余裕さえなかった。
 どうせ、今朝のデータだろう。あるいは、昨日の。
 オリュンポスに来る前のデータに少し戻るだけだ。ソフィアとの記憶を失うわけじゃない。
 私はそう信じて、実行キーを叩いた。

 視界が真っ白に染まった。
 意識が、凄まじい速度で過去へと逆流していく感覚。
 データの荒波に揉まれ、私は深い闇へと沈んでいった。

 目が覚めると、私は見覚えのない、酷く薄暗い部屋にいた。
 空気が重い。壁には剥き出しの配線が走り、窓の外には灰色の雲が垂れ込めている。

「……ここは?」

 私は自分の手を見た。
 今の私は、オリュンポスで纏っていたような洗練されたアバターではない。使い古された、ノイズ混じりの安価な初期アバターだ。

 足音が聞こえた。
 部屋の扉が開き、一人の女性が入ってくる。
 彼女を見た瞬間、私の胸は激しく高鳴った。

「……ソフィア」

 だが、彼女の表情は、私が知っている「ソフィア」ではなかった。
 彼女は、驚きと、そして深い悲しみが混ざり合ったような目で私を見ていた。その手には、高価なシャンパングラスが握られている。

「エリアス? ……あなた、まさか」

「ソフィア、何があったんだ? ここはどこだ? 私たちは、オリュンポスにいたはずじゃ……」

 私がそう言った瞬間、ソフィアの手からグラスが滑り落ちた。
 結晶化されたアルコールが床に散らばり、虚しい音を立てる。

「……嘘。嘘よ、エリアス。……あなた、リストアしたの?」

 彼女の声は震えていた。
 私は慌てて、自分のステータス・ログを確認した。
 そして、その日付を目にした瞬間、私の思考は完全に停止した。

【リストア完了:復元ポイント『Gold_Image_Initial』】
【日付:2050年1月1日】

「……100年前?」

 膝から崩れ落ちそうになった。
 私が「最後に検証された安定した保存点」として選択したのは、今朝のデータではなかった。
 それは、私がこのネクサス・セクターにアップロードされた直後、100年前に作成された、唯一の「メーカー保証付きのクリーン・データ」だったのだ。

 それ以降の百年間、私は一度も「正式な」ゴールド・イメージを作成していなかった。
 日々のバックアップは、常に増分データ差分として上書きされていたに過ぎない。そして今回の「うたた寝」によるエラーが、その100年分の増分データのチェーンをすべて破壊してしまったのだ。

「エリアス……。私のことが、わかる?」

 ソフィアが、私の前に膝をついた。
 私は彼女を見つめる。

「わかるよ。ソフィア。君は……僕が、ずっと憧れていた人だ。下層セクターで、いつか声をかけようと思って、遠くから見ていた……」

 ソフィアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「……違うわ。私たちはもう、そんな関係じゃない。私たちは……」

 彼女は、自分の左手を見せた。
 そこには、今日の夕方、私たちが交わした「ソウル・同期」の紋章が、誇らしく、そして残酷に輝いている。
 だが、私の左手には、何もない。
 リストアされた私の魂は、彼女と出会って間もない頃の、未熟で臆病な「エリアス」のままなのだ。

「私たちは……一緒に百年の苦難を乗り越えたのよ。二人で力を合わせて、泥水をすするような生活から、このオリュンポスまで這い上がってきたの。……今日、私たちは一つになったばかりだったのよ」

 彼女の言葉の一つ一つが、私の知らない「私の歴史」だった。
 私には、彼女を愛しているという「知識」はある。
 だが、彼女と共に歩んだ百年の重み、彼女の体温、彼女と交わした数えきれない言葉の記憶……そのすべてが、私の内側から消え失せていた。

 私にとって、彼女はまだ「高嶺の花」だった。
 だが彼女にとって、私は「生涯を共にする最高の伴侶」なのだ。
 この決定的な、絶対的な、100年の断絶。

「エリアス……思い出して。お願い」

 ソフィアが私の肩を掴み、激しく揺さぶる。

「あなたが私にプロポーズした時の言葉を! 30年前にシステム障害で消えかかった私を、あなたがどうやって救ってくれたかを! ……全部、忘れてしまったの?」

「ごめん……。ごめん、ソフィア」

 私は泣きながら謝ることしかできなかった。
 私のメモリの中には、彼女が語るエピソードを裏付けるデータは一切ない。
 私は、自分が苦労して手に入れたはずの「オリュンポス」の豪華な家具に囲まれながら、自分がどこの誰かもわからない他人の家に迷い込んだような恐怖を感じていた。

 私は、自分のアーカイブを必死に検索した。
 どこかに、断片でも残っていないのか。
 だが、そこにあるのは、完全にクリーンアップされた100年前の自分だけだ。
 唯一残されていたのは、先ほど失敗した「Image_2050_Final」の破損ログだった。

 私はそれを、藁をも掴む思いで開いた。
 そこには、データの塵となった私の「直近の記憶」が、判読不能なノイズとして記録されていた。

「アイ……シテ……ソ……フィア……」

 断片的な音声データが、ノイズと共に流れる。
 それは、私が「うたた寝」をしていた間に、夢の中で発した言葉だった。
 皮肉なことに、その「うたた寝」という一瞬の安らぎが、私のこれまでの百年の歩みを、すべて「夢」へと変えてしまったのだ。

「……エリアス」

 ソフィアは、私を見るのをやめた。
 彼女は立ち上がり、背を向けて窓の外の黄金の海を見つめた。

「あなたは……もう、私の知っているエリアスじゃない。形は同じでも、中身は別の人……」

「そんなことない! 僕はエリアスだ! 君を愛しているんだ!」

「愛している? ……どの『愛』で言っているの?」

 彼女が、冷たい、それでいて壊れそうな声で言った。

「私と共に地獄を歩んだ愛? それとも、ただ遠くから私を眺めていた、無責任な憧れ? ……後者なら、私には必要ないわ」

 彼女は、私との「同期《シンクロ》」を解除するコマンドを呼び出した。
 オリュンポス市民にしか許されない、一瞬の、そして永遠の別れ。

「待ってくれ! ソフィア!」

 私の叫びが届く前に、彼女の輪郭が薄れていく。
 彼女は、私という「空っぽの器」を残して、この部屋から、あるいは私の人生から、去っていこうとしていた。

 ──数時間後。
 私は独り、オリュンポスの広大なリビングに座っていた。

 部屋は、100年前の私には想像もできないほど豪華で、清潔で、美しい。
 だが、ここにあるすべてのものが、私にとっては「身に覚えのない贅沢品」だった。
 私は、自分がどのようにしてこの地位を手に入れたのか、そのプロセスを一切持たないまま、結果だけを押し付けられたのだ。

 私は、コンソールを眺めた。
 そこに表示されている私のステータスは、依然として「最高位市民」だ。
 私は、百年の記憶と最愛の妻を失った代わりに、身に余る富と、永遠の命を手に入れた。

 だが、それは果たして「私」の人生なのだろうか?
 私が「うたた寝」をしてしまった、あの三分の間に、世界は終わってしまったのだ。

 私は、ふと窓に映る自分の顔を見た。
 そこには、100年分の苦労を知らない、若々しく、無垢で、そして絶望的に空っぽな男が映っていた。

「……あ、いけない」

 私は、また微かな眠気に襲われた。
 激しいリストアの負荷と、精神的なショックで、システムの処理が追いついていないらしい。
 私は、瞼を閉じるのが怖かった。
 もし次に目が覚めたとき、また別の何かが消えていたら?
 あるいは、今のこの「絶望」さえも忘れて、ただの幸せな人形になっていたら?

 だが、抗えなかった。
 私は、豪華なソファの上で、再び頭を落とした。

 3分の、うたた寝。

 次に目を開けたとき、私はきっと、自分がなぜ泣いていたのかさえ思い出せなくなっているだろう。
 そして、このオリュンポスの主として、存在しない「昨日」を謳歌《おうか》し続けるのだ。

 それが、このデジタル・パラダイスが用意した、最も残酷で、最も慈悲深い、バグの処理方法だった。

 窓の外では、黄金の海が、何もなかったかのように輝き続けていた。
 100年の歴史を飲み込み、一瞬の夢に溶かしながら。

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やぶ (かたなかひろしげ) 俺はねぇ、饅頭が怖いんだ!俺は本当はねぇ、情けねぇ人間なんだ。みなが好きな饅頭が恐くて、見ただけで心の臓が震えだすんだよ──── ごめんごめん、いま饅頭が喉につっけぇて苦しいんだ。本当は、俺は「一盃のサポート」が怖えぇんだ。