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声を発し、行動を起こすことはできない存在を描くということ〜SHIZUOKAせかい演劇祭 2026〜

GWといえば、SHIZUOKAせかい演劇祭。
石神夏希がアーティスティック・ディレクターを務める1年目の演劇祭。

石神さんのインタビューが、今年の演劇祭を象徴しているような気がする。

「SPAC秋のシーズン 2025-2026」で演出家を選ぶときにも自分の中で大事にしていたことが、“生活者のアーティスト”ということだったんですね。芸術を突き詰めようすると、生活者としての自分と引き裂かれると思うし、けっこうしんどいと思うんです。でも、今までのSPACのように芸術的な高みを目指しつつ、地域住民の方や演劇に必ずしも関わりがない方たちに届くものを作っていくには、この引き裂かれる力はけっこう大事じゃないかと思います。現実的なことで言えば、たとえば自分の子供が通っている保育園の先生たちが作品を観に来てくれたときにポカンとされてしまったことがあって、申し訳なかったなという気持ちと、でも私はこれを作ってこれを観ないと生きていけないから、届いてほしいなという気持ちの両方があり、どうしたらいいんだろうとよく考えます。静岡でやり続けるには必ずしも舞台芸術のファンではない幅広いお客様に作品を楽しんでもらうことはとても大事なことだと思うし、同時にSPACとしての芸術的使命もある。このことを考え続けていると、しんどくて心が折れそうになることもありますが、同時にやりがいも感じている、というのが今の正直な気持ちです。

ステージナタリー『自分と世界の関係をもう一度結び直すために・・・石神夏希が込める"希望の光"』(2026年4月)

分かりやすさと芸術性は相反するものなんだろうか。
いいとこどりをしようとすれば、中途半端にならざるを得ないのだろうか。
そんな悩みながらのSPACの行方を見守っていきたい。

と、思いながらの備忘録。


声なき乳母は何の象徴かー宮城聡『王女メディア』

文明開化の錦絵風の幕がかかる舞台に、一つの高い本棚。左右には灯籠が並ぶ館に、紙袋で顔を隠し、写真を手にした女中が無言で並ぶ歓楽街の一室。
やがて、男たちが世話話をしながら登場し、座興として『王女メデイア』を演じるために女を"品定め"して、意気揚々とメデイアの物語を語り出す。
宮城聡台本・演出の『王女メデイア』は、このような劇中劇の形を取っている。

宮城作品としてはお馴染みの、スピーカーとムーバーの二人一役が、謡の男と動かされる女という構造を取っているのが印象的だ。

物語中、メデイアが子(男)を殺すように、舞台上では女たちが男を殺して回る演出を興味深く見た。

けれど、やはり考えてみたくなるのは乳母の存在だった。
例えば、虐げられた女性たちの中にも、復讐に動いて注目される存在もいれば、何の行動にも移せず本当に世の中の目に留まらない人たちもいる。
遊女には、花魁もいれば、夜鷹もいる。
暴虐非道なその人を恨む人もいれば、かの人を生み出した社会自体を嘆く人もいる。

どのように捉えるか、観客に委ねられているのが心地よい。

故意に作り出された熱狂に感じる恐怖ー『Qui som?─わたしたちは誰?』

個人的に全くハマらなかったのが、カミーユ・ドゥクルティ、ブライ・マテウ・トリアス作『Qui som?─わたしたちは誰?』

冒頭は面白かった。陶器がどのように展開していくのかワクワクした。
ただ、序盤の泥で足が滑って上手く立てない、というシーンの繰り返しが長く感じて、早くも「このテンポ感、ちょっと合わないかもな」と思ってしまった。これはもう、好みの問題で如何ともし難い部分がある。

その後も、サーカス的な凄さはあったものの、イマイチ乗り切れず、極め付けが聴衆を伴った演奏がロビーに繰り出すラスト。

さぁ、自分と向き合おう、社会に違和感をもとう!と焚き付けんばかりの楽隊は、繰り返されるシュプレヒコールのようだった。この熱狂は何?どうしてみんなそんなに熱狂できるの?と、自分の主張とは異なるデモ隊に巻き込まれたような、不快を通り越したもはや恐怖体験だった。

その他、いくつかのストレンジシートを見たけれどこちらもピンと来ず、石神さんの『うなぎの回遊』もいろんなアイデアがまとまりきっていないような印象を受け、総じて来年に期待だな、と思った次第。

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